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第35話 鬼の訓練

 霧の中で、また獣が光る。


「来るぞ」


 グラウスの声がして俺は木剣を握り直した。


 獣は低く走り込んでくる。


 俺の膝を狙うような高さだった。


 木剣を下げる。けれど、振り抜かない。叩き落とそうとすれば、たぶん避けられる。


 なら、進路を潰す。


 木剣を斜めに置くように出した。


 獣が横へ逃げる。


 来ると思っていた俺は半歩だけ体をずらし、逃げた先へ木剣を置く。


 手応えがあった。


 木剣の腹が、獣の首元に当たる。


 固いものを叩いた感じではない。水面に棒を突っ込んだみたいに、少し沈む感触があった。だが、そのまま力を込めると、光の獣の輪郭が大きく歪んだ。


 次の瞬間、獣の体がほどけた。


 光の粒が、霧の中へ散っていく。


「……お」


 思わず声が出た。


 当たった。


 倒した、というより崩したに近い感覚だ。光の粒はしばらく空中に残っていたが、すぐに霧に混ざるように消えていった。


「——あ、今ので崩れるんですね……なるほど」


 エイルの声がした。


「なら、もう少しだけ、強めにしても大丈夫かもしれませんね!」


「え」


 俺は霧の外へ顔を向ける。


「待て、それってこれ以上に大変になるんじゃないのか?」


「あぁ、難易度は上がるな」


 グラウスが笑った。


「ちょっと成長したらすぐに強くなるの、理不尽じゃないか?」


「よかったじゃねぇか。成長してる証だぞ」


「ものは言いようだな……」


 霧の中に、また光が生まれる。


 さっきより輪郭がはっきりしていた。


 獣の形が濃くなり、脚の動きも少しだけ生物に近くなる。前足が地面を掻き、背中を低くしてこちらを見据える。殺傷力はないはずなのに、正面から見られると普通に嫌だった。


「い、行きますよ!」


 エイルの声は小さく控えめだ。それに比べて霧の中の獣の動きは派手だった。


 獣が二体、左右に分かれる。


「な、なんか、増えてないか!」


「見えてるなら問題ねぇだろ」


「そういう問題じゃねぇ!」


 左の獣が跳ねるが、右の獣は動かずじっと待っているようだった。


 左に反応すれば、右から来る。そう分かっているのに、飛んできたものへ体が向いた。


 その瞬間、霧の中でグラウスの足音がした。


 右。


 いや、前。


 光の玉は左斜め前にある。


 獣は左右。


 グラウスは正面の霧から来る。


 頭の中で情報が一気に過密状態になる。


「見えるもの全部に反応しようとするな!」


 グラウスの声が飛ぶ。


「来たものを順番に処理して進むんだ!」


「それができたら苦労しないんだが!」


 左から飛んできた獣を木剣の腹で受ける。


 衝撃は軽い。


 でも、木剣を大きく動かしたせいで、体が左へ流れた。


 そこへグラウスが踏み込んでくる。


 俺は無理やり木剣を戻した。間に合わないわず、受けたが、形が崩れている。グラウスの木剣が俺の木剣ごと押し込んできて、腕がしびれる。


「足止めされてるぞ?」


「っ……!」


 その間に、右側にいた獣が光の玉との間へ入り込んでいた。


 完全に塞がれた。


 まただ。


 進むはずが、完全にコントロールされて身動きが取れない。


 敵を見て、避けて、受けているうちに、自分の行きたい場所から遠ざけられている。


 光の玉が霧の向こうでぼやける。


 俺は歯を食いしばった。


 倒そうとするから止まる。


 追うから流される。


 見るべきものは、敵だけじゃない。


 光の玉だ。


 そこまでの隙間。


 グラウスの正確な位置。


 獣の動きの一挙手一投足。


 全部を一つずつ丁寧に見ようとするから遅れる。


 なら、全部を細かく見るんじゃなくて、今必要なものだけを見る。


 右の獣がこちらへ低く走る。


 グラウスはその奥にいる。


 光の玉は、左斜め前。


 その間に、少しだけ霧の薄い場所がある。


「そこか……!」


 俺は獣を倒そうとしなかった。


 木剣の腹を横へ向ける。


 飛び込んできた獣に合わせて、受けるというより押し流す。肩に軽く当たり体勢は崩れる。けれど、倒れはしない。


 足を止めないことを意識してそのまま斜めに抜ける。


 霧の向こうから、グラウスが木剣を突如として振ってきた。


 俺は木剣を合わせて衝撃が腕に走る。グラウスの剣はとても重い。


 それでも、受けたあとにこの場で止まることをせず無理やり突き進むため、短く返す。


 当てるためじゃなくて、道を空けるために木剣を差し込むとグラウスの木剣が、ほんの一瞬だけ止まった。


 間ができるたことを理解して、俺はその隙間へ体をねじ込んだ。


 足が草を踏む。湿った土で少し滑る。転びそうになったが、膝で耐える。


 光の玉が目の前にあった。


 手を伸ばせば届く距離。


 俺はその場所へ、なんとか足を入れた。


 光の玉がふっと強く光る。


「……着いた」


 息が漏れた。


 獣を全部倒したわけじゃない。


 グラウスに勝ったわけでもない。


 ただ、霧の中で、目的の場所へたどり着いただけだ。


 それでも、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「今のは良かったな」


 霧の中からグラウスの声がした。


「今のやり方をしっかり覚えておけよ」


「……分かった」


 返事をしながら、肩で息をする。


 たぶん、偶然だけではなかった。今まで教えてもあったことが確実に身についているんだと自覚する。


「じゃあ、次だな」


「……まだやるのか」


「当たり前だろ。一回できたくらいで終わるわけねぇだろうが」


 グラウスの声が楽しそうだった。


 嫌な予感がした。


「エイル、もう少し動きを変えられるか?」


「は、はい。できます」


「いや、待て、今の成功をもう少し味わわせてくれよ」


 なんて言いながら多少休みたいという思惑がある。


「実戦で敵は待ってくれないぞ」


「正論は嫌いだ……」


 霧の中に、また光が生まれた。


 今度は、光の玉がさっきより遠い。


 獣の輪郭も、二つではない。


 三つ。


 いや、霧のせいではっきりしないだけで、もっといるようにも見える。


 全部が一斉に来るわけではない。片方が見せるように動き、もう片方が横へ回り、残りが光の玉の近くにいる。


 グラウスの足音は聞こえない。


 どこから来るのか分からない。


 俺は木剣を構え直した。


 さっきの感覚を思い出しながら光の玉を見てどのようなルートをたどるのかを考える。


 しかし、考えてもそう簡単に答えなんて出ないんだから、来たものを処理して、進むだけでいいと前進する。


 視界の左側で獣が跳ねた。俺は木剣を合わせ受ける。


 右から次。そちらへ体を向けた瞬間、グラウスの木剣が正面から飛んできた。


 かわして返す。


 そのつもりだった。


 だが、返す前に体の反応が遅れた。


 そこへ、さっき受け流したはずの獣が戻ってきた。


「しまっ――」


 肩を押され、その先に別の獣がいた。


 衝撃は軽い。なのに続けてぶつかられると平衡感覚が失われて体の向きが分からなくなる。


 右足が滑り、木剣を出す場所も分からない。


 光の玉は見えているから進むべき道はわかるのに。


 次の瞬間、木剣が胸元へ入る。


 息が詰まって、俺は後ろへ倒れた。


 背中から地面に落ちる。


 見上げても、空は見えない。


 白い霧だけが、目の前に広がっていた。


 起き上がろうとしたが、腕にうまく力が入らなかった。痛いわけじゃなくて単純に、頭が動けと言っているのに、体が少し遅れているような感じだった


 霧の向こうで、足音が止まる。


「ここまでだな」


 グラウスの声がした。


 その直後、白い霧がゆっくりとほどけ始めた。


 最初に見えたのは、足元の草だった。


 次に、少し離れた場所に立つグラウス。


 木剣を肩に担ぎ、息一つ乱していない。汗はかいているのかもしれないが、俺とは違って普通に立っている。


 その向こうに、エイルがいた。


 杖を両手で持って、じっとこちらを見ている。表情は真剣だったが、魔法を解いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


 杖を握っていた指がゆっくり開く。


 息を吐いたあと、エイルは片手で杖を持ち直した。ほんの少しだけ、肩が上下している。


 さらにその横にフィーアが立っていた。


 本は閉じられている。こちらを見ているというより、エイルをちらりと見て、それから俺へ視線を戻した。


 霧が薄くなっていく。


 白い壁のようだったものが、少しずつ空き地の端を返していく。


 畑の低い影。木の柵。家畜小屋の屋根。ミリアの家。


 霧で見えなかっただけで最初からそこにあったはずなのに、不思議とそれらが現れたように感じた。


 そして空はもう暗かった。


「……夜じゃないか」


 俺は地面に仰向けになったまま呟いた。


 いつの間に、こんな時間までやっていたのか分からない。


 朝から始めたはずだ。


 途中で飯を食った記憶はある。水も飲んだはずだ。フィーアに何度か回復された気もする。


 けれど、霧の中で何度も転がされているうちに、時間の感覚が完全に消えていた。


「よくやったな」


 グラウスが近づいてきた。


 俺は返事をしようとしたが、喉が乾いてうまく声が出ない。


「一回だけだが、ちゃんと目的地に到着できたじゃないか。あれは良かったぜ」


「……一日中やって一回だけ、な」


「一回できりゃ十分だ。明日は二回にすればいい」


 簡単に言ってくれる。


 そう返したかったが、口を開く気力がなかった。


 フィーアが俺の横にしゃがむ。


「どこか痛い?」


「……痛いというより、頭が痛いな」


「でしょうね」


 フィーアの手が俺の額の近くへかざされる。


 淡い光が流れ込んでくる。体の奥に残っていた痛みや重さが少しずつ薄れていくのが分かった。


 それでも、頭の奥にわだかまっている重さまでは消えなかった。


「今日はさっさと寝なさい。だいぶ疲れも溜まってるようだし」


「そうか……」


 フィーアは短く言って、立ち上がった。


 エイルがこちらへおずおずと近づいてくる。


「あの、コウイチさん……すみません。最後、少し難しくしすぎたかもしれません」


「いや……たぶん、ちょうどよかったんだと思う」


 俺はなんとか体を起こした。


 視界が少し揺れる。


「エイルの魔法、すごいな。霧も、獣も、光の玉も、全部魔法で動かしてただろ?」


「い、いえ。出力はかなり落としてますし、長く使っただけで、そんなにすごいことでは……」


「いや、普通にすごいだろ」


 霧の中にいた俺からすれば、あれはもう空き地ではなかった。


 エイルが作った別世界だった。


 どこから敵が来るのか。どこへ進めばいいのか。何もわからない。霧自体が常に淡い光を発していたから霧が晴れてようやく夜だと理解できたくらいだ。


 それを全部エイルがやっていたのだ。


「コウイチ様ー!」


 遠くからミリアの声が聞こえた。


 気づけば、家の方からミリアが走ってきている。その後ろにアレンもいた。二人とも、霧が晴れるのを待っていたのかもしれない。


「大丈夫ですか!?」


「……たぶん」


「たぶんって顔じゃないですよ!」


 ミリアが心配そうに俺の顔を覗き込む。


 何か返そうとしたが、うまく言葉が出ない。頭の中がまだ霧に包まれているみたいだった。


 アレンは俺の少し後ろで止まり、地面に残った足跡を見ていた。


 俺も同じようにそれを見て、どれだけ振り回されたのかが分かる。


 俺は立ち上がろうとして、膝から力が抜けた。


「おっと」


 グラウスに腕を掴まれる。


「無理すんな。今日はここまでだ」


「あぁ……」


 そこから先は、ほとんど流れで進んだ。


 フィーアにもう一度回復魔法を使ってもらったが、対して回復したような感覚はなかった。


 ミリアに肩を貸されかけて、さすがにそれは情けないと思ったが、結局グラウスに首根っこを掴まれるようにして家へ戻った。


 夕食を食って、風呂に入って、気がつけば俺は部屋に戻っていた。


 どうやってここまで来たのかもあまり分からなかった。


 布団に入ってグラウスと並んで天井を見る。


「明日も同じことやるぞ」


「……鬼か」


 自分で返した声が、ひどく小さく聞こえた。


 目を閉じた瞬間に意識が失われ、俺は眠りに落ちた。

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