第45話
隙間の奥にある暗い空洞の内部が動いた。
最初は、そう見えただけだと思った。けれど、黒ずんだ球のような塊の表面が、内側からゆっくり押し上げられた。
押し込められていた虫の脚がばらばらに動き、小さな獣の背中が外へ向かって盛り上がる。泥にまみれた毛が裂けるように開き、その奥の暗い穴が少しずつ広がっていった。
中から、低い息のような音がした。
水の音とは違う。獣が喉の奥で空気を押し出すような、湿った音だった。
「下がるな。構えろ」
先頭の職員が低く言った。
誰も大きな声を出さなかった。出せなかったのだと思う。
黒い塊の中で、何かが体を起こした。
表面に絡みついていた生き物たちが、内側から押されてずれる。虫が潰れ、獣のようなものが外へ引きずられ、泥と毛と薄い膜のようなものが水の上へ落ちていく。
その奥から、前脚が出た。細い、と思った次の瞬間、その脚の大きさに気づいて息が詰まった。細いのに、俺の胴より太い。長い爪が岩に触れると、白く砕けていた水が一瞬だけ横へ散った。
次に、頭が出た。狼か、山犬か。形だけなら、そういう獣に近かった。けれど、大きすぎる。
巣の中に収まっていたから分からなかっただけで、開けた場所へ出てくると、その体は周囲の木よりは低いのに、目の前の空間を押し潰すみたいに大きく見えた。
毛並みは泥と古い血で固まり、片側の肩がひどく歪んでいる。肋骨のあたりの形もおかしい。
それなのに、首から肩、前脚にかけて、毛の奥に薄い光の筋が走っていた。血管みたいな光だ。
「——レザルヴァン……」
誰かが、息を吐くように言った。
「——群れで狩るやつだぞ」
「——単独か?」
「——ありえねぇ。群れから外れたら狩りができねぇ! 長くは持たないはずだぞ!」
断片的な声が前の方から聞こえた。
レザルヴァン。その名前だけが、耳に残る。
死にかけているように見えるのに、死んでいない。
レザルヴァンの目が、ゆっくり開いてこちらを向く。
目の奥に、強い意思があるようには見えなかった。そこに残った光が、今にも尽きそうに見えた。
「魔力が……」
後ろでエイルが小さく言った。声が震えていた。
「レザルヴァンにしては、多すぎます……」
前列の冒険者たちが、盾や武器を構え直す。声が増えたわけではないのに、周囲の空気だけが固くなった。
「こいつが今回の元凶だ! 前衛、出ろ! 後衛は散るな! 隊列を整えるぞ!」
職員の声が飛ぶ。
次の瞬間、グラウスが前に出た。
フィーアとエイルが、その少し後ろにつき、フィーアの手には淡い光が集まり、エイルは杖をレザルヴァンへ向けていた。
俺は、そこへ続こうとして、足が止まった。違う。俺が行く場所ではない。
前へ出たのは、強い冒険者たちだ。グラウスだけではない。盾を持った大柄な男、長い槍を構えた冒険者、弓を引く後衛。全員が、レザルヴァンだけを見ている。
俺がそこへ行っても、邪魔になる。
そう考えたところで、黒い塊の表面がまた動いた。
レザルヴァンが抜け出したあとに残った巣の表面から、小さなものがいくつもこぼれ落ちる。
虫もいれば、獣もいる。泥の塊にしか見えないものもあった。
さっきまで塊の一部にしか見えなかったものが、水と岩の上へ落ち、ばらばらに動き出した。
「周りからも来るぞ!」
誰かが叫んだ。
低い草の中からも音がした。木の根の向こう、泥の筋の先、倒れた死骸のそば。いろんな場所から、何かが這い出してくる。
強い冒険者たちはラザルヴァン以外に目も向けない。
本体に向かえない冒険者たちは、こぼれてきたものを止めるしかない。俺たちの役目はこいつらと戦うことだ。
横から泥をまとった小さな獣が飛び込んでくる。俺は剣を上げた。
真正面から止めない。角度をつける。肩に力を入れすぎない。頭の中に、訓練で言われたことが浮かび、体はぎりぎりで動いた。
獣の肩が剣の腹に当たる。腕に重さが来て、足元の泥が少し滑る。俺は体ごと横へずらし、獣の向きを外へ逃がした。
短く返すと、刃が横腹に入り、獣が地面に落ちた。倒せた、と思った瞬間、足元で黒い虫が跳ねた。
「っ」
剣を下げるには近い。俺は足を引こうとして、後ろに人がいることを思い出した。下がれない。
靴の裏で踏みつぶす。硬いものが割れる感触がして、喉の奥が変なふうに縮んだ。
嫌だと思う暇もなく、次が来る。
前方で、光が走った。
エイルの魔法がレザルヴァンの肩に当たり、泥で固まった毛を裂いた。奥の肉が見えたような気がしたけれど、傷口の周りが淡く光る。
そして、光の筋が脈を打つみたいに広がり、裂けた場所が塞がっていく。
「再生するのかよ……」
誰かが低く吐き捨てた。
レザルヴァンの頭が、その声の方へ向いた。
その瞬間、草が弧を描いて倒れた。見えたのは、それだけだった。
風が吹いたように見えた。けれど、風ではない。倒れた草の先で、盾を構えていた冒険者が盾ごと横へ飛ぶ。背中から木にぶつかり、そのまま地面へ落ちた。
音が遅れて来た。どん、という重い音だった。
「魔力を直接ぶつけてるのか!」
職員が叫び、盾を構え直した。
レザルヴァンは吠えなかった。唸り声すら、ほとんどない。ただ喉の奥が膨らみ、首から前脚にかけての光る筋が一瞬強くなる。
次に何かが来る。そう分かった時には、グラウスが前へ出ていた。
レザルヴァンの顔が向いた先に、グラウスが滑り込む。剣が振られ、空気がぶつかったような音がした。見えない何かの端が、グラウスの剣に当たって散ったのだと思う。
フィーアの手が光り、グラウスの前に薄い膜のようなものが一瞬だけ広がった。
膜が砕け、グラウスの足が泥を削った。それでも、倒れない。
「化け物かよ」
足元の草がまた動く。
俺の相手は、前方の本体ではない。こっちへ来る小さいものだ。分かっているのに、目がレザルヴァンへ行ってしまう。あんなものと戦っているグラウスたちを見てしまう。
「前を見ろ!」
近くの冒険者の声で、俺は顔を戻した。
泥の塊が真正面まで来ていた。遅い。剣を出したが、間に合わない。
泥の塊が膝のあたりにぶつかり、足が取られる。倒れかけたところで、横から槍が伸び、塊を地面に縫い止めた。
「命がおしくないのか!」
「すみません!」
誰に謝ったのかも分からない。誰に怒鳴られたのかもわからない。混沌とした状況だった。
俺は体勢を戻し、次に来た虫を剣先で払う。払った先で別の冒険者が小型の獣を受け、足元を滑らせた。
起き上がる前に、低い位置から別の影が入る。
短い悲鳴が上がった。
さっきまで立っていた冒険者が、地面に倒れている。そばにいた回復役らしい人が膝をつき、手をかざしかけて、すぐにその場を立ち去る。
残された冒険者はやってきた個体によって引きずられていく。冒険者は全く抵抗をしていない。
また一人。そう思うと、胸の奥が冷たくなる。
俺も見ている場合じゃない。そう思うのに、視線がそこから離れない。
倒れた人の手が、泥の上に投げ出されていた。指が少し曲がっている。さっきの茶色の革鎧の男の手と、形が重なった。
次は自分かもしれない。胸の中に冷たいものを入れられたみたいで、息を吸っても入ってこない。
それでも敵は来る。
右から飛び込んできた獣を、剣の腹で流す。流しきれずに肩へ衝撃が来る。痛みで息が漏れた。横腹へ短く返すと、刃が浅く入った。
浅い。倒れていない。もう一度、と思ったところへ、別の虫が足元を走る。足を上げた拍子に泥で滑り、体が傾いた。
怖い。その言葉が、ようやく頭の中にはっきり出た。
怖い。当たり前だ。
人が死んでいる。しかも目の前で。すぐ横で。少し前まで声を出して動いていた人が、次の瞬間には動かなくなっている。
俺だって、そうなる可能性がある。ここにいる人間が平等にその可能性を持ち合わせている。
剣を握っているから、訓練したから、だからって死なないわけじゃない。回復魔法があるからと油断することはできない。
足元の泥が、急に深くなったように感じた。
視界の端が暗くなる。
最初は木の影かと思った。けれど違う。見えている範囲が狭くなっている。前にいる敵だけが大きく見えて、その横の動きが遅れて入ってくる。
音も遠くなるような、いや、実際に音が聞こえなくなっている。剣がぶつかる音。職員の指示。誰かの叫び。水の音。全部が、薄い膜の向こうから聞こえるみたいだった。
手の中に剣の感触はある。あるはずなのに、重さが分からない。
「敵の増援だ……!」
敵を見て、剣を動かす。それだけなのに、一瞬、命令が体へ届かなかった。
獣の影が視界の端から入ってくる。
俺は遅れて剣を出した。間に合わないと思った瞬間、別の冒険者の剣がその影を叩き落とす。
「立ってるだけなら邪魔だ! どいてろ!」
どくって、どこに。
後ろにも人がいる。横にも敵がいる。前にはレザルヴァンがいる。どこへ行っても、誰かが戦って、倒れている。
俺は、何をしているんだ? 剣を持って、その場に立っている?
前方で、また空気が弾けた。
レザルヴァンの攻撃が地面をえぐり、水が横へ飛ぶ。避けそこねた冒険者が意識を失い、それを別の冒険者が引きずってレザルヴァンの前から下がってていく。
フィーアの魔法がグラウスの近くで白く弾け、エイルの光がレザルヴァンの前脚へ突き刺さる。泥の上でレザルヴァンの体がわずかに揺れ、グラウスがその隙間へ踏み込んだ。
しかし、レザルヴァンの傷はまた光る。そして、塞がるり、倒れない。
こっちにも、まだ敵は襲ってくる来る。
黒い珠のような巣の表面から、また何かが落ちた。落ちたものが泥の上で跳ね、虫のように脚を広げる。周囲の冒険者たちがそれを止めようとするが、数が多い。
一人が足を取られて、すぐ近くで声が途切れた。
まただ。また、動かなくなる。一人、また一人と。
俺の息が、そこで詰まった。
視界がさらに狭くなる。
目の前の泥と、敵の脚と、自分の剣だけしか見えない。なのに、それすら遠い。自分の腕が、自分のものではないみたいだった。
怖い。怖い。怖い。もう、その言葉しか残らない。
体の奥から、何かが抜けていく。それは力ではなく、意識の方だった。
戦場に立っているのに、自分だけ少しずつ後ろへ落ちていくような感覚があった。
光の届かない闇の中の暗さが、自分の中にあってそこへ引きずり込まれるような感覚。
剣を握っているはずの手が遠い。足が地面に設置している感触もあまりない。誰かが叫んで、敵が来ていて、俺は動かないといけないのに。そう分かるのに、体が動かない。
その時だった。
「グラウス!」
フィーアの声が、戦場を裂いた。
俺の意識が、落ちかけていた場所から引き戻される。
ぼやけていた視界に、色が戻る。水の白。泥の黒。光る魔力の筋。砕けた枝。倒れた人影。
そして、グラウス。レザルヴァンの頭が、地面に倒れて動かないグラウスの方を向いていた。
レザルヴァンの首から肩へ走る光の筋が、一瞬強くなる。
グラウスはまだ起き上がらない。エイルの魔法がレザルヴァンに飛び、フィーアの回復魔法がグラウスにかかっている。けれど、グラウスは意識を戻さない。
レザルヴァンの前脚が岩を砕き、大きな体が沈む。
次の瞬間、レザルヴァンはグラウスへ向かって突っ込んでいた。




