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第44話

 隊列は、また森の奥へ向かって動き出していた。


 さっきまで戦っていた場所は、少しずつ後ろへ離れていく。振り返ればまだ見えそうな距離なのに、木の幹と低い草が間に入るだけで、もう別の場所みたいに見えた。


 動き出す前、倒れた冒険者には布がかけられた。


 近くの木にギルド職員が短い印をつけていた。別の職員が場所を記録し、あとで回収すると低い声で言った。


 剣の柄を握る指に、余計な力が入る。左腕の傷が痛むからだと思いたかったが、震えているのは右手も同じだった。


 討伐は危ない。それは分かっていたつもりだった。魔物も見た。農場が荒らされたところも見た。昨日から何度も、これは本気の討伐だと言われていた。


 それでも、どこかでまだ、自分の足が地についていなかったのだと思う。


 死ぬかもしれない。そんな言葉を、言葉のまま理解していた。


 さっき、その言葉が現実のものになった。革鎧。転がった槍。土を掴んだままの硬直する手。


 息を吸おうとしても呼吸が浅くなる。


 胸の奥まで空気が入ってこない。


「歩けてるか」


 前を歩くグラウスが、振り返らずに言った。


「歩いてるよ」


 返事をした声は、思ったより小さかった。


 足元を見ると、湿った土にいくつもの足跡が重なっていた。討伐隊のものだけではない。小さな獣の跡や、虫が這ったような細い跡も混じっている。


 枝が鳴って、ただ誰かが踏んだだけの音だったのに、肩が少し跳ねた。剣の柄を握る力がさらに強くなる。


 こんなことで反応していたらきりがない。そう思うのに、耳が勝手に異音を拾ってしまう。


 落ち葉を踏む音。鎧の金具が触れる音。誰かが息を吐く音。どれもさっきまでは隊列の音だったはずなのに、今はその中に別のものが混ざっていないか探してしまう。


 先程の戦闘のあと、後方へ下がる冒険者が何人かいた。


 腕を押さえた人。肩を借りて歩く人。顔色の悪い人。目は開いているのに、どこを見ているのか分からない人もいる。


 その人たちの傷は、ぱっと見ただけではひどくないように見えた。血は止まっているし、裂けた服の下の皮膚も塞がっている。


 それなのに、戦いには戻らない。


「なあ」


 俺は、少し後ろを歩くフィーアに声をかけた。


「何?」


「さっきの負傷者って、回復魔法をかけたんだよな」


「かけらててたわね」


「それでも、戦えないのか?」


 フィーアは一度、後方へ視線を向けた。


 肩を借りていた冒険者が、職員に支えられながら木の根をまたいでいる。足取りは重く、何度も立ち止まりそうになっていた。


「回復魔法は、何でも元通りにする魔法じゃないの」


 フィーアの声は、いつもより少し低かった。


「傷口は塞ぐし、折れた骨もくっつくわ。毒や異物を抜くこともできるし、できることは多いわ。でも、失った血や肉体を全部元通りに戻すわけじゃない。だから完全には元通りにならないのよ」


「……傷が治っても、動けないことがあるのか」


「もちろんよ。体がついてこないこともあるし、意識が戻らないこともある。気がついていないかもしれないけれど、さっきまで死にかけていた人に、立って戦えと言う方が無理な話よ」


 その言葉で、俺は後方へもう一度目を向けた。


 回復魔法があるなら、死ななければ大丈夫なのだと、どこかで思っていたのかもしれない。


 でも、違う。死ななくても、戻らないものがある。


 そう考えた瞬間、剣の柄を握る手がまた震えた。


 俺は手に力を入れて、震えを押さえ込もうとする。けれど、力を入れたせいで余計に指先が固くなった。


「力み過ぎよ」


「え?」


「剣。そんな握り方をしていたら、必要な時に動かなくなるわよ?」


 言われて、自分の手を見る。


 指が白くなっていた。俺は少しだけ力を抜こうとしたが、うまく抜けない。剣を離したくない気持ちと、握りすぎているという感覚が、変なところでぶつかっていた。


「……分かってる」


「分かっているなら、少しでいいから息を整えなさい」


 フィーアはそれ以上何も言わなかった。


 俺は息を吸った。深く吸おうとして、途中で止まる。森の湿った空気が喉に引っかかり、もう一度短く吸っても、やはり浅かった。


 前方で、職員が手を上げたことで、隊列の速度が落ちる。


 誰かが何かを見つけたらしい。だが、前に出る者はいなかった。先頭の冒険者たちと職員が声を落として確認し、隊列全体はその場で止まる。


 誰か一人が先へ飛び出すようなことはしない。みんなで固まったまま、少しずつ進む。


 足元には、泥の筋がいくつもあった。


 ただの水の流れではない。何かが這ったような跡や、引きずられたような跡が、木の根を越えて奥へ続いている。


 低い草の中には、小さな死骸があった。


 獣なのか、魔物なのか、俺には分からない。泥にまみれ、半分ほど形が崩れている。近くにいた職員は手を出さず、棒の先でそっと位置を変えた。


 腐った臭いとは違う、湿った土と生臭さが混じった匂いがする。


 喉が少し詰まる。


 隊列は死骸を避けて進んだ。


 さっきまでなら、俺はそれを情報として見ていたと思う。


 変な死骸だ。魔力が関係しているのかもしれない。そういうふうに、頭の中で整理しようとしていたはずだ。


 今は違った。この先に進めば、また誰かが死骸と同じように倒れるかもしれない。


 そう考えた瞬間、足が少し遅くなる。


「コウイチ」


 グラウスの声が飛ぶ。


「遅れるな」


「……悪い」


 足を前に出す。靴の裏が湿った土に沈み、抜く時に小さな音がした。その音にも体が反応して、嫌になる。


 森はさっきと同じ森のはずなのに。


 木があって、土があって、葉がこすれる音がする。それでも、同じように見えない。


 枝が揺れるだけで、何かが来ると思う。


 鳥が飛び立つだけで、胸の奥が縮む。


 遠くで水の音がした。最初は葉がこすれる音に混じっていたが、進むほど少しずつはっきりしていく。


 さらさらというより、岩に当たって崩れるような音だった。


 水が流れている。そのことに気づくと、エイルが前方へ視線を向けた。杖を持つ手に力が入っている。


「水場が近いのか」


 俺が小さく言うと、エイルが頷いた。


「たぶん。でも、普通の水場と同じとは限りません」


「……だよな」


 普通の水だったらいい。そう思いかけて、すぐにやめる。


 この森に入ってから、普通に見えるものが、普通のまま終わったことはほとんどない。


 前方の職員たちが、足跡を確認しながら進んでいる。


 泥の跡は、ばらばらに散っているようで、少しずつ同じ方向へ向かっていた。小さな足跡。虫の這った跡。何かを引きずった跡。全部が、森の奥へ流れ込むように続いている。


 誰かが低く言った。


「集まってるな」


 それを聞いて、周囲の空気が少し変わった。


 大声は出ない。誰も騒がない。けれど、隊列全体の足音が少しだけ小さくなった。


 水の音が近づく。木々の間から、光が差し込んでいた。


 森の奥なのに、そこだけ明るい。最初は木の間が広くなっているだけだと思った。だが、近づくにつれて、その明るさは不自然に見えた。


 木が少ないのではない。そこだけ、木がなかった。円を描くように、森が途切れている。


 切り倒された跡は見えない。倒れた幹も、折れた枝もない。木があったはずの場所だけが、丸く抜き取られたように開けていた。


「止まれ」


 先頭の職員が言い、隊列が止まる。


 俺も足を止めた。止めた瞬間、自分の息がまた浅くなっていることに気づく。


 開けた場所の奥は少し高くなっていて、岩の間から水が流れていた。小さな滝というほど大きくはない。けれど、水は上から落ち、岩に当たり、白く砕けて下へ流れている。


 その流れの上に、何かが浮いていた。


 最初は、大きな泥の塊に見えた。


 人が三人、縦に並んでも届かないくらいの高さがある。丸い。けれど、きれいな球ではなかった。表面がでこぼこしていて、ところどころがへこみ、別のところは膨らんでいる。


 水は、その下を流れていた。


 塊に触れているわけではない。岩の上を流れる水のさらに上、空中に、その大きなものが浮いている。


 太陽の光が、開けた場所へまっすぐ落ちていた。


 その光の中で、塊の表面が動いた。


 泥が揺れたのではない。毛が見え、虫の脚が見えた。小さな獣の背中のようなものが、内側から押し上げるように盛り上がる。


 俺は息を止めていた。そこでようやく、塊に見えたものが一つの物体ではないと分かった。


 一つの大きな体に見えたものの表面で、それぞれの生き物が別々に動いている。


 虫が隙間から這い出そうとして、別の体に絡まる。泥をまとった獣の頭が外へ向き、口を開けたまま何かを噛もうとするように動く。細い足が何本も、外へ逃げようとして空をかいた。


 それでも離れない。外へ出ようとしているのに、全体の形から抜けられない。生きたまま、ひとつの形に押し込められていた。


 その表面にはいくつも隙間があった。


 隙間の奥には、光の届かない暗い空洞が見えた。


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