第38話
ギルドに着いたころには、足の震えは少しだけマシになっていた。
ただ、息はまだ浅かった。
門からここまで歩いてきただけなのに、胸の奥が熱く、喉が乾いている。剣を握っていた指もまだ固まったみたいで、何度か開いては閉じて、ようやく普通に動くようになってきた。
ギルド前の広場には、すでに何人もの人が集められていた。
子供を抱いた女性。荷物を背負った老人。泥のついた服のまま座り込んでいる男。守衛に何かを訴えている人もいる。
今まで見てきた穏やかなギルド前広場とは様子が違う。
人は多いのに、酒場みたいな騒がしさではなかった。空気だけが妙に硬い。
「リューベールに知り合いの店がある。しばらくはそっちへ行く」
父親が言った。
「私は残ります。父さん、母さんは先に行って」
ミリアが振り返る。
「農場で見たことを報告しないといけません。それに……仮でも、私もパーティーなんですから」
父親は何か言いかけたが、グラウスを見て、俺たちを見て、それから短く息を吐いた。
「無茶はするな」
「はい」
父親は頷き、母親の肩に手を添えた。母親はまだ青ざめていたが、それでも自分で歩けている。アレンは二人の横に立ち、周囲を見ていた。
ミリアはその背中をしばらく見送ってから、こちらへ向き直る。
「行きましょう」
「ああ」
グラウスが短く答え、ギルドの扉を開けた。
中へ入った瞬間、熱気と人の声がぶつかってきた。
昼のギルドは、前に見た朝のギルドとも、夜の酒場みたいなギルドとも違っていた。
受付前には何人もの人が並び、職員が書類を持って走るように行き来している。壁際では、怪我をしたらしい男が椅子に座らされていて、別の職員が回復魔法をかけていた。食堂側のテーブルはいくつか端に寄せられ、そこに避難してきた人たちが座っている。
その合間を、武器を持った冒険者たちが通り抜けていく。
鎧の金具が鳴り、誰かが大声で仲間を呼び、受付の奥からは、紙束を机へ置く音が何度も聞こえた。
「……なんだこれ」
混沌とした状況に思わず声が漏れた。
「非常事態ってことだろうな」
グラウスが受付へ向かう。
俺たちが近づくと、カウンターの奥にいた職員が顔を上げた。グラウスの顔を見るなり、表情が変わる。
「グラウスさん」
「報告だ。東の農場が襲われた」
その一言だけで、近くにいた職員が動いた。
「セレナさんを」
短く指示が飛ぶ。
それから、ほとんど間を置かずに奥の扉が開いた。丸眼鏡の女性が出てくる。
俺の冒険者登録のときの担当者。セレナさんだった。
いつも通り、背筋はまっすぐで、髪も乱れていない。けれど、表情はいつもより硬い。こちらへ向けられた視線は落ち着いているのに、書類を持つ指にかすかに力が入っているように見えた。
「グラウス様。状況を聞かせていただきます。こちらへ」
無駄がない。
そう思った次の瞬間には、俺たちは受付横の机へ案内されていた。奥の部屋ではない。今は個室に通している余裕もないのだろう。机の上には地図が広げられていて、職員が次々に書き込みを足していた。
赤い印がいくつもある。
文字はまだ読めない。けれど、印がひとつの方向から町へ向かっているように見えることだけは分かった。
「では、お願いします」
セレナさんがペンを取る。
グラウスはすぐに話し始めた。
森際から群れが現れたこと。
小型の獣、泥のような魔物、虫型が混じっていたこと。
一方向から押し寄せるというより、農場全体へ散って入り込んできたこと。
家畜小屋や畑へ向かう個体が多かったこと。
一体一体は倒せても、数が多く、すべてを無力化することは難しかったこと。
ミリアの父母やアレンを守りながら農場全体を維持するのは無理だと判断し、リューベールへ退避したこと。
短いのに、必要な情報を適切に提示している印象だった。
セレナさんは途中で何度か確認を挟んだ。
「出現方向は東側の森際で間違いありませんか」
「ああ」
「群れは人だけを追ってきましたか」
「いや。食料と家畜を狙って散った。俺たちを追ってきたのは一部だ」
「泥状の個体は、スライムに近い動きでしたか」
「近い。だが普通のスライムというには動きが妙だったな」
セレナさんのペンが走る。
俺はそれを見ているだけだった。
農場では、ただ襲われて、逃げるしかなかった。
「ミリア様」
セレナさんが資料から顔を上げてミリアの方を向く。
「はい」
「家畜と食料への被害について、わかる範囲で構いません」
ミリアは一度だけ口を引き結んだ。
それから、ゆっくり話し出す。
家畜小屋の方へ群れが流れたこと。
家畜が怯えて鳴いていたこと。
小屋へ向かおうとしたが、父親に止められたこと。
畑の方にも虫型が散っていたこと。
言葉は少しずつだった。
途中で一度、ミリアの手が服の裾を握る。俺は何か言おうとして、結局やめた。
言えることがなかった。
俺が守れなかった、と言ってもたぶん違う。
グラウスが逃げると判断した時点で、あそこに残る選択肢はなかった。俺よりずっと強いグラウスがそう決めたのだから、それはたぶん正しい判断なのだろう。
それでも、ミリアの声を聞いていると、何も感じないわけではない。
気まずいというより、喉の奥に何かが引っかかる感じだった。
「ありがとうございます」
セレナさんは、ミリアへ短く頭を下げた。
「ご家族は避難先へ?」
「はい。知り合いのお店に向かいました」
「承知しました。後ほど避難者名簿にも確認を入れておきますね」
またペンが走る。
「現状、群れは町の外縁にも集まり続けています」
セレナさんは地図へ目を向けたまま言った。
「結界で侵入は防いでいますが、個体を放置すれば外側に溜まります。現在は魔法使いの皆様と冒険者さまを各所に分散し、門と結界の外側で順次処理してもらっています」
町の中に入ってきていないだけで、終わっているわけではないらしい。
そこへ、別の職員が駆け込んできた。
「北東側、第三班から報告です。結界外に小型の群れ。処理は継続中。負傷者二名、重傷なし」
「記録しておいてください。第三班へ治療担当を一名回してください」
セレナさんはほとんど間を置かずに答える。
「東門側は?」
「魔法使い二名を追加配置済みです。冒険者班は交代を入れています」
「南側へ回せる人員は?」
「今は難しいです。避難者の誘導も出ています」
今こうしている間にも町のあちこちに群れが来ていて、それに人を分けて対応しているのだとわかるが、その処理速度に俺は感心をする。
「リューベールにもあの変な群れが来てるのか」
俺が呟くと、フィーアが頷いた。
「結界があるから、農場と違って比較的安全よ。町の外側で足止めできているはずね」
「それでも、楽観視できる状況ではなさそうだな」
「ええ。でも、今のところ防衛はできているはずよ」
その言葉を聞いて、ようやく危機感から少しだけ解放された。
農場では、あの群れは対処のしようがないのではと思った。
だが、ここではあんなものに対しても対抗策を持ち合わせているようだ。結界があり、門があり、魔法使いがいて、冒険者がいる。
同じ相手でも、守る場所と人が違えばここまで変わるのか。
安心した、というより、やはり感心したという方がしっくりくる。
俺達がこうして話している間にも、ギルドの入口は何度も開いて泥だらけの男が入ってくる。
荷車を押してきた女性が、職員に何かを訴えて、子供を抱えた老人が、食堂側へ案内される。
誰かが「東の街道沿いも駄目だ」と言った。別の誰かが「水車小屋の方から来た」と答えていた。
職員たちはそれを一つ一つ丁寧に聞いていき、情報をまとめて地図へ印を足していく。
俺には地図の細かい文字は読めない。それでも、印は同じ場所に集まっているように見えた。
ばらばらに逃げてきた人たちの話が、ひとつの方向を指しているということだろうか
「……これで確定だろうな」
グラウスが低く言った。
セレナさんは、地図から目を離さずに頷く。
「候補地はいくつかありました。ですが、今回の出現方向、被害範囲、群れの移動、これまでの調査記録を照合すると、おそらく一か所です」
「今まで見つけられなかった場所か」
「見つけられなかったというより、近づけなかった場所です」
セレナさんの声は事務的だった。
けれど、いつもより少し硬い。
「周辺に異常化した魔物や動物が集まっていました。少人数での確認は危険すぎると判断され、これまでは調査の範囲を限定していました」
「で、向こうから動いたせいで、尻尾を出したってわけか」
「そういう見方もできます」
セレナさんはそう言って、机の上の書類を一枚取った。
白い紙。
そこにいくつかの大きな文字と、俺には読めない記号のようなものが並んでいる。
「緊急依頼として出します」
セレナさんは職員へ紙を渡し、掲示板の方へ歩き出す。
俺たちも自然とそちらへ向かった。
食堂側にいた冒険者も、受付へ向かっていた冒険者も、少しずつ掲示板の方へ視線を向ける。避難してきた人たちまで、何が起きるのか分からないまま顔を上げていた。
職員が掲示板の中央へ紙を貼る。
いつもの依頼書より、ひとまわり大きいサイズで、警戒色が目立つ。
俺には読めない大きな文字が並んでいて、赤い印が押されている書類だった。
セレナさんが、掲示板の前で振り返る。
「緊急討伐依頼を発行します」
よく通る声だった。
怒鳴っているわけではなくて大きく発声したという印象だった。それなのに、ホールの端まで声は届いているようだ。
「対象は東方山域に確認される異常源。これまでの調査記録、および本日の被害報告により、周辺の魔物、動物、低級モンスターの異常化に関与している可能性が高いと判断されました」
この場にいるみなが、セレナさんに注目をしている。平時のギルドとは変わって静かだった。
「参加対象は、条件を満たす冒険者、および指名を受けたパーティーです。必要戦力は複数パーティー規模。報酬はギルド特別予算より支払われます。詳細な経路、役割、報酬区分については参加受付時に個別で通達します」
周囲の冒険者たちが動き出す。すぐに掲示板へ詰め寄る者もいれば、仲間同士で顔を見合わせる者もいる。受付の奥では、職員がさらに紙束を用意していた。
セレナさんは一度だけ息を吸って吐いた。彼女なりに緊張をしていたのかもしれない。深呼吸をした彼女は、いつもの事務的な顔に戻る。
「現在、町の防衛対応と並行して討伐隊を編成します。参加希望者は受付右手へ。指名を受けている方は、職員の案内に従ってください」
さっきまでばらばらだった喧騒が、一つの意思を持ったように感じる。
グラウスが掲示板の前に立ち、貼られた紙を見上げて、しばらく黙っていた。
フィーアも隣で依頼書を見ている。エイルは少し後ろに立ち、杖を握ったまま顔を上げていた。ミリアは、両手を胸の前で握っている。
「グラウス様」
セレナさんが近づいてきた。
「あなた方のパーティーには、正式に参加要請が出ています。先ほどの報告も含め、現地に最も近い情報を持つパーティーとして扱います」
「そうか」
グラウスは短く答えた。セレナは掲示板を見つめるグラウスの横顔を見続けていた。
「条件はあとで聞く。だが、受けるよ。この依頼」
フィーアも何も言わないし、エイルはわずかに顔を強ばらせたが、それでも下を向かなかった。
ミリアは、掲示板を見たまま唇を引き結んでいる。
俺も文字は読めないのに、掲示板を見る。
スライムの異常。
ジャイアントラビット。
家畜の不調。
そして、今日の農場襲撃。
それらが、今、ひとつの場所へつながった。
俺が何かを倒せるわけじゃない。
あの群れを前にして、俺ができたことなんてたかが知れている。グラウスの判断がなければ、逃げることすらしていなかったかもしれない。
それでも、ここで知らないふりをして立っているわけにはいかなかった。
農場で聞こえた家畜の声が、嫌に耳に残っている。
俺は自分の手を開いて、もう一度握った。
指は震えていない。
たぶん、怖さがなくなったわけじゃない。ただ、今はそんなことよりも行動したいと強く思っていた。
——やってやろう。
そう自分に言い聞かせて、俺はグラウスと目を合わせた。




