第36話
目を開けた瞬間、昨日まで頭の奥にこびりついていた白い霧みたいな重さが薄れているのが分かった。
布団の上で手を握る。
指はちゃんと閉じるし、腕も普通に上がる。肩も、背中も、脚も、昨日あれだけ振り回されたのが嘘みたいに軽かった。
体はフィーアの回復魔法でどうにかなっていたのだろう。そこに一晩の睡眠が乗ったせいか、頭までかなりすっきりしている。
「起きたか」
隣を見ると、グラウスがもう起きていた。壁にもたれて座り、木剣の柄を布で拭いている。
「ああ。昨日よりはだいぶマシだ」
「顔つきは悪くねぇな。今日はちゃんと動けそうだ」
言われて、布団から起き上がる。
昨日は立つだけで頭の芯が揺れるような感覚があったのに、今日は違う。まだ疲れが完全に消えたわけではないはずなのに、体の各部がちゃんと自分のものみたいに動く。
「飯食ったらそのままやるぞ」
「朝から容赦ないな」
「昨日死んだように寝た分、今日は元気だろ」
「死んではないけどな」
「似たようなもんだ」
朝食を終えると、俺とグラウスは空き地へ向かった。
空は高く、風は昨日より少し乾いている。畑の上を渡る空気に土の匂いが混じり、家畜小屋の方からは低い鳴き声が聞こえてきた。
木剣を握る。
昨日と同じ重さのはずなのに、今日はやけにしっくりきた。
グラウスが向かいに立って今日の訓練が始まる。
「ほら、来い」
「そっちが来るんじゃないのかよ」
「朝一で甘やかしてほしいのか?」
「いや、別に」
言い終わる前にグラウスが踏み込んできた。
木剣が右上から落ちる。
受ける。流す。戻す。
昨日までなら、それだけで精一杯だった。今日はそこから、半歩だけ前へ出られた。
グラウスの木剣が返ってくるからそれに合わせる。衝撃は重い。だが、足は止まらない。
「お」
グラウスが少しだけ笑った。
「悪くねぇな」
「昨日よりは頭が回ってるからかもな」
「そのまま行くぞ」
そこからしばらく、俺たちは何度も木剣をぶつけ合った。
相変わらずグラウスは強い。ちょっとでも迷えば、すぐに形を崩される。
それでも今日は、小さく動くことだけは意識できた。大きく受けない。大きく返さない。相手の木剣と自分の体の位置を少しずらして、次に繋げる。
一度だけ、俺の木剣がグラウスの剣先を横へ押しやった。
叩き落としたわけじゃない。ただ、進むはずだった軌道を少しずらしただけだ。
だが、その一瞬で俺はグラウスの間合いから抜け出すことができた。
俺は、そこで変に気を良くしないよう木剣を握り直した。
今日はフィーアもそばにはいたけれど初日ほど回復魔法をかけられることがなかった。
というのも俺がグラウスからの攻撃をほとんど喰らっていなかったからだ。
昼前になって、ミリアに呼ばれた。
「お昼ですよー!」
空き地の端から手を振るミリアの後ろで、フィーアが本を抱えたままこちらを見ている。エイルもその隣に立っていた。
「続きは午後だな」
「もう少しやれそうだったんだが」
「そんなときこそ飯食ってからにしようぜ」
家に入ると、いつものように食卓には料理が並んでいた。
焼いた肉の匂い。湯気の立つスープ。切り分けられたパン。
「今日は朝から頑張っちゃったわ! たくさん食べなさい!」
ミリアの母親が明るく笑う。父親は黙って椅子を引き、アレンは水差しを机に置いた。
席について、ようやく息が抜ける。
ついさっきまで木剣を振っていたからか、こうして家の中へ入ると、農場の昼の静けさが妙に心地よく感じた。
「今日は昨日ほどふらついてませんね」
ミリアが向かいからそう言った。
「まあな。とんでもなくちゃんと寝れたからだと思う」
「体の疲労に関しては私が何とかしてるんだから、感謝してほしいわね」
フィーアが当然みたいな顔で言う。
「してるって」
「口だけじゃなくて態度で見せなさいよ」
「どう見せればいいんだ」
「毎食デザートを譲る、とか?」
「どこにそんなデザートがあるんだよ……」
「リューベールかしら」
「流石に遠すぎるだろ……」
そんなやり取りをしながらパンをちぎった時だった。
かちゃん、と小さな音がした。
見ると、エイルの持っていたスプーンが皿に落ちていた。
顔色が悪い。
青い、というより、血の気が引いて白くなっている。両手で口元を押さえ、椅子から立ち上がろうとして、その途中でふらついた。
「エイル?」
フィーアが先に立ってエイルの肩を掴む。
エイルは返事をしなかった。そのまま口元を押さえたまま戸口の方へ向かい、扉を開けて外へ出る。
直後、えずく音がした。
「お、おい」
俺も立ち上がる。
外へ出ると、エイルが壁に片手をついて肩で息をしていた。吐いたあとらしく、額に汗が浮いている。
フィーアがすぐ隣へ寄り、背中に手を当てる。
「魔力酔い? 大丈夫?」
「はい……魔力、です……」
エイルの声はかすれていた。
「急に、濃いのが……波みたいに来て……」
そこで、追ってきていたアレンが森の方を見たまま止まった。
顔が変わる。
いつもの無口な少年の顔じゃない。森の中で獲物を見ていた時と同じ、余計なものを全部切り落としたような目だった。
「……なにか、来るかも」




