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第43話

 枝が折れる音は、一度で終わらなかった。


 ぱき、と奥で鳴ると少し遅れて、別の場所でまた鳴った。


 風で揺れた枝が折れた、という音ではない。何かが木の間を押し分け、足元の枝を踏み、こちらへ近づいてきている音だった。


 俺のいる場所はグラウスの斜め後ろだ。前衛の一番前ではないけれど、後衛でもない。フィーアとエイルが俺の少し後ろにいる。俺は、その間にできる隙間を埋めるような位置に立っていた。


 足元の土は湿っている。踏みしめると、靴の裏が少し沈んだ。


 森の奥から、落ち葉を踏む音が増えた。ひとつの大きな足音ではなくて小さいものが、いくつも重なっている。


 前方の冒険者たちが武器を持ち直す。剣が鞘から抜ける音。槍の柄を握り直す音。誰かが息を吸う音。


 俺も剣を抜いた。


 手のひらは、もう湿っていた。


「前衛、正面。後衛、下がりすぎるな。隊列を切るな」


 ギルド職員の声が、抑えられたまま通った。


 その直後、低い草が揺れた。


 木の根の向こうから、小型の獣が飛び出してくる。


 犬くらいの大きさだった。


 毛は泥で固まり、口の周りには黒い土がついている。目はこっちを見ているのか、ただ前にあるものへ飛びかかっているのか分からない。


 前にいた冒険者の槍が、その胸元を突いた。


 獣の体が地面に落ちる。


 落ちた体がまだ跳ねているうちに、後ろの草がまた揺れた。


 木の陰から、根元から、低い茂みの下から、同じような大きさの影が飛び出してくる。


 見えているものより、まだ見えないものの音の方が多かった。


「こぼれたやつだけを相手にするんだ」


 グラウスの声が近くで聞こえた。


「お前は四級になったといっても、戦闘経験は初心者と変わらないんだ。できること以上のことはやらないことだ。いいか」


「分かった」


 返事をしたつもりだったけれど、自分の声がかすれて返事として伝わっていたかは分からない。


 前方で戦闘が始まると、剣が振られ、槍が突き出され、後方からは魔法の光が木々の間を走る。


 小型の獣は、一体ずつなら強くないように見えた。前衛の冒険者が受ければ簡単に倒している。


 グラウスが一歩出れば、正面から飛び込んできた二匹がまとめて横へ飛んだ。


 フィーアの魔法が、前衛の横を抜けようとした影を弾く。


 エイルの杖の先から放たれた光が、木の根の間を走る何かを撃ち抜いた。


 倒せている。


 倒せているはずなのに、草の揺れは止まらなかった。一匹が倒れるたびに、その横の草が沈み、押し返した場所のすぐ脇から、別の影が低く滑り込んでくる。


 さらに足元の草の中から、黒い虫のようなものが這い出してきた。


 強い一体と向かい合っている感じではなかった。


「右、気をつけろ!」


 誰かが叫んだことで、俺はそちらを見た。


 草の中から、泥をまとった獣が飛び込んでくる。前衛の手に負えずに抜けてきたやつだ。


 俺の方へ来る。


 剣を上げる。


 間に合うと思ったのに、獣は思ったより低く沈み、足元をすくうように跳ねた。


「っ」


 振り下ろしたら遅れる。


 俺は剣の腹を斜めに出して、真正面から止めないよう角度をつける。


 獣の肩が剣に当たり、腕に重い衝撃が来る。


 止めきれない。


 それでも、獣の向きは少しだけ逸れた。


 俺の横を抜けかけた体に、短く剣を返す。


 刃が横腹をかすめ、獣が草の上を転がった。


 息を吐く前に、足元で黒い虫がうごめいた。


 膝より低い位置で、泥の中を滑るように近づいてくる。剣を振るには近い。


 俺は後ろへ下がろうとして、背中のすぐ近くに人の気配があることを思い出した。


 下がれない。


 フィーアとエイルがいる。俺が下がれば、そこへこの生物が通ってしまう。


 足を上げて靴の裏で踏みつけた。硬いものが潰れる感触がして気持ち悪い。


 けれど、嫌だと思った瞬間には、もう次の敵が正面にいた。


 息を吸う暇がない。


 俺は剣を戻し、肩に力を入れすぎないようにする。足を動かし、体ごとずらす。


 前方では、討伐隊が少しずつ押されていた。


 いや、全体が押されているというより、討伐隊の陣形にところどころ穴ができかけている。


 強い一撃で崩されているのではなく、数が多すぎて対処が間に合っていないようだ。


「隊列を詰めろ! 隙間を作るな!」


 職員の声が飛ぶ。


 その声に、俺の左隣にいた冒険者が半歩近づいた。


 茶色の革鎧を着た、槍を持った男だった。


 顔は見覚えがない。


 けれど、その槍の穂先が俺の前をかすめ、横から来た虫を地面に叩きつける。


「ぼけっとしてんじゃねぇよ!」


「はい!」


 反射的に返事をする。


 誰なのかも分からない相手に、怒鳴られた。でも、その声で助かった。


 俺は顔を上げる。


 正面の草が大きく割れて今度は二匹飛び出してくる。


 一匹目は剣の腹に当てて横へ逃がしたが、その陰から飛び込んできた二匹目は思ったより近かった。剣を戻す余裕がなく、俺は柄を両手で握ったまま体ごと押し出す。


 刃を立てるのではなく、剣の腹をぶつける。獣の体重が腕に乗り、肘から肩までしびれたところで足元の泥が滑った。このまま受け損ねれば脇を抜けられると思った瞬間、左から槍が伸びた。


 茶色の革鎧の男が、獣の首元を槍で止めていた。


「助かりました!」


 すぐに、森の音がまた増えた。草の揺れが何かの足音に混じり、木の根の向こうから、形の崩れた泥のような魔物が這い出してくる。


 輪郭がはっきりしない。泥と毛と骨が無理やりくっついたような体で、まともな獣とは違っていた。斬って止まる相手なのか判断できず、俺は剣を振り下ろしかけた腕を途中で止める。


 真正面から切りつけるより、まず横へずらす。剣の腹を押し当てると、泥の塊は潰れるどころか剣にまとわりつき、嫌な重さを感じる。


「離せ……!」


 声が漏れた。足を動かし、体ごと横へ抜いたところで、崩れた泥の塊に後ろから魔法の光が入る。光に裂かれた泥が、足元へ重く飛び散った。


「前を空けると危険です!」


 後ろからエイルの声がした。


「分かってる!」


 分かっている、と返した声に、体が追いついていなかった。腕は重く、息は浅くなり、喉の奥に土の味が残る。剣の柄が汗で滑りそうになって握り直す間にも、足元の草は動き続けていた。


 倒した死骸に靴が引っかかり、泥を吸った裾が足を遅らせる。そのわずかな遅れを作れば、敵は前衛の隙間を抜けて後ろへ行く。そこだけは、絶対に空けられなかった。


 少し離れた隊列の端が乱れるのが見えた。低い位置から小型の獣が入り込んでいて、思わず足がそちらへ向きかける。


 だが、俺が動けばここが空く。グラウスに言われた、できること以上のことはやらない、という言葉が頭の中で引っかかり、俺は半歩出かけた足を地面に戻した。


 その判断が正しかったのかどうかは分からない。ただ、次の瞬間に正面の草がまた割れ、俺がそこにいなければ後ろへ抜けていたはずの獣が飛び込んできた。


 剣を斜めに出し、肩に来た重さを足で受けながら横へ逃がす。空いたところへ短く返すと、今度は当たった。獣が地面に落ちたが、その体を見ている余裕はなかった。


 右の方で、息を潰されたような短い悲鳴が上がった。


 反射的に目を向けると、茶色の革鎧の男が倒れていた。足元には、泥のような魔物が絡みついている。さっきまで俺の横で槍を振っていた人だ。


 手から離れた槍が、湿った土に転がっていた。男は起き上がろうとしていたが、その肩の上を小型の獣が飛び越え、そのまま首元に食いつく。


 誰かが叫んだのと同時にグラウスが動き、獣の体が横へ吹き飛ぶ。別の冒険者が泥の魔物を斬り、フィーアの魔法がその場を白く照らして回復魔法をかける。


 それでも、男の体は起き上がらなかった。


 土を掴んだ形の手だけが、動かないまま残っている。


 俺は、その光景から目を離せなかった。


「コウイチ!」


 グラウスの声が耳に届いたときには、目の前に獣がいた。剣を上げるより先に、左腕へ熱い痛みが走る。


「っ、ああ!」


 遅れたまま腕を引き戻し、剣の腹を獣の頭にぶつける。体が泥の上を転がったのを見届ける前に、足元の黒い虫を剣先で払い、右から這ってきた泥の塊を押し返した。


 左腕は痛むが、動かないほどではない。呼吸が乱れて胸が詰まり、さっき見た男のが頭から離れなかった。けれどこんな風に集中力を切らしていれば、次に倒れるのは自分になる。


 考えをそこで切り、グラウスの背中の斜め後ろだけに意識を戻した。前へ出すぎず、下がりすぎず、感覚を空けない。


 前方で魔法が強く光り、エイルの声が聞こえた。杖の先から放たれた光が木の根の向こうへ走り、奥の草むらをまとめて弾くと、フィーアが続けて唱えた魔法で前衛の横を抜けようとしていた影が動きを止めた。


「押せ! 今だけ前を詰めろ!」


 職員の声に合わせて前衛が一歩出て、グラウスも前へ出る。俺は足をその場に残し、前に押し出された列からこぼれてくる敵だけを見ることにした。


 数は少しずつ減っている。それでも、最後まで残った影が草の中を低く走り、こちらへ滑り込んできた。俺は足を引かずに剣を下げ、低い位置で払う。


 手応えが腕に返ったところへ、泥をまとった小さな魔物が続けて這い込んでくる。剣の腹で押し、横へずらすと、後ろから伸びた槍がそれを止めた。


 振り返った先にいたのは、茶色の革鎧の男ではない。別の冒険者だった。


 森の奥から来る音は、少しずつ薄くなっていった。落ち葉を揺らす音も、何かが草を掻いて逃げる音も、遠くで枝が折れる音も、だんだん離れていく。


「追うな! 隊列を戻せ! 負傷者確認!」


 職員の声が響き、俺はようやく剣を少し下げた。


 腕は重く、左腕の痛みもはっきりしている。息を吸おうとしても空気が入らず、胸の奥で引っかかった。


 周りには、倒れた獣や虫の死骸が散っていた。泥の塊だったものは踏まれて形をなくし、湿った土と混ざっている。足元に赤いものが混じっているのを見て、俺は視線をそらした。


 右側に人が集まっていた。さっきの男のところだ。フィーアが膝をつき、別の回復役らしい冒険者も近づいている。俺も一歩そちらへ動きかけたが、すぐに止まった。


 今の俺が近づいても邪魔になる。それが分かってしまうのが嫌だった。


 フィーアの手が止まり、回復役の冒険者が何かを言った。声は聞こえなかったが、周囲にいた人たちの肩がわずかに落ちる。それだけで、どうなったのかは分かった。


 誰かが男の手から土を払っている。さっきまで槍を持って、俺に怒鳴っていた人の手だった。その人は、もう返事をしない。


「コウイチ」


 グラウスが近づいてきた。顔を上げると、彼の視線は俺の左腕に向いていた。


「傷は」


「浅い。大丈夫だ」


 言ってから、実際に腕を曲げた。痛みはあるが、動かせないほどではない。


「なら水を飲んで息を整えろ」


「……あの人は」


 言いかけて、続きが出なかった。


 グラウスは一瞬だけそちらを見た。


「今は、そっとしておいてやれ」


「……このまま、進むのか?」


 聞くと、グラウスは俺を見た。いつもの軽い調子ではなかった。


「ここで止まれば、奥にいるものは残る。戻れば、また別の場所が襲われるかもしれねぇ」


 俺は何も言えなかった。正しいとか、間違っているとか、そういう考えがすぐには出てこない。


 水袋を取ろうとして、指がうまく動かないことに気づく。震えているのは左腕だけではなく、右手も膝も同じだった。怖いのか、疲れたのか、それとも両方か。


 水袋を掴んで口をつけると、ぬるい水が喉を通った。


 周囲では、討伐隊がもう一度隊列を組み直していた。負傷者が後ろへ送られ、動かない人には布がかけられ、数人が運ぶ準備をしている。茶色の革鎧の男がいた場所には、別の冒険者が入った。


 穴を埋めるみたいな行為だ。俺はその場所を見て、すぐに視線を戻す。見続けていたら、足が動かなくなりそうだった。


「剣を持て」


 言われて自分の手を見ると、剣は持っているのに指先の力が抜けかけていた。俺は柄を握り直す。汗と泥で少しぬるついた感触は気持ち悪かったが、離すわけにはいかなかった。


 森の奥は、さっきより静かだった。敵の気配が消えたわけではない。ただ、近くの音が減った分、奥の湿った空気だけが重く残っている。


 討伐隊が動き出し、俺もグラウスの斜め後ろに戻った。足はまだ少し震えている。それでも前へ出すぎず、下がりすぎず、今はその場所にいるしかなかった。


 さっきまで茶色の革鎧の男が立っていた隙間を見ないようにして、俺はグラウスの背中だけを追った。

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