第27話
前にグラウスたちと来た雑木林に着いた頃には、空の赤みは木々の向こうへ沈みかけていた。
昼間に来た時とは、全然違って見える。
あの時は、グラウスがいて、フィーアがいて、エイルがいて、ミリアもいた。昼飯を食べて、剣の握り方を教わって、ジャイアントラビットに顔面から飛びつかれて、みんなで笑っていた。
今は、俺一人だった。
木々の隙間を風が抜け、足元の草がかすかに揺れる。どこかで虫が鳴いている。普通の森だ。異常種が出た時みたいに、空気そのものがおかしい感じはない。少なくとも、違いは俺には分からない。
それでも夜の森は怖かった。
昼間は開けて見えていた場所も、暗くなり始めるだけでずっと狭く感じる。木の陰は濃くなっているし、草むらの奥も見えづらい。何かが動いたような気がしても、風なのか本当に何かがいるのか、すぐには分からない。
腰の剣に手を添える。
柄を握ると、手のひらが少し汗ばんでいた。
「……大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
それでも、ここまで来た。
「――お前は初心者だ。連れていけば、守る対象になる。お荷物になる」
グラウスの声が反芻される。
「そんなこと、分かってる」
小さく呟く。
分かっている。だから、ここにこうしているんだ。
ジャイアントラビットなら。
前に一度、戦った相手なら。実力の証明として一人で倒すことができるんじゃないか。
俺は腰の剣を抜いた。しゃら、と刃が鞘から出る音がする。前にここで練習した時より、その音が嫌にはっきり聞こえた。
***
一匹目は、思ったよりすぐに出くわすことができた。
こちらが探すより先に、草むらの奥で白い影が動いた。俺は剣を構える。腕に力が入りすぎているのが自分でも分かっていたが、だからといって簡単に脱力できるほど戦闘には慣れていない。
白いジャイアントラビットは、木の根元からひょこっと顔を出した。耳を立てて、こちらを見ている。昼間なら、少しくらいは可愛いと思ったかもしれない。
でも今は、そうは見えなかった。
大きさは犬くらい。丸い体に柔らかそうな毛。見た目だけなら普通の犬みたいなのに、跳躍力は普通じゃない力を出す。
ジャイアントラビットは一瞬だけこちらを見て、それから地面を蹴った。
「っ!」
速い。
俺は剣を前に出した。
受け止めるな。流せ。
グラウスに言われたことを思い出しながら、刃を少し斜めにする。次の瞬間、白い塊が剣にぶつかった。
どん、と腕に衝撃が走る。
思ったより重い。腕だけで耐えようとして、すぐに無理だと分かった。足を開いて、体ごと支える。剣が弾かれそうになったが、なんとか角度を保った。
白いジャイアントラビットの軌道が少し逸れる。
横を抜けた瞬間に剣を振ったが、刃は毛を裂いただけだった。
「くそっ」
追いかけそうになって、足を止める。
――追うな。焦るな。
ジャイアントラビットは着地すると、すぐに草むらへ消えた。白い毛が見えなくなるだけで、急に場所が分からなくなる。
右か。左か。
草の揺れを追うが、暗くなり始めた森の中では、風で揺れているだけなのか、ジャイアントラビットが動いているのか分かりづらい。
また、白い影が見える。地面すれすれを飛んでくる。
「膝かっ!」
俺は剣を下げた。白い体がぶつかり、腕がしびれる。受け止めきれずに足元が滑りかけたが、倒れたら負けると思ってなんとか踏ん張れた。
「ぐっ……!」
剣の角度を少しだけ変えて白い体が横へ流れた。
今度は、逃がさない。
着地の瞬間、ジャイアントラビットの動きがほんの少し止まるのをみた俺は踏み込んだ。
「らぁっ!」
剣を振るうと今度は刃が入った。
白いジャイアントラビットは地面を転がり、何度か足をばたつかせた。まだ動くかもしれないと思って剣を構えたまま距離を取る。
だが、しばらくすると白いジャイアントラビットは動かなくなった。
森の中に再び静寂が訪れる。
「……一匹目」
声が、思ったよりかすれていた。
たった一匹。
それだけで、息が上がっている。肩が重い。柄を握っていた手のひらも痛い。剣を持って戦うなんて、昨日今日でどうにかなるものじゃないと分かっていたが、それでも実際に一人でやると、思っていたよりずっときつかった。
それでも倒した。
つい数日前は苦戦していた相手なのに、今回はきちんと倒せた。
やれべできるんだと思うと、少しだけ胸の奥が熱くなった。
あと二匹。
俺は動かなくなった白いジャイアントラビットのそばへ寄った。
証明部位は耳。
そう教わっている。片方の耳だけ切れば、持っていくのはずっと楽だ。依頼としても、それで問題ない。
剣を持つ手が止まった。
耳だけを切って、体をここへ置いていく。
それが、どうしても嫌だった。
自分の都合だとは分かっている。冒険者としては甘いのかもしれない。グラウスなら、余計なことを考えるなと言うかもしれない。
でも、今の俺にはできなかった。
「……このまま持って帰るか」
言ってから、かなり面倒なことをするなと矛盾していることを思った。
目印として近くの木に剣で傷をつけて、後で回収できるようにしておいた。
***
二匹目を見つける頃には、完全に夜になっていた。昼間は複数匹で動いていたのに、今度は一体ずつしか見つけれない。
月明かりはある。けれど、木々の影が重なって、足元まではっきり見えるわけじゃない。昼間なら何でもない草むらや倒木が、何かが潜んでいる場所に見えた。
帰った方がいいかもしれないという考えは、何度も浮かんだ。
一匹倒した。俺にとっては、それだけでも十分だ。そう言い聞かせることもできる。森が暗くなったから危険。初心者だから知識がない。一人だから怪我をできない。理由は探そうと思えばいくらでもある。
でも、そんな言い訳をして帰ってしまうのは嫌だった。
受けた依頼は三体だ。結局逃がしてしまったから、この依頼を達成するには三匹倒さなければいけない。
そんな思考をしていると、視界左側で茂みが揺れた。
俺はすぐに剣を抜く。木の葉の陰に茶色い影が見えて白いやつより少し小さいと見積もる。小さい分、動きが速かった。
木の陰に入ったと思ったら、次には別の草むらから出てくる。正面には来ない。横、斜め、足元。見えたと思った時には、もう違う場所にいる。
「全然見えねぇ……!」
茶色の影が右に消える。追おうとして、足を止めた。
――追うな。
自分の足で追いつけるわけがない。
なら、こっちが動く場所を減らすしかない。
俺はゆっくり下がった。背中に木の幹が当たる。これで後ろはない。前と左右だけを見ればいい。
少しだけ息がしやすくなった気がする。
茶色の影が揺れ、草が動く。
低い。足元だ。
俺は剣を横へ下げた。茶色の塊が地面すれすれに飛び込んでくる。膝を狙っている。剣にぶつかった瞬間、腕がしびれた。
小さいくせに、重い。
腕だけで受けそうになって、慌てて腰を落とす。足に力を入れ、剣の角度を変える。茶色の体が横へ流れた。
着地の瞬間、そいつの足が木の葉に取られて少し滑った。俺はチャンスだと思い、ここで一歩踏み込んだ。
剣を振るってジャイアントラビットの背中に刃は吸い込まれるように入っていく。
刃が背中をとらえる感覚はあったのに、茶色のジャイアントラビットは逃げようとして力を籠める。しかし、うまく力が入らなかったのか、その場で体勢を崩したのwみて、俺はもう一度剣を振るった。
今度こそ、動かなくなった。
「はぁ……はぁ……」
二匹目。
俺は木にもたれたまま、しばらく息を整えた。
暗い森の中で、一人。足元には、今しがた倒したジャイアントラビットが転がっている。
数日前まで学校の屋上で寝ていた人間が、異世界の森で剣を持ってモンスターを狩っている。現実感はあるのに、感覚はそれを否定する。
それでも、手のひらの痛みや剣に付着する血液や肺に入る空気から感じる自然の香り、それらはやはり本物としか思えなかった。
俺は茶色のジャイアントラビットも木の下に移動させて気に目印をつけておいた。
「……あと一匹」
一瞬、気を抜くと、喉が渇いていることに気づいた。腹も減っている。眠気も少しある。腕はすでに重くて鉛のようだ、腰も痛い。剣を握る手の中では皮がはがれるような感覚がする。
それでも、まだ終われなかった。
***
三匹目は、なかなか見つからなかった。
夜が深くなり、焦りと疲労で息が荒くなる。
森の奥まで入りすぎないように気をつけながら、前に来た場所の周辺を中心に何度も歩いた。足跡なんて読めないし、草木の折れ方もよく分からない。ただ音に耳をすませて、何か反応があったほうを見る。それくらいしか俺の知識ではできなかった。
何度も、戻ろうと思った。暗い中で一人で不安が募り続ける。
二匹倒した。
十分だろ。
初心者が一人でここまでやれば、悪くないだろ。
悪魔の誘惑が頭の中で勝手に喋りだす。
そのたびに、グラウスのあの時の発言が浮かんだ。
俺を見下していたわけじゃない。本気で止めていたのはわかっている。俺が死ぬかもしれないから。俺のせいで誰かが死ぬかもしれないからという主張は間違っていない。
それでも、俺はここで帰ったら負けてしまうような気がしていたんだ。
途中、俺は小さな根に足を取られて、体をがくんと持っていかれた。
「うわっ……」
転びかけて踏ん張る。
こんな満身創痍であと一匹を探している時点で、かなり馬鹿なことをしていると理解している。
でもやっぱり、戻るという選択肢は俺には全くなかった。
「……出てこいよ」
小さく呟く。
戦う準備はできているのに、草むらが揺れるたびに体が強ばる。自分で来たくせに何をしているんだろうなと思った。
それでも歩いていると、少し開けた場所に出た。
昼間、グラウスと稽古をした場所に似ていた。木々が少しだけ切れていて、月明かりが地面に落ちている。踏み荒らされた跡がいくつもあり、ジャイアントラビットがよく通る場所なのかもしれない。
そこで、灰色の影が見えた。
他の二匹より大きい。
異常種じゃないというのは明らかなのに、大きいというだけで恐怖の感情が強くなる。
灰色のジャイアントラビットは、こちらに気づいていた。逃げない。耳を立てて、じっと俺を見ている。
「……三匹目、か」
剣を構える。
手が痛い。柄を握るだけで、手のひらがひりひりする。汗のせいか、革の感触も少し滑るような気がした。
灰色は動かずにじっとこちらを見てきている。それは俺とは違って余裕を感じさせる静止だった。
この嫌な沈黙を破るべく先に動いたのは俺だった。
焦ったわけじゃない。そう思いたかった。けれど、たぶん焦っていた。長い孤独と疲労感、こいつを倒せば帰れるという安堵を求めていたのかもしれない。
一歩踏み出した瞬間、灰色の姿が視界から消えた。
「っ!」
正面にいたはずなのに、次に見えた時にはもう視界の端にいた。
反応が遅れて脇腹に重い衝撃が入る。
「がっ……!」
体が吹っ飛び、地面に転がった。
異常種にやられた時の記憶が、一瞬だけ重なる。空と地面がぐちゃぐちゃになる。息が詰まり、体がうまく動かない。
まずい。
そう思った瞬間、灰色はもう次の動きに入っていた。
起き上がる暇がない。
俺は転がるように横へ逃げた。さっきまで頭があった場所を、灰色の体が通り過ぎる。草が風に押されて跳ね上がる。
「っぶねぇ……!」
なんとか起き上がり、剣を構える。
呼吸が乱れ、脇腹が痛い。
――お前が狙われれば、俺は助けに行くだろう。
グラウスの言葉が、頭の中に響く。
「クッソ。いわれたとおりになりそうで草も生えねぇよ……」
灰色のジャイアントラビットは再び距離を取っていた。
すぐには動こうとしないようだ。
俺が一歩でも動くのを待っているみたいだった。
こいつは、他の二匹とは違うって速いだけじゃない。
俺が焦るのを待つ辛抱強さを持ち合わせている。
「だったら……」
こっちも動かない。
剣を構えて、息を整える。脇腹が痛む。足も痛い。手も痛い。でも剣は下げずに正面で構えておく。
しばらくにらみ合いを続けていると灰色が体を沈めた。
正面。
いや、たぶん途中で軌道を変えるのだろう。
ジャイアントラビットの体全体を見て、俺は剣をしっかりと握りなおした。
――目だけで追うな。体全体で見ろ。
グラウスが言っていたことそのままやっていることに気が付いて、思わず口元に笑みが浮かんでしまった。
灰色が跳んで、正面に見せかけて、左に動く。
俺は左へ剣を向ける。だが、灰色は空中で木を蹴って軌道を変えた。
右。
間に合わない。
次の瞬間には肩にジャイアントラビットの体当たりを食らった。
「ぐっ!」
倒れそうになるが、足を踏ん張る。灰色が横を抜ける。追わない。こいつとの戦いに勝つ方法は待つことだ。
また来る。今度は上だった。
木を蹴って、斜めから落ちてくる。俺は避けるのではなく、半歩だけ下がった。目の前を灰色の体が通り、風が顔に当たる。
剣を振るも空振り。
灰色は俺の剣の軌道よりも早く着地していた。
「くそっ」
焦るな。
焦るな。
焦るな。
自分に言い聞かせる。
灰色がまた距離を取るが、俺はその場から動かない。
今の俺のアドバンテージは辛抱強さだけだ。
今の俺には、それしかできない。
そのあとも、何度もぶつかられた。
肩。腕。脚。全身のいたるところにあざができている感覚がある。
正面からは受けないようにしても、完全には避けられない。柔らかいはずの体が、速度を乗せるだけで鈍器になる。一発ごとは耐えられても、何度も続くと体の芯から体力が少しずつ削られていくような感じがする。
息が上がって酸素がたりなくなっているのか、視界が狭くなる。
灰色も疲れているはずだ。
でも、こっちの方が先に限界が来そうだった。
もう一度、灰色が低く沈む。
今度は足元。
膝を狙う。
そう思った。
けれど、それも誘いだった。
灰色は地面すれすれに来ると見せて、直前で着地すると上へ大きく跳ねた。
「顔かよ!」
叫びながら、俺は剣を上げた。
間に合わない。
灰色の体が顔にぶつかる。鼻と口が毛で塞がれた。
息ができない。
スライムとは違う。
冷たくない。ぬるついてもいない。
でも、息ができない。
それだけで、体があの時を思い出した。
「っ、んん!」
剣を落としそうになる。
駄目だ。離すな。
左手で灰色の体をつかんで毛が指に絡む。暴れるし重いし後ろへ倒れそうになる。
でも俺はそのまま、逆に前へ倒れ込んだ。
灰色の体を抱えたまま、地面へ押しつける。
すぐに抜けようとして暴れる。後ろ足が腹を蹴り、爪が服に引っかかる。痛い。息が漏れる。顔に押しつけられた毛のせいで、まともに呼吸もできない。それでも逃がさないように力いっぱい押さえつける。
逃げられたら俺は負けるだったら、離さない。
右手で剣を握り直す。大きく振る余裕なんてない。刃を持つ位置も怪しい。こんな使い方でいいのか分からないが、今さらきれいな型なんて気にしている場合でもないだろう。
俺は灰色の体を押さえ込んだまま、剣を突き立てた。
一度目は浅かった。
灰色が叫びながら大きく暴れる。
二度目。
腕の中で、体が跳ねた。
三度目。
急に、ジャイアントラビットから力が抜けた。
俺はそのまま、しばらく動けなかった。腕の中に、灰色の重みだけが残っている。
「はっ……はぁ……」
倒した。
三匹目。
俺は灰色のジャイアントラビットから手を離し、仰向けに倒れた。木々の隙間から、夜明け前の空が見える。
真っ黒だった空の端が、少しだけ薄くなっていて、日の出が近いことを認識した。
丸々一晩かかった、のか。
たった三匹に、一晩。
「……終わった」
声はかすれていた。
体中が痛い。眠い。腹も減った。帰りのことを考えると、気が遠くなりそうだった。
でも、起き上がらないわけにはいかない。
三体分のジャイアントラビットを俺は回収しないといけない。
倒しただけでは終わらずに持って帰る必要がある。
俺はゆっくり体を起こした。
一匹目と二匹目を放置していた場所まで戻り、三匹目を服でどうにかまとめてから持ち上げようとしたが、まったく上がらなかった。
「……無理だろ、これ」
思わず笑った。
笑いながら、持つ位置を変える。
肩に担ぐのは無理だ。引きずるしかない。毛は汚れるし、たぶん途中で何度も止まる。これをギルドまで持っていくことを考えると、耳だけ切って報告というのがとても納得のいく報告だと理解できた。
朝の光が、梢の間から少しずつ森に入ってくる。
夜の間は黒い塊にしか見えなかった木の幹や草が、ゆっくり形を取り戻していく。さっきまであれほど怖かった森が、明るくなるだけで少し別の場所みたいに見えた。
俺は三体のジャイアントラビットを引きずりながら、リューベールへと向かって歩き出した。
足は重いし、腕も上がらない。体は泥だらけだし今すぐにでも休みたいほど眠たい。
それでも、止まらなかった。
討伐目標、三体。一人で終わらせた。
朝日が、木々の向こうから差し始めているのをみて、不思議な高揚感を感じた。




