第41話
訓練場からギルドホールへ戻ると、人の数はさっきより増えていた。
受付の前には冒険者たちが集まり、掲示板の前では依頼書を見上げながら話し込む者がいる。避難してきた人たちも壁際に座っていて、荷物を抱えたまま不安そうに周囲を見ていた。
どこかに腰を下ろして一息つく、という空気ではない。
俺たちがぼんやり立っているだけでも、誰かの邪魔になりそうだった。
「ここで休むのは無理だな」
グラウスが周囲を見て言った。
「買い出しにでも行くか」
「買い出し?」
「保存食、水、包帯、薬、細かい消耗品だ。山に入ってから足りませんでした、じゃ笑えねぇからな」
グラウスの言葉に、明日のことを少しだけ想像した。
服の下には、更新された冒険者証がある。
黄色い帯と三本の線。
さっきまでと違って、俺はの討伐に正式な参加ができる立場になっている。
「ミリアはどうするのかしら?」
フィーアが言った。
ミリアは少し遅れて顔を上げた。
「えっと……私も行きます。お店の場所なら少し分かりますし」
「そ。良かったわ」
フィーアが言ってミリアのそばにくっつくと、ミリアは小さく笑った。
ただ、その笑い方はいつもより少し弱々しいように感じる。
疲れているのだろうか。
農場から逃げて、ギルドで報告して、俺の昇格試験まで見ていたのだから、無理もない。
ギルドを出ると、通りもまだ落ち着いていなかった。
東門の方角から人が流れてきて、逆にそちらへ向かう兵士や職員もいる。荷車の音や、遠くから飛んでくる声が、町のあちこちで重なっていた。
グラウスは迷わず通りを進む。
俺たちはその後を追い、保存食を扱う店へ入った。
硬そうなパンや干し肉、乾いた果物のようなものが棚に並んでいる。グラウスとエイルは慣れた様子で必要なものを選んでいく。俺は言われたものを袋へ入れながら、横にいるミリアへ目を向けた。
ミリアは店の中を見ているけれど、いつものように「これは日持ちします! お得ですよ」とか「こっちは少し食べやすいです。あ、でもあまり美味しくないんです」とか、説明してくれる感じではなかった。
「ミリア、これってどうなんだ?」
俺はそんなミリアを試すように質問してみることにした。ミリアは一拍遅れてこちらを見る。
「あ、はい。それは、少し硬いですけど、日持ちはすると思いますよ」
「じゃあ、こっちは?」
「そちらは食べやすいです。でも、少し高いですね」
「なるほど、な」
答えてくれないわけではない。
でも、どこか距離があるような印象だ。
次に行った薬や布を扱う店でも、ミリアは同じような調子だった。
包帯に使う布。傷薬。水袋の替え紐。剣の手入れに使う油。
フィーアが必要なものを選び、エイルが小さな瓶を見て、グラウスがやたら高そうな油と布切れを手に取って満足気に微笑んでいる。その間、ミリアは何かを見ているようで、時々ふっと黙り込んだ。
俺が声をかけると、ちゃんと返事はする。
けれど、返事の前に少しだけ間があるような違和感を感じていた。
買い物を終えるころには、外の光が少し柔らかくなっていて、日が傾きだしているような雰囲気があった。
「腹も減ったし飯にしようぜ。今日は俺のおごりだぜ!」
「あんたそんなお金ないじゃない。一体誰に出させるつもりなのかしら?」
「ん……いや、そのだなぁ……へそくりがだなぁ……」
なんて会話をしながら俺たちは近くの食堂に入った。
店の中にも冒険者らしい人たちがいて、明日の討伐ことを話している。やはり緊急クエストだけあって、食事処では話題に上がるようだった。
俺たちは奥の席に座り、簡単な夕食をとった。
温かいスープとパン。それから少しの肉。
食事自体は悪くなかった。
けれど、ミリアはここでも静かであまり俺達の輪に入ろうとしていない気配すら感じた。
フィーアがグラウスの言い方に文句を言い、エイルが小さく笑う。ミリアも笑っていた。
でも、ミリアの笑いはどこか無理をしているような、そんな気がしてならない。
スプーンを持つ手が止まり、視線が器の中へ落ちる。
俺は、やっぱり気になった。
夕食が終わると、俺たちはそれぞれ宿へ戻ることになった。
グラウスたちがギルドに近い宿を取ってくれた。明日の朝、すぐ集合できるようにするためだ。ミリアも途中までは同じ方角だった。
通りはすっかりと夜の雰囲気を醸し出していて、店を閉める音や、遠くで誰かを呼ぶ声が聞こえる。町は昼間と違った顔を見せる。
宿の前に着くと、グラウスがこちらを振り返る。
「明日は夜明け前に起きるぞ。寝坊したら置いてく」
「扉叩きまくって起こしてくれよ」
「コウイチ~あんた起きてるのぉ? ってか? 自分で起きろい! ま、いいや。じゃあまた明日な」
そう言って、グラウスが先に宿に入って、それにフィーアとエイルも続く。
俺も中へ入ろうとして、足を止めた。
ミリアが、まだ宿の前に立っていた。
街灯の明かりが横から当たっていて、表情が少しだけ見えづらい。
「ミリア」
「はい」
「今日、ずっと元気なさそうだったけど……大丈夫か?」
聞き方がこれでよかったのかは分からなかった。
ただ、買い出しの時からずっと気になっていた。
ミリアはすぐには答えない。
胸元のあたりで、両手を重ねて上目遣いでこちらを見てくる。
「少し、二人で話しませんか?」
小さな声だった。
でも、聞き間違えるような声量ではなかった。
「すぐ近くに、静かな場所があります。あまり時間は取らせません」
明日は早い。
けれど、このまま部屋へ戻る気にはなれなかった。
「わかった」
俺が頷くと、ミリアは少しだけほっとしたように息を吐いた。
宿の向かいには、まだ開いている小さな店があった。
ミリアはそこで、温かい飲み物を二つ買った。木の器に入ったそれは、ほんのり甘い匂いがした。
俺たちは宿の前の通りを外れ、細い道へ入る。歩いているうちに、水の音が近づいてきて、それが町の中を流れる水路だと気づくのにはそう時間がかからなかった。
石で囲まれた水路の横に、短い階段がある。ミリアはそこを上がり、小さな踊り場のような場所で足を止めた。
高台というほど大げさな場所ではない。
けれど、水路を挟んだ向こうに町の灯りが見えて、窓の明かりや店先の灯りが水面に揺れている。
ここを通る人はまったくいない。
遠くの声は聞こえるのに、ここだけリューベールの中から切り離されているように感じた。
「ここ、たまに来るんです」
ミリアが言った。
「町に来て、少し落ち着きたい時に」
「いい場所だな」
「はい」
ミリアは石の縁に腰を下ろした。
俺も少し間を空けて隣に座る。
手の中の飲み物は温かかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
下を流れる水の音だけが続いている。
「コウイチ様」
「うん」
「私は、明日、行けません」
その言葉は小さかった。
けれど、はっきりと伝えられたその言葉の続きを俺は待つ。
「討伐には、行きません」
俺はミリアの横顔を見る。
ミリアは手の中の飲み物に視線を固定したままだった。
「そっか」
俺がそう言うと、ミリアの肩が少しだけ揺れた。
「……怒らないんですか」
「怒ることなのか?」
「分かりません。でも、皆さんは行くのに、私は行かないので」
ミリアは器を握る手に少し力を込めた。
「私は四級です。コウイチ様と同じです。仮とはいえ、パーティーにも入れていただいています。だから、行かないといけないんじゃないかって、ずっと思っていました」
コウイチ様と同じ、ね。
その言葉で、俺は胸元の冒険者証の存在を意識した。
俺にとっては、行くための証になったもの。
そしてミリアにとっては、行けるはずなのに行けないことを強く考えさせるものになっていたのかもしれない。
「でも、行けません」
ミリアは続けた。
「理由は、いくつもあります。家族のそばにいたいこと。農場のこと。私は皆さんほど連携できないこと。実戦の経験も足りないこと。この四級の冒険者証だってなんで取れたのか自分でもよくわかってないんです」
そこで、一度言葉が止まる。
水路の音が、少しだけ大きく聞こえた。
「最後に私を止めているのは、怖いという気持ちです」
ミリアはようやく俺の方を見た。
「怖いんです」
その目には、涙はなかったけれど、もう感情をごまかせないという覚悟が見える。
「農場で、あの群れを見ました。私は結局何もできず、逃げるしかありませんでした。明日、その原因に近づくんだと思うと、足が動かなくなるんです」
俺は何も言えなかった。
あの時のことははっきりと記憶に残っている。
家畜の声。柵が壊れる音。土を踏み荒らす音。
ミリアにとっては育ってきた場所がそうなったんだ。俺よりずっとその衝撃は強いものだったはずだ。
「皆さんが行くのに、私だけ残るのが苦しいです。コウイチ様まで行くのに、私は残るんです。そう思うと、今日はずっと……」
言葉が途切れる。
ミリアは木の器へ視線を落とした。
俺は少し考えたけれど、気の利いたことは言えそうになかった。
言えば言うほど、嘘っぽくなってしまう気もした。
「ミリアは、一緒に行かないといけないって思ってたのか?」
ミリアは小さく頷いた。
「はい」
「でも、グラウスたちが、そう言ったわけじゃないよな」
「言われてはいません。でも……仮でもパーティーなのに、皆さんだけ行かせるなんて——」
「たぶんだけど。グラウスたちは、その判断を尊重してくれると思うぞ」
ミリアは目を伏せる。
「そう、でしょうか」
「そうだな。少なくとも、怖いのに無理して来いとは言わないと思うがな」
グラウスの顔を思い浮かべる。
あいつなら、恐怖で震える人間を無理やり戦場へ連れていくことはしないのではないかと、少ない付き合いながら考える。
むしろ、無理して来ようとしたら止めるだろう。
「俺だって、最初は連れていかないって言われてたくらだ。危ないから、足手まといになるから、誰かを巻き込むかもしれないから」
「はい」
「それって、結局全部優しさだったんだと思うんだ。やっぱり着いて来ないやつを責める考え方じゃないと思う。行けるかどうかを、ちゃんと見るってことだろ」
ミリアは黙って聞いていた。
「俺は行くって決めた。でも、怖くないわけじゃない。今日の農場でだって、グラウスの指揮がなければどうなっていたか分からないし、明日の討伐だって何があるか分からない」
自分で言って、改めて少し怖くなった。
でも、それは本当だった。
「四級になったから、急に強くなったわけでもない」
「でも、コウイチ様は行くんですよね」
「あぁ」
そこだけは、迷わず言えた。
「行くって決めたから。たぶん、俺にはそれが必要だから」
ミリアはじっと俺を見る。
「でも、ミリアが同じようにしないといけないわけじゃないと思う」
俺は水路へ目を向けた。
暗い水の上に、町の灯りが揺れている。
「うまく言えないけど、戦闘に行くかどうかって命のやり取りをするかどうかだろ? 誰かに合わせてするものじゃないんじゃないのかなとは思うぞ、俺は」
ミリアは何も言わなかった。
ただ、器を握る手の力が少しだけ緩む。
「ミリアが怖いって言ったら、グラウスたちは分かってくれると思う」
「……コウイチ様も?」
「俺は、もう聞いた」
ミリアがこちらを見る。
「そんでもって、責める気はない」
「どうしてですか」
「俺も怖いからだな」
それが、一番近い表現だった。
「怖いから、怖いって言う人を責められない」
ミリアはゆっくりと息を吐く。それはずっと胸の奥で止めていたものを、少しだけ外へ出したようなものだろうか。
「コウイチ様に、言えてよかったです」
ミリアは小さく言った。
「怖いって言ったら、もっと駄目になる気がしていました。でも、言ったら……少しだけ、気が楽になりました」
「そっか」
「はい」
ミリアは飲み物を一口飲んだ。
それから、夜の町を見る。
「明日、皆さんを見送ります」
「うん」
「怖いのは、まだ怖いです。申し訳ない気持ちも、消えません。でも、ちゃんと見送ります」
その声は、最初より少しだけ強いものになっていた。
「それから、家族のところへ戻ります。父と母とアレンのそばにいます。農場のことも、これからできることを考えます」
「うん」
「だから」
ミリアは俺の方を向いた。
「コウイチ様、ちゃんと帰ってきてください」
まっすぐ言われたその言葉に思わずハッとさせられる。
「あぁ、帰ってくる」
俺は言った。
「帰ってきたら農場の修理だな」
ミリアは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ笑った。
今日、初めてミリアの本当の笑顔を見た気がする。
無理に作ったものではない、小さくて素敵な笑い方だった。
「そうですね。直すところ、たくさんあるでしょうね」
「やっぱりたくさんあるよな。あれ」
「たくさんあります。きっと、皆さんにも手伝ってもらわないといけませんね」
「グラウスが逃げだしそうだな」
「逃がしません」
ミリアはそう言って、ほんの少しだけいつもの調子に戻った。
完全に元気になったわけではないだろう。怖さが消えたわけでもないと思う。
それでも、宿の前で見た表情と比べると強張りが取れている印象だ。
飲み物を飲み終えるころには、夜の空気が少し冷たくなっていた。
「戻りましょうか」
「そうだな。明日も早いし」
俺たちは水路沿いの階段を下りた。
宿までの道を歩くミリアの足取りは、来た時より少しだけ軽く見えた。
宿の前まで戻ると、ミリアは足を止める。
「コウイチ様」
「うん」
「聞いてくださって、ありがとうございました」
「俺は本当に聞いただけなんだけどな」
「それが、ありがたかったんですっ」
もうさっきみたいに沈んだ顔ではなかった。
「明日の朝、見送りしますね」
「わかった」
「寝坊しないでくださいね」
「グラウスも言ってたよなそれ」
「では、絶対に寝坊できませんね」
ミリアは少し笑った。
俺もつられて笑う。
ミリアは家族のいる方へ戻っていった。俺はしばらくその背中を見送ってから、宿の中へ入る。
部屋へ戻ると、グラウスが壁にもたれて剣の手入れをしていた。
「遅かったな」
「少し話してたんだよ。ミリアは明日来ないってさ」
「そうか」
グラウスはそれ以上聞かなかった。
俺もそれ以上は言わず、買ってきた荷物をもう一度確認する。
保存食。水袋。包帯。傷薬。剣の手入れに使う油。
どれも、明日使うかもしれないものだった。
俺は服の上から冒険者証に触れる。
明日、俺は討伐に参加する。本格的な戦闘は明日が初めてだ。




