第23話
食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
片付けを手伝おうとしたが、母親に「今日はもう座ってなさい」と止められた。さすがに逆らう気力もなく、俺は家の外へ出て、玄関脇の柵にもたれていた。
夜の農場は、昼間とは全然違って見えた。
昼間あれだけ広く見えていた農場も、今は闇に沈んでいる。家畜小屋の輪郭もぼんやりとしていて、風が吹くたびに、草と藁の匂いが少しだけ流れてきた。
家の中からは、皿を重ねる音が聞こえる。
母親の鼻歌と、時々それに返すミリアの声。父親の低い声。アレンが何か答える声。
さっきまで俺もその中にいたはずなのに、外へ出ると、急にそれが少し遠いものみたいに感じた。
「コウイチ様」
声がして振り向くと、ミリアがコップを二つ持って立っていた。
「母が、これを」
ひとつを差し出してくるので受け取った。
木のコップの中には、湯気の立つ甘そうな飲み物が入っている。ひと口飲むと、少しだけココアに似た味がした。甘くて、温かくて、疲れた体にじんわり染みていく。
「うまいな、これ」
「よかったです。母が疲れた時によく作ってくれるんですよ」
ミリアは俺の隣に並んで、同じように柵の方を見た。
「今日は本当にありがとうございました」
「いや、こっちこそ。飯と寝床をもらってるしな。あれくらいは」
「あれくらい、では全然ないですよ。コウイチ様、途中からかなり疲れていたでしょう?」
「まあ、正直な」
「それでも最後まで手伝ってくださいました」
「途中でやめると負けた感じがしてな。絶対やり切りたかった」
「コウイチ様らしいです」
ミリアは少しだけ笑った。
家の中からは、まだ食器を片付ける音が聞こえてきている。外では虫の声と、吹き抜ける風の音だけが鳴っていた。
「……変な話だけどさ」
気がつけば、そんな言葉が出ていた。
ミリアは何も言わずにこちらを見る。
「午後からここ手伝って、飯食って、みんなが普通に話してるのを見てたら、ちょっと思ったんだよ」
「はい」
「俺、ここに帰る場所がないんだなって」
口にしてから、思っていたより重い言葉だったことに気づいた。
別に、暗い話にしたかったわけじゃない。
でも、出てしまったものはしょうがない。止めてしまう理由もないし、話し続けることにした。
「俺のいたところとは、何もかも違うんだ」
家の中から、皿の重なる音が聞こえる。
「文字も読めない。金の価値もまだ怪しい。どこが安全で、どこから先が危ないのかも分からない」
そこまで言って、自分で少し笑った。
コップの中の湯気を見ながら、俺は息を吐いた。
「飯はうまいし、魔法はすごいし、街もギルドも見てるだけで楽しい。剣を持った時も、正直かなりテンション上がった。そういうのは本当に楽しいんだ」
一度、言葉を切る。
「でも、楽しいって思った次の瞬間に、普通に死にかけるんだよな」
スライムに顔を塞がれた時のことを思い出す。
冷たくて、ぬるついて、息ができなくて、指を立てても掴めなかった。
昨日、ジャイアントラビットに吹っ飛ばされた時のことも思い出す。
空と地面がぐちゃぐちゃになって、ひどい傷をおった。
「スライムに顔を塞がれた時も、昨日吹っ飛ばされた時も、ああ、俺、本当に死ぬんだなって思った」
今まで、自分が死ぬなんて本気で考えたことがなかった。
そんなことを思い返す。
「帰れるかも分からない。帰り方も分からない。そもそも、なんでこっちに来たのかも分からない。だから今は、とにかくここで生きるしかないんだけど」
柵の上で、手を軽く握る。
「今までとは何もかも違う場所で、自分だけ何も分からないって、思ったよりきついな」
ミリアはしばらく黙っていた。
台所から皿を洗う音が聞こえる。外では風が鳴っている。昼間の農場とは違って、夜は静かだった。
「それは……怖くない方が、おかしいと思います」
ミリアは静かに言った。
「私だって怖いです。スライムに襲われた時も、昨日の戦いを見た時も」
「ミリアでもか?」
「怖いですよ?」
少しだけ笑って、ミリアは続ける。
「でも、コウイチ様は怖くても動いてくれました」
ミリアは、手元のコップを見ながら言った。
「あの時、私の前に立ってくれました。理由とか、正しい判断だったかとか、そういうことは私には分かりません」
そこで、ミリアは少しだけこちらを見る。
「でも、私はそれで助かりました」
まっすぐ言われると、返す言葉に困る。
俺は視線を少し外した。
「……買い被りすぎだ」
「そんなことありません」
その言い方は、妙に強かった。
「コウイチ様は、目の前に困っている人がいたら動いてくれます。今日だって、疲れていたのに最後まで手伝ってくれました」
「それは、できることをやっただけだ」
「それでも、助かる人はいるんです」
自分では、そんなふうに考えたことはなかった。
ただ必死だった。
流されないように、置いていかれないように、死なないように、その場その場でできることをやっていただけだ。
でも、ミリアにはそれがそう見えていたらしい。
しばらくして、俺は小さく息を吐いた。
「じゃあ、もう少しできることを増やさないとな」
俺はコップの中を見た。
「今の俺、剣も半端だし、文字も読めないし、農場仕事でも家畜に囲まれるし」
「でも、明日は囲まれずに済みますね」
「たぶんな」
「文字は、私でよければ教えますよ」
「いいのか?」
「はい。私で分かる範囲なら」
「じゃあ、まずは文字だな」
「文字は大事ですよ」
「あとは剣だ。グラウスに教わらないと」
「それから農場仕事もありますよ」
「今日かなり鍛えられた気がするんだが」
「明日も明後日もできます!」
「もしかして俺はもう採用されてんのか?」
思わずそう言うと、ミリアは楽しそうに笑った。
その笑い声につられて、俺も少しだけ笑う。
重かった空気が、少しだけ軽くなった。
そのあとも、俺たちはしばらく他愛もない話をしながら、グラウスたちの帰りを待った。
けれど、森の方から人影は戻ってこない。
飲み物は、いつのまにか冷めていた。
家の中から聞こえていた皿の音も、少しずつ消えていく。
ミリアは何度か森の方を見た。
俺も、そのたびに同じ方を見る。
でもこの日、グラウスたちは結局帰ってこなかった。




