第46話
グラウスは、泥の上に倒れたまま動かなかった。
そのすぐそばで、フィーアが膝をついている。両手をグラウスの胸元に押し当て、そこへ強い光を流し込んでいた。いつもの淡い回復魔法より、ずっと濃い。白い光が破れた服の奥へ染み込み、胸や肩を包んでいく。
そこへ、レザルヴァンが向きを変えた。
足元の水が白く跳ねる。大きな体が一度沈み、次の瞬間には、泥を蹴って前へ飛び出していた。岩を砕いた前脚が地面を押しつぶし、低い姿勢のまま、グラウスとフィーアへ一直線に向かっていく。
エイルの魔法は群がる小さな魔物を撃ち落としていた。虫のようなものが跳ねれば、光が胴を貫く。泥をまとった獣が横から飛び込めば、地面ごとえぐり飛ばす。
それでも、全部は止めきれていなかった。
一体を落とした端から、別の影が泥の上を走る。エイルの光はそちらへ向かう。けれど、その間にもレザルヴァンは止まらない。フィーアは治療から手を離せず、グラウスは起き上がれない。
誰も、レザルヴァンの前に入れない。
そう分かった瞬間、足が勝手に前へ出た。
怖さが消えたわけではない。膝はまだ重いし、息も浅い。手の中にある剣の感触も、さっきより少し遠い。
それでも、グラウスが死ぬと思った。それだけで、体が動いた。
「グラウス!」
喉が擦れて、まともな声になっていなかった。
泥の上を走る。靴が滑り、足首が取られそうになる。前でレザルヴァンの体がさらに低くなり、首から肩にかけての光が強くなった。
間に合わない。このまま走っても、俺の足では届かない。
頭の中でそう分かった時には、右手が剣を後ろへ引いていた。
まともに狙えたわけではない。ただ、顔へ向けた。グラウスへ向かって突っ込んでいく、その顔へ。
腕に残っている力を全部使って、剣を投げるも剣はきれいには飛ばなかった。
刃が少しぶれ、柄が揺れる。それでも、レザルヴァンの方が突っ込んできていた。俺が投げた剣と、向こうの勢いがぶつかる。
鈍い音がして、レザルヴァンの頭が大きく跳ねる。
投げた剣は、右目のあたりに突き立っていて、刃のほとんどが見えない。柄の近くまで入り込み、レザルヴァンが頭を振っても抜けなかった。
突進が止まると大きな前脚が泥を削り、水が横へ飛んだ。レザルヴァンの体が傾き、俺のすぐ前で止まりきれずに地面をえぐる。
俺は勢いのまま転びかけ、手をついて踏みとどまった。グラウスとフィーアが後ろにいる。
俺は立ち上がり、両手を広げた。武器もないのに、そんなことをしても意味があるのかは分からない。ただ、気がついたときにはそうしていた。
レザルヴァンの左目がこちらを向き、喉の奥で湿った音がした。
「ふざけんな」
口から出た声は、思っていたより低かった。
レザルヴァン前脚が持ち上がり、俺の体より大きい爪が、上から落ちてくるのが見えた。避けるには近すぎる。受けるものもない。
終わったと思ったとき、横から影が入り込んで、金属がぶつかる音が耳のすぐ近くで鳴り響く。
俺の目の前でレザルヴァンの攻撃を防いだのは、倒れていたはずのグラウスだった。
グラウスの剣が、レザルヴァンの前脚を受けていた。受け止めた瞬間、グラウスの膝が落ちる。肩が大きく沈み、息が詰まったような音が漏れた。
それでも、剣は折れていない。レザルヴァンの攻撃も俺達には届いていない。
「やってくれるじゃねぇか」
グラウスの声はかすれていた。いつもの調子に聞こえるのに、呼吸が荒い。
「グラウス……!」
「後ろ下がってろ。邪魔だ」
フィーアの光が、グラウスの背中にまとわりつくように流れている。回復魔法がかかっているのは分かる。それでも、グラウスの動きは重かった。剣を押し返す腕が小さく震え、足は震えている。
無事なわけがないよな。さっき吹き飛ばされて、木にぶつかって、倒れていたんだ。こうして起き上がっている方がおかしい。
それなのに、グラウスはレザルヴァンを見ていた。
その背中を見ていると、胸の奥で何かが引っかかった。
さっきまで俺を引きずり込もうとしていた暗さが、なくなったわけではないけれど、少しだけ明るくなったような気がしてきた。
「右目です!」
エイルの声が飛んだ。
いつもの控えめな声ではなかった。水の音と怒号の間を抜けて、はっきり届く。
「右側からの反応に遅れています!」
エイルの杖から光が走ると、魔法がレザルヴァンの右側面へ続けて刺さる。右前脚、肩、首の下。レザルヴァンは頭を振ろうとしたが、右目に刺さった剣の柄が揺れ、動きがわずかに乱れた。
傷の周りが淡く光る。でも、塞がらない。
剣が邪魔をしているのか、右目のあたりの光だけが不自然に滞っていた。肉体を戻そうとしているのに、戻しきれないように見える。
「右だ! 右側へ攻撃を集中させるんだ!」
職員の声が響いた。
それを合図に、周囲の冒険者たちが動きを変えた。盾を持った冒険者が正面へ出て、槍を持った冒険者が右側へ回る。弓の矢も、魔法の光も、レザルヴァンの右側に集まり始めた。
レザルヴァンが顔を向けようとするたびに、エイルの魔法が顔の右側へ入る。強い一撃ではない。けれど、何度も、同じ場所を邪魔するように光が走る。
レザルヴァンの喉が膨らんだ。
草が倒れる前に、グラウスが横へずれて職員も叫ぶ。盾を持った冒険者たちが一斉に身を低くした。
次の瞬間、空気が押しつけられ、俺の前の泥が、弧を描いてえぐれる。水が低く弾け、折れた枝が横へ飛んだ。
けれど、狙いがずれていた。
誰かがまともに吹き飛ばされた音はしない。正面を潰すはずだった魔力の圧が、右側の死角のせいで半端に外れたのだと、遅れて分かった。
「今です!」
エイルが叫んだ。
光が、レザルヴァンの顔へ集まる。
グラウスが動いた。速いのに、どこか無理をしているような動きだけれど、足を踏み出すたびに、フィーアの回復魔法の光がグラウスの背中で強くなる。
グラウスはレザルヴァンの右前脚の懐へ入り、泥で固まった毛の下へ剣を入れた。レザルヴァンの体が揺れる。グラウスは止まらず、前脚から肩へ、斬りつける場所を変えながらその巨体を登っていく。
巨大な体へ正面からぶつかるのではなく、斬った場所を足場にするみたいに、グラウスはレザルヴァンの頭部へと近づいていく。
レザルヴァンが頭を振る。
エイルの魔法が、その顔面へまとまって入ると光が弾け、レザルヴァンの動きが一瞬だけ止まる。
その一瞬に、グラウスが空を舞い、空中で剣を両手で握り直すのが見えた。
次の瞬間、グラウスの剣はレザルヴァンの頭部へと深く入った。
レザルヴァンの体が大きく跳ねて、首から肩へ走っていた光の筋が、ばらばらに明滅した。淡い光が強くなり、それから急に弱くなる。
それまで耳の奥で響いていた低い獣の音が、途切れる。
レザルヴァンの前脚が崩れ、巨大な体が傾き、泥と岩を巻き込んで横へ倒れる。地面が震え、足元の水が広く跳ねた。
それと同時に黒い珠のような巣の表面が、同時に崩れ始めた。
絡みついていた虫の脚が止まる。泥をまとった獣が、途中まで這い出した姿勢のまま崩れている。さっきまで周囲で動いていた小さな魔物たちも、糸が切れたように地面へ落ちていって動かなくなった。
水の上に浮いていた黒い塊の一部が剥がれ、泥と死骸が混ざって下へ落ちる。広場に残ったのは、濁った水の音と、倒れたレザルヴァンの大きな体だけだった。
誰もすぐには声を出さなかった。
俺は、何も持っていない右手を見た。指が震えている。剣を投げた時の感触が、今になって少し戻ってきた。
手が、痛い。
生きている。
同時に、討伐隊一同は地面が割れんばかりの歓声を上げた。
「勝った……のか?」
そう思った瞬間、前の方で何かが倒れるのが見えた。
グラウスだ。
レザルヴァンのそばに立っていたはずのグラウスの体が、膝から崩れ、泥の上へ落ちる。
「グラウス!」
フィーアの声が、さっきより近くで響いた。気がつくと、フィーアは俺の横から駆け出して、グラウスのそばに行く。俺もそれに続いてグラウスの側に駆け寄った。




