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第18話 フィーア

 目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。


 窓の外が少しだけ白んでいて、夜が明ける直前なのだと分かる。


 体を包む布団は柔らかい。昨日の物置部屋とは比べものにならないくらいちゃんとした寝床だったはずなのに、体は思ったより重かった。


 寝返りを打つと、脇腹のあたりに鈍い違和感が残っている。


 フィーアの回復魔法で怪我は治っている。痛みもほとんどない。けれど、吹っ飛ばされた記憶までは消えてくれないらしい。


 あの一撃で、俺は何もできずに吹っ飛ばされた。


 木をへし折りながら転がって、剣を抜くどころか、立ち上がることすらできなかった。そのあと目の前で始まったグラウスたちの戦闘は、同じ世界にいるはずなのに、まるで別のものみたいだった。


 グラウスが前に出て、エイルが魔法で敵を撃ち、フィーアが必要なところにだけ回復を入れる。


 俺はそれを見ているしかなかった。


 昨日、俺はジャイアントラビット相手に少しだけ戦えるようになった。グラウスにも悪くないと言われた。それは嬉しかったし、実際に少しは前に進めたと思う。


 でも、それだけじゃ足りない。


 この世界で安心して生活しようと思うなら、俺はもっと強くならないといけない。


「……寝てる場合じゃないか」


 小さく呟いて、俺はゆっくり体を起こした。


 隣の寝床ではグラウスが寝ている。昨日あれだけ動いて、あれだけ戦って、よくこんなに無防備に眠れるものだと思う。しかし、それがグラウスが冒険者として積み上げてきた結果なのだとしたら、おかしなことではないのかと勝手に納得をする。


 俺はなるべく音を立てないように服を整え、腰に剣をつけた。鞘が軽く揺れて、かすかに音が鳴る。


 廊下へ出ると、家の中は静かだった。


 昨夜の食卓の賑やかさが嘘みたいに、今は木の軋む音すら聞こえそうだった。台所の方からもまだ人の気配はない。俺はそっと玄関を開けて外へ出た。


 朝の空気はひんやりとしていた。


 農場の敷地には薄く霧のようなものがかかっていて、柵の向こうの草地が白っぽく見える。遠くの家畜小屋から、かすかな物音がした。まだ太陽は顔を出していないが、東の空だけが少し明るい。


 俺は家から少し離れた場所まで歩いて、剣の柄に手を置いた。


 まずは抜く練習。


 グラウスが言っていたことを思い出す。


『腰から剣を抜くのもコツがいる。暇なときに練習しておけ』だったか。


 言われたとおり、俺は剣を抜いて、戻す。そしてもう一度抜いて、戻す。


 それだけの動作なのに、意外と引っかかる。急ごうとすると鞘の口に刃が当たるし、ゆっくりやれば戦闘中には間に合わない気がする。


「難しいな、これ」


 何度目かの抜刀をした時だった。


 少し離れた場所で、淡い光が揺れた。


「……ん?」


 顔を向けると、家の裏手にある開けた場所に、小柄な人影が立っていた。


 フィーアだ。


 昨日と同じ白を基調にした服ではあるが、今は少し動きやすそうに袖をまとめている。両手を前に出し、目の前に小さな光の膜を作っていた。


 結界、だろうか。


 透明に近い半球が一瞬だけ形を作る。だが、すぐに表面が揺れて、ぱりん、と音もなく砕けるように消えた。


「……もう一回」


 フィーアが小さく呟く。


 また両手を前に出す。


 光が集まり、薄い膜になる。今度はさっきより少し長く保っていた。だが、数秒もしないうちに端から歪み、また消える。


 足元の草には、何度も魔法を試した跡なのか、朝露が不自然に乾いた場所があった。


 たぶん、俺が起きるより前からここにいたんだろう。


 フィーアは唇を結んだ。


 いつものように偉そうな顔ではない。怒っているわけでも、落ち込んでいるわけでもない。ただ、うまくいかないものを前にして、じっと耐えているような顔だった。


「……何見てんのよ」


 気づかれていたらしい。


「悪い。邪魔するつもりはなかった」


「なら黙ってどっかいきなさいよ」


「いや、通り過ぎるにはちょっと気になってな」


 フィーアは面倒くさそうに息を吐いた。


「朝から剣なんか持って、あんたも大概ね」


「昨日あれだけやられたら、さすがに何かしないとまずいと思うだろ」


「それは、そうね」


 そこは否定しないらしい。


 フィーアはもう一度、手のひらの前に小さな光を作った。今度は結界ではなく、指先ほどの光球だった。ゆっくり前に飛ばそうとしているように見えたが、光球は少し震えただけで、すぐに霧みたいに散ってしまう。


「……攻撃魔法か?」


「基礎魔法よ。攻撃魔法って言うのも恥ずかしいくらいのモノね」


「でも、魔法だろ?」


「魔法ではあるわよ。私だって魔法使いなんだから」


 その言い方に、少しだけ引っかかるものがあった。


「ヒーラーじゃなくて?」


 フィーアがこちらを見る。


「ヒーラーよ」


 はっきりと言った。


「私はヒーラー。自分の役割くらい分かってるわ。グラウスが前で無茶できるのも、エイルが魔法に集中できるのも、私が後ろでヒーラーとしての職務を全うしているからよ」


「それは、昨日見てて分かった」


「でしょうね」


 少しだけ得意げに顎を上げる。


 その表情はいつものフィーアだった。


 でも、すぐに視線が手元へ戻る。


「でもね、それだけっていうのは嫌なのよ」


「それだけ?」


「回復しかできません。守られてないと何もできません。攻撃は全部パーティーに任せます。そういうのは楽ではあるわ。自分が得意なことだけしていればいいんだから」


 フィーアは小さく息を吸った。


「でも、それじゃいつか困る。私自身のためにもならないし、パーティーにも迷惑をかける場面があるかもしれないでしょ」


「迷惑って、昨日はむしろ助けられてるように見えたけどな?」


「そういう話じゃないの」


 ぴしゃりと言われる。


「昨日の結界だって、もっと持たせるつもりだった。でも全然駄目。思っているよりもすぐに壊れたの。最初からエイルが次を準備する前提だったとはいえ、私の結界がもっと強ければ、余裕ができたはずなのよ」


「でも、あの場面では必要なだけ持ったんだろ?」


「必要なだけはね。それもギリギリだったわ。あの場面で褒められるのは私の結界が壊れるタイミングを完璧に把握したエイルよ」


 フィーアは不満そうに言った。


「私が欲しいのは“必要最低限できた”じゃないの」


 その言葉で、フィーアがヒーラーであることを嫌がっているわけではない、ということだけは分かった。


 その上で、悔しいのだ。


「エイルみたいに戦えたら、かっこいいのにって思うのよ」


 フィーアは少し照れくさそうに言った。


「でも、私はエイルほど攻撃魔法に向いてない。あの子は本当にそっちの才能がある。逆に、エイルは私ほど回復魔法をうまく使えない。それは分かってるの。だから、私の得意なものが劣ってるとは思ってないわよ」


「じゃあ、なんでそんなに悔しそうなんだ?」


「分かってても、悔しいものは悔しいのよ」


 今度は即答だった。まっすぐ俺の目を見てそらさない。


「基礎魔法くらい、もう少しまともに扱えるようになりたい。攻撃魔法だって、せめて自分の身を守るくらいには使えるようになりたい。ヒーラーだからできません、で終わらせたくないわ」


 フィーアは再び手を前に出した。


 小さな光球が生まれる。さっきより少しだけ形が安定しているように見えた。


 けれど、それを前に飛ばそうとした瞬間、光はまた崩れた。


「……ほら、私の実力はこの程度なのよ」


 声は冷静だった。


 でも、悔しさは隠しきれていなかった。


「努力はしてるのに、うまくいかないって感じなんだな」


「そうよ。悪い?」


「悪くないだろ」


 俺がそう言うと、フィーアは少しだけ目を細めた。


「俺なんて昨日、普通のジャイアントラビットに散々顔面へ突っ込まれたからな。努力してるのにうまくいかないくらいなら、まだだいぶまともだ」


「比べる対象が低すぎるのよ」


「しかたねぇだろ……」


 そう返すと、フィーアがほんの少しだけ笑った。


 そして、また光球を作る。


 今度の光は、さっきよりほんの少しだけ長く形を保っていた。


 俺も数歩離れて、剣を抜いた。


 息を吸う。


 グラウスに教わったことを思い出す。力みすぎるな。腕だけで振るな。重さを使う。足と腰も使う。


 剣を振り上げ、ゆっくり振り下ろす。


 風を切る音はまだ軽い。グラウスのような鋭さはない。それでも、一回目より二回目。二回目より三回目。少しずつ、剣の重さがどこへ流れていくのかを探る。


 隣では、フィーアが何度も光を作っては消していた。


 成功しているようには見えない。


 でも、やめる気配もない。それが見習うべき姿に思えた。


 何度か剣を振っているうちに、東の空から日が差してきた。柵の影が地面に伸び、草の先についていた露がきらきら光る。


 その光の中で、フィーアの作った小さな光球が一瞬だけまっすぐ前へ飛んでから、すぐに消えた。


 けれど、さっきまでとは違って、確かに前へ進んでいた


「今の、ちょっと良かったんじゃないか?」


「……うるさいわね。こっちばっかり見てないで自分の練習しなさいよ」


「へいへい」


 俺は剣を構え直した。


 その時、家の方から扉の開く音がした。


「お二人ともー!」


 聞き慣れた明るい声が、朝の空気を割って届く。


 振り向くと、ミリアが玄関先からこちらへ大きく手を振っていた。


「朝食できましたよー!」


 その声を聞いた途端、腹が鳴ってフィーアがこちらを見る。


「……食いしん坊」


「今のは仕方がないだろ」


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