第二話
「恐らく事故による記憶障害でしょう」
目覚めたシルヴァンの診察を終えた医者は、静かにそう言った。
「……でも、昨日も今日も、シルヴァンは私のことだけを覚えていないんです。そんなことがありえますか……?」
声が震える。アニエスの言葉に、医者は首を横に振った。
「それについてはなんとも……。申し訳ありません」
「………っ」
「どうしてお医者様なのに分からないの?」そう言いそうになるのを、アニエスは必死に飲み込んだ。
「奥様……」
顔を覆うアニエスに、サブリナがそっと寄り添う。その姿を見ていたシルヴァンは、苦しげに顔をゆがめていた。
(私が、彼女を悲しませている)
アニエスは妻だというが、シルヴァンには全く覚えがない。それでも彼女が悲しむ顔を見れば、胸が引き裂かれたように痛んだ。
「それともう一つ。伯爵様の胸元に、見覚えのない痣がございました」
「痣……?」
アニエスは顔を上げる。はらりと、ほつれた髪が頬にかかった。
「十二枚の花弁がある花のような痣です。最初は打ち身かと思いましたが、あまりにも鮮やかなので、気になっています」
シルヴァンが襟元を広げて視線を下げる。たしかに黒い痣が浮かび上がっていた。
「なんだ、これは……」
シルヴァンの顔色が青くなる。アニエスはすぐにその変化に気づいた。
「シルヴァン、大丈夫?」
「あ、ああ……。この痣を見ると、なんだか気分が悪くなって……」
アニエスはシルヴァンの背中をさする。シルヴァンはお礼を言うように、遠慮がちに微笑んだ。
「お体の調子はもちろんですが、痣のことも気になります。何せこのような痣を見るのは私も初めてで……。経過観察のためにも、定期的に診察に通わせていただきます」
「そうしてくださると助かるわ。よろしくね」
医者が一礼をして寝室を出る。サブリナも彼を見送るために、一緒に部屋を出た。
「………」
二人きりの寝室に沈黙が広がる。シルヴァンはぎこちない様子でアニエスを見上げた。
「その……。私たちのことを教えてくれないか?」
「もちろんよ。私たち、幼馴染だったの」
幼い頃から「結婚しよう」と約束していたこと。婚約の話をしたとき、両家の両親が涙を浮かべながら喜んでくれたこと。花が好きだというアニエスのために、シルヴァンが自ら庭に花の苗を植えてくれたこと。
どれも大切な二人の思い出を、アニエスが慈しむように話す。シルヴァンは相づちを打ちながら、まるで誰かの恋物語を聞いているかのような顔をしていた。
「私たちは、そんなに長い付き合いだったのか……。何も思い出せなくて、すまない」
シルヴァンが眉根を寄せって、ぎゅっとシーツを握りしめる。アニエスは手を伸ばし、その拳を包んだ。
「……焦ることはないわ。いつか思い出せる日がきっと来る。そのときになったら、このことは笑い話にしましょう」
「アニエス……」
シルヴァンは笑ったが、眉は下がったままだった。その表情に、アニエスの胸は締め付けられた。
(シルヴァンの悲しむ顔は見たくない。早く、記憶を取り戻させてあげたい)
それは、アニエスの望みでもあった。
アニエスはまず、伯爵邸の書庫に向かった。過去に、シルヴァンと同じように記憶障害を負った人物がいるかもしれない。歴代の伯爵たちの医療記録を辿った。
「……ないわね。お義父様も、お祖父様も、みんな外傷ばかりだわ」
アニエスは必死になってページをめくる。しかしどのページにも、症状のヒントになるような記載はなかった。
「何か他に記録は……」
アニエスは本棚を見上げる。ふと、一番上に置かれている、古びた表紙の本が目に入った。
「古語の本? ええっと……『魔女』?」
今とは違う、古い言語で書かれた本。一部だけ読めたタイトルで、それが昔から言い伝えのある魔女の本であることが分かった。
「伝承の調査についてのような本かしら。……読むには古語に詳しい人が必要ね」
他に目ぼしい本がないか、目を皿のようにして表紙を追っていく。アニエスが懸命に書庫を調べている頃、寝室では老執事のシモンがシルヴァンの世話をしていた。
「……シモン。お前から見て、私とアニエスはどんな関係だったのだろうか?」
「旦那様は、毎朝奥様のために花を摘まれておりましたよ」
シルヴァンが起き上がるのを、シモンが手伝う。
「旦那様も奥様も、お互いを大変想い合っておりました。わたくしども使用人は、それを見ていつも微笑ましく思っていたものです」
「……ならば私は、アニエスに随分とひどいことをしているのだな」
「記憶のことは残念ではございますが……旦那様がお戻りになられた。奥様はそのことを一番喜んでいらっしゃると思います」
シルヴァンはアニエスの顔を思い出す。淡い蜂蜜色の髪と若草色の瞳で、聞いた年齢よりも幼く見えた。
シルヴァンが彼女を覚えていないことを知ったときの、アニエスの傷ついた顔が忘れられない。あの表情を見たとき、まるで心臓に槍を突き立てられたように激しい痛みを覚えた。
「私も、早くアニエスのことを思い出したい……」
「それならば旦那様。日記をお書きになるのはいかがでしょうか?」
「日記?」
「はい。記憶を記すという行為で、何か思い出すことがあるかもしれません」
シモンの提案は、とても良いもののように思えた。早速、手帳とペンを用意させる。ベッドの上で文字を書こうと身をかがめれば、体に痛みが走った。
「……アニエスは、もっと痛い思いをしているはずだ」
痛みを押して、ペンを握る。そして今の想いを綴った。
《目を開けたとき、天使が迎えにきたのかと思った。
初めて会ったはずなのに、なぜかずっと君に会いたかったという気持ちになった。
きっとこれが、一目惚れというものなのだろう。
君のことを思い出せない私を許してほしい。》
日記は、ナイトテーブルの引き出しにそっとしまい込んだ。
――また、夜が明ける。
「おはよう、シルヴァン。今日も気持ちのいい朝よ」
アニエスはカーテンを開け、優しくシルヴァンを起こす。シルヴァンは眩しそうに目を細めながら、アニエスを見た。
「……貴女は、誰だ?」
「………」
アニエスはただ、寂しそうに笑みを浮かべる。
「……大丈夫よ、シルヴァン。私が、あなたの記憶を取り戻してみせるわ」
シルヴァンから見えない位置で、アニエスはドレスをきつく握りしめた。
「……記憶? 貴女は一体何を言って……」
「今日も愛しているわ、シルヴァン」
――あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れない。
まるでそう想いを伝えるように、愛を告げたアニエスの目には強い光が宿っていた。




