第3話 異世界転生
背後で、ぶよん、と重たい水音がした。
振り返る。
さっきまでぴくりとも動かなかった大きなスライムが、もうすぐそこまで来ていた。
荷馬車の半分ほどもある青い塊が、ぶるりと震えながら道の上を進んでくる。動きそのものはゆったりしているのに、妙な圧があった。ひと跳ねするたびに、湿った音が低く響く。
俺は女性の前に出るように一歩動き、周囲を見渡した。何か使えるものはないかと探すが、まともな武器になりそうなものは見当たらない。石はさっき試して、意味がないとわかっている。
「くそ……!」
このままじゃまずい。
女性はまだ呼吸を取り戻したばかりで、立ち上がれる状態じゃない。あの巨体がもう一度覆いかぶさったら、危険という言葉で終わる状況ではなくなる。
俺はスライムの意識を自分へ向けるつもりで、荷馬車のほうへ駆けた。
片輪をぬかるみに取られた荷馬車は大きく傾いている。荷台に手をかけて中を見ると、入っていたのは瓶や袋に詰められた食料ばかりだった。割れ物は多いが、剣や斧みたいな都合のいい武器はない。
せめて槍でもあれば距離を取りながら戦えるのに。
そう思った、そのときだった。
急に、自分のいた場所へ影が差した。
「え?」
反射的に顔を上げる。
空が、青い塊で埋まっていた。
巨大スライムが真上にいる。
それを理解した瞬間にスライムは落ちてきた。
「っ!」
考えるより先に、荷馬車から飛び退く。地面を蹴って横へ転がった直後、背後でとんでもない音がした。
べしゃんっ、と粘った破裂音。続けて、木が砕ける音。
振り向けば、荷馬車は半ば押し潰され、荷台がひしゃげていた。木片と割れた瓶が周囲に飛び散り、果物や液体が泥の上にぶちまけられる。
心臓が嫌な勢いで脈打つ。まともに下敷きになっていたら終わっていた。
だが、安心している暇はない。巨大スライムは潰れた荷馬車の残骸からずるりと体を動かすと、今度は俺ではなく、女性のほうへ向かい始めた。
「まずい!」
俺はすぐにその後を追う。
散らばった木片が目に入った。俺はその中から細長く尖ったものを拾い上げ、そのままスライムへ突き立てる。
「らぁっ!」
木片はぶすりと青い体にめり込んだ。
だが、止まったのはほんの一瞬だけだった。木片はそのまま粘液の中へ飲まれていき、俺の手から消える。
「なら、足止めだけでも……!」
俺は次々に木片を拾っては投げつけた。次々に水へ棒を投げつけたような鈍い音が続く。
すると、さすがに無視できなくなったのか、巨大スライムがゆっくりと向きを変えた。
こっちを見ている。
顔なんてないはずなのに、そうとしか思えない圧があった。
俺は足元に落ちていた割れた瓶の首を拾い上げる。先端が鋭く尖っていて、簡単な刃物くらいにはなりそうだった。頼りない。でも、素手よりははるかにいい。
俺がスライムへと向き合ったその瞬間、巨大スライムがぶるりと震え、次の瞬間、その巨体がきゅっと縮んだ。
「は?」
意味を理解するより先に、そいつは地面すれすれを這うみたいな勢いで突っ込んでくる。
「うぉっ――!」
避けきれない。
まともに体当たりを食らい、視界が一気に吹き飛んだ。
腹と胸にものすごい衝撃。足が浮く。空と地面が入れ替わる。十メートルは飛ばされたんじゃないかと思う勢いで転がり、背中と肩を何度も打ちつけた。
「が……っ」
息が詰まる。
土と草の匂いが鼻に入る。口の中がじゃりっとする。すぐに起き上がろうとしたが、体がうまく動かない。
それでもなんとか顔を上げ、スライムの姿を探す。
見えない。
嫌な静けさだけが一瞬訪れたそのとき。
また周囲が暗くなった。
ぞっとして空を見上げる。
太陽を背にした巨大スライムが、俺の真上へ跳び上がっている。
さっきと同じだ。スライムの高さからして今度は逃げ切れない。
ここで終わるのか。
異世界に来て、最初に戦った相手がスライムで、そのスライムに潰されて死ぬなんて、さすがに笑えない。
そう思った、その一瞬。
落ちてくる巨大な青の中心で、ひとつだけ、粘液とは違う硬質な影が動いた。
核だ。直感だった。
俺は歯を食いしばって立ち上がり、手に握っていた割れ瓶を空へと突き出す。
「っ、らぁああ!」
直後、巨大スライムが落ちてきた。
ぐにゃり、と全身が包まれる。
冷たい。重い。まるで水中にいるかのようで呼吸ができない。腕も脚も粘液に絡め取られ、身動きが一気に鈍る。だが、突き出した右腕だけは、スライムの中心近くまで潜り込んでいた。
割れ瓶の先が何か硬いものに当たる。
そこだ。
俺は左手で無理やり粘液の中をかき分ける。指先に触れたのは、丸くて冷たい石みたいな感触だった。
「これ、か……!」
掴み、思いきり引く。
だが、抜けない。巨体の奥に埋まっているせいか、核はびくともしなかった。
息が苦しい。視界が暗くなる。握る力もどんどん抜けていく。
このままじゃまずい。
なら――!
核を口元へ無理やり引き寄せた。半分ほどしか届かない。それでも十分だ。
その硬い塊に、力いっぱい噛みつく。
歯がきしみ顎が痛んだ瞬間、ぱきん、と音がした。
すると、巨大スライム全体からは力が抜けて、自分を纏っていた圧が消える。
青い塊だったものは、一気に形を保てなくなり、どろりと崩れ落ちた。
「ぶはっ!!」
地面に投げ出された俺は、泥と粘液にまみれたまま咳き込む。肺がひっくり返るかと思うほど空気を吸い込み、喉の奥の痛みに顔をしかめた。
全身が冷たい。制服はびしょ濡れで張り付き、手も腕も粘液まみれだ。立ち上がろうとするが、膝が笑ってうまく力が入らない。
それでもなんとか顔を上げて、倒したはずの巨大スライムの残骸を見る。
青い液体の中に、いくつか金具のようなものが沈んでいた。ベルト、留め具、革紐の切れ端。
その少し向こうには、噛み千切られたみたいに千切れた手綱も見える。
俺はそこでようやく理解した。
荷馬車に馬がいなかった理由。このスライムが、こんなに巨大だった理由。
てっきり馬は逃げ出したのかと思っていたが。
「……飲みこんでいたのか」
馬を丸ごと。
その事実を理解したとき遅れて背筋が冷えた。もし間に合っていなかったら。もし核に届かなかったら。
俺も、あの女性も、あの馬と同じようにこの中で形をなくしていたのかもしれない。
今さらになって手が震え出す。
心臓はまだ早鐘みたいに鳴っている。息も全然整わない。助かったはずなのに、全身の力だけがどんどん抜けていく。
怖かったのか、興奮しているのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、生きている。
その実感だけが、異様にはっきりしていた。
「……は、はは」
口から乾いた笑いが漏れる。
笑ったつもりだったのに、うまく息が続かない。視界の端がゆらゆらと揺れて、地面と空の境目が曖昧になる。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
膝から力が抜ける。
世界が傾いて、次の瞬間には意識が途切れていた。




