第22話
納屋の扉を開けた瞬間、乾いた草の匂いが一気に広がった。中には束ねられた干し草が山のように積み上がっている。外から見た時はただの山に見えたが、近くで見ると一束一束がかなり大きい。
「これを運ぶのか?」
「はい。まずは小屋の方へ」
ミリアが軽く一束を持ち上げる。
あまりに自然に持つので、見た目ほど重くないのかと思った。
俺も同じように手をかける。
「……重っ」
普通に重かった。
しかも重いだけじゃない。持ちづらい。腕に刺さるし、形は崩れそうになるし、力を入れる場所が分からない。
「腕だけで持つと大変ですよ」
ミリアがすぐに近づいてくる。
「こう、腰を落として、体ごと持ち上げる感じです」
言われた通りにしゃがんで、干し草を体に寄せるように持ち上げる。さっきよりはかなり楽になった。
「お、いける」
「そのまま足元に気をつけてください。干し草で前が見えにくいので」
「了解」
納屋から小屋までの距離は、それほど長くない。
そう思っていた。
実際に持って歩くと、絶妙に長かった。
腕がじわじわ重くなる。足元は見えない。干し草の匂いが顔に近くて、鼻がむずむずする。途中で一度くしゃみをしそうになって、危うく全部落としかけた。
なんとか小屋まで運んで、指定された場所へ下ろす。
それだけで、少し達成感があった。
「よし」
「では次です!」
「次?」
「はい。まだまだありますから!」
ミリアはにこにこしていた。
俺は納屋に積まれた干し草の山を見る。
山は、ほとんど減っていなかった。
何度か往復していると、ミリアの父親も黙って干し草を抱えて小屋へ運んでいた。大きな動きはしないのに、一回で持つ量が俺より多い。しかも息も乱れていない。
アレンも小さな体で、自分に持てる量だけを淡々と運んでいる。無理はしていない。でも遅くもない、手慣れた動きだった。
俺だけが、いちいち重さに驚いて不慣れに作業をしていた。
干し草を運び終えると、次は餌だった。
父親が納屋の奥から大きな袋を引きずり出し、俺の前に置く。
「これを桶に入れる」
「あ、はい」
袋を持ち上げようとして、思ったよりずしりときた。
肩に担ぐと、中身が片方に寄って体ごと持っていかれそうになる。
「うおっ」
「足を開いて」
父親が短く言う。
「足、ですか」
「倒れる」
「は、はい!」
足を開いて踏ん張ると、少しだけ安定した。
餌桶まで運び、袋の口を開ける。中身を入れようとした瞬間、家畜たちが一斉に寄ってきた。
思っていたより圧が強い。
「お、おい、待て。順番に、順番に食えっての」
言って通じるわけもなく、鼻先でぐいぐい押される。餌を持っているせいか、完全に囲まれた。気づけば前にも横にも大きな体があって、身動きが取りづらい。
「ミリア、これ、どうすればいいんだ?」
「こう、ガシッと、足をドーンッと、踏ん張るんですよ!」
「すげぇ抽象的なアドバイス!」
「……何してるの?」
後ろからアレンの声がした。
振り返ると、アレンが無言で餌桶の位置を指さしている。
「そっちに置くと、囲まれるよ」
「もう囲まれてるんだが」
「……うん。そうだね。だからって明日からも囲まれる必要はないでしょう? こっちの方に置くといいよ」
「なるほどな」
アレンはそれだけ言うと、自分で別の桶を持って、家畜たちの間をするりと抜けていった。無駄な動きがない。家畜の動く方向も分かっているのか、押される前に半歩ずれるようにしてかわしている。
餌が終わると、次は水桶だった。
井戸から水を汲んで、小屋の方へ運ぶ。
ただそれだけ。
そう思っていた。
水は重い。
しかも桶は揺れる。
慎重に歩けば時間がかかるし、急げばこぼれる。半分くらいまで運んだところで、足元の窪みに引っかかって少しこぼした。
「あ」
「大丈夫です! もう一回行きましょう!」
「優しいけど、現実が厳しいな」
水桶を戻し、もう一度汲む。
今度は慎重に運ぶ。
その途中で、一頭だけ餌を食べずに小屋の奥を見ていることに気づいた。
暗がりの中には、藁と柱くらいしか見えない。
けれど、その家畜は、そこに何かがいるみたいにじっと見ていた。
「……なあ、あれ」
俺が言いかけると、ミリアもそちらを見る。
家畜はふんと鼻を鳴らし、すぐに餌桶へ顔を戻した。
「少し落ち着いてないのかもしれませんね」
「例の家畜がいなくなったってやつか」
そう返しながらも、少しだけ小屋の奥が気になった。
その横を、ミリアが大量の水を入れた桶を持って普通に歩いていく。俺はその半分くらいの量でひいひい言っているのに。
「ミリア、力あるな」
「んー。そうかもしれませんね。これは普段からやっているので」
水桶が終わると、小屋の掃除に移った。
古い藁をかき出し、新しい藁を入れる。乾いた藁の匂いと、獣の匂いと、湿った床の匂いが混ざって、鼻の奥に残った。
父親は黙って奥の汚れた藁をかき出し、ミリアが新しい藁を広げる。アレンは道具を渡したり、邪魔にならない位置へ桶をずらしたりしていた。
俺はというと、言われた場所に藁を運び、言われた場所へ置く。
それだけなのに、地味に忙しい。
「そこ、もう少し薄く」
「薄く?」
「厚いと湿るんだ」
「なるほど」
アレンの説明は短い。
けれど、言われて見ると確かに藁が固まっているところと、ふわっと広がっているところでは見た目が違った。
掃除が終わると、今度は柵の見回りだった。
家畜小屋の周りを回りながら、緩んだところを直していく。木の杭を押さえたり、紐を結び直したり、傷んだ板を運んだりする。
父親は柵を揺らして確かめ、弱そうなところだけを直していく。全部を触るわけではなくて、必要なところだけ見ている。
そういう判断が、当然ではあるが俺には全く分からなかった。
柵の次は畑だった。
土のついた根菜を籠に入れて運ぶ。見た目より重い。腰を曲げて、抜いて、籠へ入れて、また運ぶ。何度か繰り返すだけで腰が痛くなった。
その次には薪を運んだ。
これは腕の筋肉が完全に終わった。
最後に納屋の整理をした。
何をどこへ置くのかが分からない。
母親が家の方から声を飛ばす。
「それは奥の棚! そっちは手前! あ、それ違う違う! 古い方を先に使うから、右じゃなくて左!」
「右? 左?」
「コウイチ様、こっちです!」
「もう俺、自分が何をしてるのか分からなくなってきた」
「大丈夫です! ちゃんと仕事は進んでます!」
本当だろうか。
そんな忙しい時間を過ごしていると、気がついた時には太陽はだいぶ傾いていた。
午後から始めたから時間としては短いはずなのに、手のひらは少しひりひりしているし、腕も脚も重い。剣の訓練とは違う疲れ方だった。全身をじわじわ使わされる感じだ。
最後に家へ薪を運び終えたところで、俺は家の横にある丸太へ腰を下ろした。
「……農場って、すげぇな体力勝負なんだな」
心の底から出た言葉だった。
ミリアが隣で笑う。
「確かにそうですね」
「昼からずっと何かしてるのに、全然終わる気配がないな」
「そうですね。実は今日もまだ仕事は残ってますよ」
「残ってるのかよ」
「でも今日はかなり楽に進みましたよ。コウイチ様のおかげです」
そう言われると、少しだけ報われた気がした。
父親は道具をまとめ、アレンは少し離れたところで片付けをしている。俺よりずっと小柄なのに、よっぽど体力がある。ミリアも、午後からずっと動きっぱなしなのにまだ普通に立って笑みを浮かべている。
この家の人たちは、いや、農場の人たちはこれを毎日やっているのか。
それだけで、今まで食べていたなんとなく食べていた食材に対して感謝の気持ちが芽生えてくる。
「コウイチくーん! ミリアー! アレンー! お父さんもー!」
家の方から母親の声がした。
「夕飯よー!」
その言葉だけで、少し元気が戻った気がする。
「飯だ……!」
「はい。行きましょうか」
立ち上がろうとした瞬間、太腿が少し震えた。
「……やばいな。思ったより体を酷使したらしい」
「大丈夫ですか?」
「ああ。飯を食えばたぶん回復する」
「それは本当にそうですよ。母さんのご飯を食べたらフィーアちゃんの回復魔法よりも回復します!」
手を洗って家に入ると、すでに食卓には料理が並び始めていた。
湯気の立つスープ。焼き目のついた肉。豆の煮込み。丸パン。昼間に運んだ野菜らしきものも、切られて皿に盛られている。香草の匂いと肉の匂いが混ざって、胃が一気に反応した。
「うわ、うまそう」
「今日はみんなよく働いてたからね! 多めに盛るわよ!」
母親はそう言いながら、俺の皿に肉を一切れ多く乗せてくれる。
「ありがとうございます」
「いいのよぉ。若いんだから食べなさい食べなさい」
「母さん、コウイチ様は今日ずっと手伝ってくれたんだよ。ほんと助かったんだから」
ミリアが俺の横でそんなことを言った。
「見てたわよ。このままウチで住み込みで働いてくれてもいいのにねぇ、なんてね。アハハハ!」
住み込みという言葉が、少しだけ耳に残った。
母親が笑い、ミリアも「本当に働きますか?」なんてこっちをみて言いながら笑う。
「あぁ、それもいいかもしれないなぁ。冒険者として生活できなくなったら頼むよ」
「その時は歓迎しますよ!」
「助かる」
俺もつられて笑った。
けれど、その言葉だけは、なぜかすぐには消えなかった。
父親は静かに席につき、アレンは皿を並べ終えてから自分の椅子に座った。
グラウスたちは、まだ戻っていない。
少し気にはなったが、母親は先に食べようと言った。もし戻ってきたら温め直して食べてもらえば良いとのことだった。
「いただきます」
ミリアの父の声で食事が始まった。
俺は今朝獲れたばかりの肉を一口食べた瞬間、思わず声が漏れた。
「うっま!」
疲れた体に、塩気と肉汁がしみ込む。香草の香りも強すぎず、噛むたびに肉の味が広がった。スープは野菜の甘みが出ていて、パンを浸すとなおうまい。豆の煮込みも素朴だが、腹にしっかり溜まる味だった。
「働いたあとの飯って、こんなにうまいんだな」
「あら、いいこと言うじゃない!」
母親が満足そうに笑う。
「働いて、食べて、寝る。これが一番よ」
「うん……確かに」
今日の午後の働きだけでもそれを強く感じた。
父親が静かにこちらを見る。
「……いや、本当によく働いていた。ありがとう」
「あ、いえ、こちらこそ。ありがとうございます」
ミリアが嬉しそうにこちらを見る。
「父さんが褒めるのは珍しいんですよ」
「そうなのか?」
「はい」
「余計なことを言うな」
父親が低く言う。それでもどこか照れくさそうにしているのがわかるから、威圧感はない。
「えへへ。ごめんなさい」
ミリアは楽しそうに笑っていた。
アレンは黙ってパンを食べていたが、ふと俺の方を見る。
「……明日は、もっと効率よく動いてよ」
「やっぱり明日もやる前提なのか」
「……違うの?」
「いや、手伝うけどさ」
アレンの口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。
笑った、のかもしれない。
食卓は賑やかだった。
アレンが母親に今日の俺の失敗を次々に話し、ミリアがそれを楽しそうに補足し、俺はそのたびに言い訳をした。父親は時々短く口を挟む。アレンは黙って食べている時も、たまに一言だけ余計なツッコミを入れてくる。
それくらいには、この午後の作業を通してアレンとも打ち解けられた気がした。
気がつけば、腹はかなり満たされていた。
体は疲れているのに、気持ちのいい疲れ方だった。
昨日までのことを考えると、変な感じだった。
こっちに来てからずっと、何かに追われているような日々だった。
見たことのないものばかりで、知らないことばかりで、驚いて、焦って、死にかけて。
次から次へと何かが起きるから、自分のことをじっくり考える暇なんてなかった。
でもこの瞬間は違った。
あたたかい食事があって、家族の声があって、誰かが今日の失敗を笑っていて、次の日の仕事の話をしている。
当たり前みたいな日常が、ここにはあった。
母親が笑って、ミリアがそれに返して、父親が短くたしなめて、アレンが小さく口を挟む。
その輪の中に座っているのに、ふいに、自分だけが少し浮いているような気がした。
俺は今この瞬間に少しだけ落ち着きすぎて、考えなくていいと思っていたことを考えてしまっているようだった。




