第34話
白い霧の中で、俺は地面を転がった。
肩から落ちて、転がって背中を打つ。息が詰まる。
すぐに起き上がろうとしたところへ、横から何かがぶつかってきた。
「ぐっ……!」
重い。
本物の魔物ほどではない。けれど、ただの幻でもなかった。肩を強く小突かれたみたいな衝撃が入って、体勢が崩れる。
慌てて木剣を振ると、そこにいたものは霧の中へ溶けるように消えた。
消えた、と思った。
だが次の瞬間には、少し離れた場所で光る輪郭が浮かび上がっていた。
狼みたいな頭。低く沈んだ体。大きさはイノシシくらいある。全身が淡く光っていて、半透明で、獣の形はしているのに、はっきりした生き物には見えない。
エイルの魔法で作られた、偽物の敵だった。
「動け!」
霧の向こうからグラウスの声が飛んでくる。
声のした方を向いた瞬間、白い霧が揺れた。
しまった、と思うより早く、木剣が横から入ってくる。
俺はなんとか木剣を上げたが、間に合わなかった。手首を叩かれ、木剣が危うく飛びそうになる。
「俺を見るなとは言ってねぇ」
霧の中から、グラウスの声だけが聞こえた。
「だが俺だけ見るな」
「無茶言うな!」
「やるんだよ、その無茶を」
そう言われても、目の前は霧だ。
三メートル先もはっきりしない。農場の隣の空き地にいるはずなのに、家も畑も柵も見えなかった。視界にあるのは、足元の草と、白く流れる霧と、時々浮かぶ光だけだ。
その光の一つが、ふわりと前方で揺れている。
あれが次の目印だった。
三日目の訓練は、昨日までとは全然違っていた。
エイルが空き地一帯に霧を張り、その中に魔力でできた獣を動かしている。俺はその霧の中で、光の玉が示す場所まで移動し続けなければならなかった。
光へ向かえば、獣が出る。
獣に気を取られれば、グラウスの木剣が飛んでくる。
グラウスに注意を払えば、今度は獣に小突かれる。
つまり、一瞬の油断も許さない訓練だった。
「前!」
気がつくとグラウスは霧の中に消えていて、声だけがきりの中から聞こえてきた。
すぐ前を見る。
すると横の霧が割れて、半透明の獣が低く突っ込んでくる。
俺は木剣を構えた。
昨日までなら、受ける。
そして短く返す。
それでいいはずだった。
俺は踏み込んで、獣の正面に木剣を振った。
当たる、と思ったのに獣の輪郭がふっと横にずれる。
空振り。
「え――」
次の瞬間、横腹に衝撃が入った。
獣が回り込んでいたのだ。
ぶつかられた勢いで足がもつれ、そこへグラウスの木剣が肩に落ちてくる。
「全く。倒そうとするな」
「くそっ……」
「今のは獣を追いすぎだ。お前の優先度の高い行動はあっちにいくことだ」
霧の中で、光の玉が揺れている。
たしかに、俺はそっちへ向かっていたはずだった。
なのに、獣を倒そうとした瞬間、足が止まって横へ流されてこの有様だ。
「敵の思惑にハマるからお前は今やられたんだぞ」
「……分かった」
「じゃあもう一回だ」
そう言われて、俺は木剣を構え直した。
霧の中で、光の玉が少し先へ移動する。グラウスの姿はもう見えなくなっていた。
行く場所は見えている。
ただそこへ行けばいい。
そう思った瞬間、左側で草をかき分ける音が鳴る。
獣か。
俺は左へ木剣を向け近づくも、そこには何もいなかった。
霧だけが揺れている。
気づいた時には、右からグラウスが現れた。低く剣をすべらせて、俺に斬りかかる。
瞬時にグラウスの木剣を受ける。
受けれたと油断したところ、正面から獣が跳ねてでてきた。
木剣を戻すのが遅れ、獣の頭が胸にぶつかり、俺は後ろへ倒れてしまった
「っ……!」
「見えたもの全部に反応しようとする必要なんてないんだ。もっと落ち着いてやれ」
グラウスの声がする。
「でも見ないと食らうだろ」
「あぁ、そうだな。見るのは重要だ。でも反応しなくてもいい敵も中にはあるんだぞ」
「難しすぎる」
霧の中であっちもこっちも同時に来ると、どこに意識を集中させればいいのかわからなくなる。
俺はグラウスから差し出された手を持って立ち上がった。
どうやら霧の端の方にいるらしく、少し離れたところにエイルとフィーアの姿がぼんやり見えた。
霧の向こうで、小さな杖を両手で持っている。いつもの控えめな雰囲気とは少し違う。目は霧の中を見ていて、視線だけで獣たちを動かしているみたいだった。
魔法陣も詠唱もない。
ただ、エイルが集中すると、霧の中に獣の輪郭が浮かび、光の玉が位置を変える。
「……エイル、すごいな」
思わず呟くと、霧の向こうのエイルが少しだけ瞬きをした。
「えっ、あの……訓練用なので、だいぶ弱くしていますから、すごくは、ないです……」
「これで?」
「はい。ぶつかった時も、かなり軽くしてます」
「十分痛いんだが」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、責めてるわけじゃないけど」
「おい、喋ってる暇があるのかー?」
グラウスの声がして振り向くと、次の瞬間、木剣が飛んでくる。
俺は慌てて受けた。
衝撃を逃がして着地する。昨日までに散々やった動きだ。
それ自体は、少しずつ体に残って反応できるようになった。
受けて、流して、短く返す。
グラウスの木剣が少し止まり、何故かと考えていると横から獣が来る。
俺はそちらへ木剣を振るも、また避けられる。
こいつらは、剣が当たる場所にいない。突っ込んできたかと思えば直前で横にずれる。回り込んで、足元や肩を小突いてくる。
本物の生き物ではないはずなのに、妙に生き物っぽい動きはエイルの魔法の技術が高いからだろうか。
「当たらねぇ……!」
「狙いすぎなんだよ」
グラウスの声がきりの中から聞こえてきた。
光の玉が、霧の奥へ移動する。
俺はそこへ向かって踏み出す。
するとすぐに獣が前に出る。
今度は追わないし、真正面から倒そうとしない。
獣がこちらへ低く来る。俺は木剣を斜めに出して、剣の腹で受けるように流した。
触れた瞬間、手に変な感触があった。
生き物を叩いた感触ではない。水を含んだ布を強く押したような、光の塊に木剣を入れたような、変な手応えだった。
獣の体が横へ流れる。
そのまま通り抜けようとした瞬間、獣の後ろ足みたいなものが俺の膝に当たった。
「ぐっ」
膝が落ちて止まる。
その瞬間を狙ったかのようにグラウスの木剣が肩に入った。
「厳しいな」
「実戦の方が厳しいぞ」
言い返せなかった。
霧の中でもフィーアの回復魔法が飛んできて、俺の痛みは消えている。
フィーアは霧の外で座っているはずで姿はほとんど見えないのに、魔法だけはきっちり飛んでくる。
この人たちは、やっぱりおかしい。
グラウスは霧の中から普通に俺を叩いてくるし、エイルは霧と獣と光の玉の魔法を同時に動かしているし、フィーアは見えにくい中でも怪我だけを拾って回復してくる。
俺の常識では全く理由のわからない技術ばかりだった。




