第一話
(アニエスが寂しがっていないかな……)
視察からの帰り道。シルヴァン・ペルティエ伯爵は、馬車の中で愛しい妻のことを想った。
もう一ヶ月も会っていない。けれど目を閉じれば簡単に、若葉色の瞳を細めて笑う彼女を思い出せた。
「――おっと」
馬車がぬるりと横に揺れる。昨夜まで嵐が来ていた。そのせいで山道がぬかるんでいるのだろう。
「少しでも早く帰りたいが、事故に遭っては元も子もないからな」
馭者に気をつけて進むよう、声をかけようと思ったときだった。
「ヒヒィィィン!」
馬の高いいななきが聞こえた。異常を感じたときには、馬車が大きく傾いていた。
「ア……」
――アニエス。その名を呼ぶ間もなく、右肩が壁に打ちつけられた。次いで背中が天井に、左肩が壁にぶつかる。全身の痛みの中で、馬車が転がりながら落下しているのが分かった。
「ぐ……!」
馬車が地面に激突したと同時に、シルヴァンの体は外へと放り出される。受け身も取れないまま、岩肌に頭を強打する。揺れる視界の中、シルヴァンは妻を想った。
(アニエス……)
このまま帰らなければ、彼女は泣いてしまうだろう。そんな顔はさせたくない。生き延びようと、必死に手を伸ばした。
しかし、手は虚しく空を掴むだけ。腕がぱたりと地面の上に落ちて、シルヴァンの意識が朦朧とし始めたときだった。
視界の隅に、紫色のローブの裾が映った。
「――おやおや、命の灯火が小さいねえ。最期の言葉はあるかい?」
しわがれた声が聞こえる。ローブの隙間から、白髪が垂れているのが見えた。
「……アニエスに、会い、たい」
シルヴァンの言葉に、その人物はニィっと笑った。
◇◇◇
「奥様! 旦那様がお戻りになりました!」
「―――!」
王都にあるペルティエ伯爵邸。夫の帰還を祈っていたアニエス・ペルティエ伯爵夫人は、使用人の言葉に慌てて玄関ホールへと向かった。
慌ただしく駆け回る使用人とすれ違う。――五日前、馬車もろとも行方不明になっていた主人が見つかった。それにも関わらず、伯爵邸は嫌な空気に包まれていた。
「っ、シルヴァン……!」
捜索隊に担がれたシルヴァンが姿を現す。思わず駆け寄って、顔を覗き込んだ。土気色の顔は血に汚れ、ぐったりとしている。その姿に、アニエスは言葉を失った。
「いや……っ、シルヴァン!」
「奥様! まずは治療が先です!」
アニエスの瞳から涙が零れる。シルヴァンにすがりつこうとする彼女の体を、侍女のサブリナが止めた。アニエスの体は氷のように冷え切っており、夫を失うかもしれないという恐怖で震えていた。
寝室に運ばれているシルヴァンのあとを、医者が追っていく。アニエスはただ、呆然とその後ろ姿を見ていることしかできなかった。
「――奥様。ひとまず処置は終わりました」
廊下で待ち続けていたアニエスに、寝室から出てきた医者が声をかける。時刻はもう、深夜だった。
「不思議なことに、あれだけ出血していたにも関わらず、肋骨の骨折と全身の打撲で済んでいます。一体何があったのか……」
「ああ……! とにかくシルヴァンは無事なのね!?」
「はい。今は意識を失っていらっしゃいますが、じきに目を覚ますでしょう」
医者と入れ替わりで、アニエスは寝室へと入る。ベッドで眠っているシルヴァンは包帯に巻かれ、顔色こそ悪いものの、しっかりと呼吸をしていた。
「……本当に、よかった……」
アニエスはベッドの縁に座り、額にかかるシルヴァンの栗色の髪をそっと払う。そして額に口づけを落とした。
『――アニエス。私と婚約してほしい』
アニエスが十五歳、シルヴァンが二十歳のときだった。彼は、アニエスが好きな淡いピンク色の花束を抱えていた。
『アニエスが好きだ。君を大切にすると約束する。だから、私の婚約者になってほしい』
『……うれしい。私も、シルヴァンが好き』
はにかむアニエスに、シルヴァンの手が伸びる。幼少期以来の抱擁にときめきが止まらなかったのを、アニエスは今でも覚えていた。
「早くあなたの元気な声を聞かせて」
アニエスはサブリナに命じて、ベッドの傍に椅子を持ってこさせた。シルヴァンの目が覚めるとき、一番に傍にいたい。アニエスは寝ずの番をすることに決めた。
「でも……奥様ももう何日もしっかりとお眠りになっておりません。お休みにならないと、体が持ちませんよ」
「あと一日くらいなら大丈夫よ。ありがとう、サブリナ。あなたこそ休みなさい」
椅子に座って、シルヴァンの寝顔を見つめる。そうしているうちに空が白み始めて、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「ん……」
シルヴァンが身じろぎをする。アニエスは近づいて、夫の手をぎゅっと握る。
ようやく愛しい夫が目を覚ます。もう大丈夫だと、怖い思いをさせてごめんと言って、安心させてほしい。
ふるりとまつ毛が震え、シルヴァンの琥珀色の瞳が覗いた。
「目が覚めたのね……! よかった……!」
自然と涙が滲んでくる。泣き笑いのようになったアニエスを見て、シルヴァンは戸惑ったような表情を浮かべた。
「……シルヴァン?」
いつものシルヴァンならすぐに抱きしめてくれるはずなのに、彼はアニエスを見ているだけだ。しかもその瞳には、困惑しているように揺れている。
「――すまない。貴女は、誰だろうか?」
「………!」
雷に打たれたような衝撃とともに、全身から血の気が引いていく。目の前が真っ暗になった。
(……い、一時的に混乱しているだけよ。シルヴァンが、私を忘れるはずがないもの)
アニエスはなんとか笑顔を作る。優しくシルヴァンの肩に手を添え、ベッドに横になるよう促した。
「まだ混乱しているのね。もう一度眠った方がいいわ」
「貴女は……」
「……っ、私はあなたの妻よ。大丈夫。明日にはきっと、良くなっているはずだから」
自分に言い聞かせるような言葉だった。シルヴァンが目を閉じた瞬間、アニエスは唇を噛みしめる。そうしないと不安で渦巻く胸が、どうにかなりそうだった。
「――おやすみ、シルヴァン」
アニエスはシルヴァンの傍を片時も離れなかった。時折、彼が生きていることを確かめたくて、その口元に耳を寄せた。
――そしてまた、朝が来る。
「おはよう、シルヴァン。気分はどう?」
「………」
目覚めたシルヴァンは、驚いたようにアニエスを見ていた。
「どうかした? どこか痛む?」
「あ、貴女は誰だ? 私は一体……」
「………!?」
まるで初めて彼女を見たかのようなシルヴァンの反応に、アニエスは動揺を隠せなかった。




