第2話 異世界転生
人の声。
そう思った次の瞬間、草の向こうから、もっとはっきりとその声が聞こえた。
悲鳴だった。
助けにいかなくてはいけないと、謎の使命感で気が付いた時にはもう走り出していた。
この世界のことは何も分からない。それでも誰かが困っているのか、危険な状態なのか、悲鳴を上げているのに、無視をするほうが無理な話だ。
武器もない、この世界のことも何もわからない。けれど、足は止まらなかった。
草をかき分けて声のしたほうへ向かう。靴の先に草が絡み、足元の土が少し沈む。緩やかな斜面を上ったところで視界が開け、一本の道が見えた。
その道の脇には、荷馬車が止まっていた。
片側の車輪がぬかるみに沈んだのか、車体が大きく傾いている。荷台からは袋や木箱が転がり落ち、泥の上に果物らしきものが散らばっていた。
そのすぐ横で、年若い女性が腰を抜かして地面に座り込んでいる。
「や、やめて……」
震える声でそう言いながら、首を左右に振っていた。
その前にいたのは、青色をした半透明の塊だった。
丸くて、ぷるぷるしていて、いかにも弾力がありそうなそれは、どう見てもスライムだった。
女性の前には小さいのが三匹。どれも人の膝くらいの大きさだ。
少し離れた場所には、そいつらとは比べ物にならないほど大きい一匹がいる。あっちは荷馬車の半分ほどもあって、今はぴくりとも動いていない。
頭の中で、「うわ、本物のスライムだ!」なんて場違いなことを叫ぶ。
けれど、そんなのに感動している場合じゃなかった。
先頭の一匹が、女性の足元まで跳ねる。
女性が短い悲鳴を上げ、ずるりと後ずさった。だが腰が抜けているのか、うまく逃げられていない。
「ちょっ、まずい!」
武器はない。
剣も棒もない。
あるのは足元に転がっていた石くらいだ。
俺はしゃがんで、こぶし大の石をひっつかんだ。
当てたところで効くのか分からない。でも、今この場で何もしないよりはましだ。
「頼む、当たれ!」
石を投げる。
それは回転しながらまっすぐ飛んでいき、先頭のスライムをぶち抜いた。
「よしっ――」
言いかけて、止まる。
石は確かにスライムの体を貫通した。青い体に穴が開く。けれどその穴は、次の瞬間には水が戻るみたいにふさがっていた。
「う、嘘だろ……」
その間にもスライムは止まらない。
先頭の一匹が女性の膝の上へ跳ね、そこからさらに顔へ向かって飛びついた。
「んんんっ……!!」
女性が必死に両手で顔をかきむしる。けれど、つかもうとしても指がずるりと滑るだけだ。スライムは顔に貼りついたまま、ぶよぶよと形を変えながら口と鼻を塞いでいく。
スライムの見た目は可愛らしい。
なのに、やっていることは全く可愛くない。
目の前で人が死ぬかもしれない。
その事実を遅れて実感した俺は一瞬めまいのようなものを覚えた。
「くそっ!」
石をもう一つ拾う。だが投げようとした時には、残っていた二匹が一斉にこっちを向いていた。
「うわっ」
一匹が飛んでくる。
反射で横に飛ぶも、足元が悪く着地を崩して足首をひねりかけた。痛みより先に、二匹目が視界の端で跳ねる。
こっちは避けきれなかった。
冷たい塊が顔面にぶつかる。
そのまま鼻と口にべったり張りついた。
「っ――!」
息ができない。
両手で引きはがそうとするが、指が沈むだけで手応えがない。むしろ触れば触るほど顔全体に広がってくる。目も開けられない。声も出せない。水の中に頭を突っ込まれたみたいに、呼吸が一瞬で奪われる。
(くそ、剥がれろ、剥がれろ……!)
その間にもう一匹が脚へまとわりつき、膝下に重みが絡みついた。
バランスを崩して、その場に倒れ込む。
背中と肘に、草と土の感触がぶつかった。転がりながらも顔のスライムを引きはがそうとする。だが、まったく駄目だ。指を立てても裂けない。殴っても拳がスライムに沈むだけ。肺が痛い。
息を吸おうとしても、吸えない。
このまま死ぬのか。
異世界に来て、最初に見たモンスターに顔を塞がれて死ぬのか。
そんなの、笑えない。
その時、口元に石みたいに硬いものが押しつけられた。
冷たい。
もがいた拍子に、それが唇の隙間へ入り込んでくる。
俺はそれを、反射で噛んだ。
ぱきり、と嫌な感触が口の中でした。
次の瞬間、顔にのしかかっていた圧が一気に崩れる。
「ぶはっ!!」
空気を吸い込むと喉が焼けるみたいに痛い。顔を覆っていたスライムは形を失い、水みたいに崩れて胸元をびしゃびしゃに濡らした。
「な、んだ……今の……」
荒く息をしながら、俺は液体になったスライムに目をやる。
泥の上に、砕けた半透明の硬い欠片が落ちていた。
核、みたいなものか。
そう考えると話は早かった。
脚にまとわりついていたもう一匹へ、俺はすぐに両手を突っ込んだ。冷たくてぬるぬるした感触に背筋がぞっとする。だが、そんなことを言っている場合じゃない。
手探りで探ると中心から少しそれたあたりに、ひときわ硬いものがあった。
「これだ!」
掴んで引っ張る。
ずるり、と透明な膜を裂く感触がして、丸い核が飛び出した。すると脚に絡みついていたスライムも、さっきと同じように力を失って液体になる。
自由になった。
一瞬安堵しかけた俺はすぐに女性のもとへ駆けた。
女性は地面に倒れ込み、ほとんど動けなくなっていた。顔を覆ったスライムは、口元と鼻先をぴったり塞ぎ、ゆっくりと形を変えている。
もう声も出ていない。
「待ってろ、今なんとかする!」
さっきの感触を思い出す。
核だ。
あれを壊せば、こいつは崩れる。
俺はスライムに両手を突っ込んだ。冷たくて、ぬるぬるしていて、指が奥へ沈む。さっきより大きいせいか、硬いものになかなか触れない。手を入れても入れても柔らかい感触ばかりで、どこにも引っかからない。
女性の手が、弱々しく俺の腕を掴んだ。
力がない。
もう、ほとんど息ができていない。
「くそっ……!」
探している時間はなかった。
そのとき、スライムの表面が一瞬だけ歪んだ。内側の暗い影が、女性の口元の近くへ滑る。
考えるより先に顔を寄せた。
気持ち悪いとか、怖いとか、そんなことを考える余裕はない。
俺はその部分に思いきり噛みついた。
ぶち、と薄い膜が裂れる。
歯のあいだに、固いものが当たった。
「っ、らぁ!」
そのまま噛み砕く。
ぱきん、と硬い感触。
直後、スライム全体が力を失い、女性の顔からどろりと崩れ落ちた。
「ごほっ! ごほっ、ごほっ!」
「だ、大丈夫か!」
俺は女性の体を横向きにして、背中をさすった。
女性は激しく咳き込みながら、何度も空気を吸い込んだ。涙と粘液で顔はぐしゃぐしゃで、細い肩が震えている。
「ほら、落ち着け。ゆっくり……ゆっくり吸え」
言いながら背中をさすることしかできない。
俺だって心臓がうるさいくらい動いている。息もまだ整っていない。口の中には、さっき噛み砕いた核の嫌な感触が残っていた。歯の奥がじんじんする。
それでも、女性は少しずつ呼吸を取り戻していく。
助かった。
たぶん、助かった。
そう思った、その時だった。
背後で、重たい水音がした。
今までの三匹のように軽い音じゃない。
地面そのものが揺れたような、鈍くて嫌な音だった。
女性の指が、俺の袖を掴む。
「……まだ、います」
振り返る。
さっきまでぴくりとも動かなかった巨大な青い塊が、荷馬車の残骸の向こうでゆっくりと持ち上がっていた。
小さいスライムとは違う。
あれは、俺たちをそのまま飲み込めるほどの大きさだった。




