第19話 境界線
ホームルームは、短く、乾いていた。
担任は黒板に「SNS」「拡散」「誹謗中傷」とだけ書き、淡々と言った。
「この件について、学校として事実確認と対応を進めています。個人を話題にしない。SNSで触れない。煽らない。面白がらない。――以上」
名前は出ない。
出ないのに、全員が“何の話か”を知っている。
その不自然さが、教室を少し静かにした。
圭介は机の上で指を組んだ。
指先が冷たい。
冷たさが当たり前になっていく感覚に、目を逸らしたくなる。
昼休みの終わり、担任が圭介を呼んだ。
「宮坂。放課後、学年主任と生活指導、それから篠原さんと保護者の面談がある。君は――証拠の原本確認だけ、数分でいい。提出したらすぐ帰っていい」
圭介は頷いた。
放課後。会議室前の廊下。
蛍光灯が白くて、床がよく磨かれている。
その清潔さが、今日の話の汚さと合わない。
会議室のドアの横に、篠原が立っていた。
隣には母親。
篠原は目を合わせるのが怖いみたいに、視線を床に落としている。
圭介が通り過ぎようとしたとき、篠原の母親が小さく頭を下げた。
「宮坂くん……ありがとうね。録ってくれて」
圭介は「いえ」とだけ言った。
礼を言われると、役割が重くなる。
篠原が、そこで初めて顔を上げた。
「……宮坂くん」
声が小さい。
でも、圭介を呼ぶには足りる声だった。
圭介は立ち止まった。
篠原は、言葉を探しているように唇を噛んで、それから一気に言った。
「私、許したくないんです」
圭介の指先が、ほんの少しだけ動く。
冷たい指先が、自分の気持ちの輪郭を確かめるみたいに。
篠原は続けた。
「黒川さんだけじゃなくて……見てた人も。笑ってた人も。止めなかった人も。全部、許したくない。……でも、そう思う自分が、正しいのか分からない」
“正しいのか分からない”
それが一番苦しい質問だ。
答え方を間違えると、篠原はまた「良い被害者」を演じさせられる。
圭介は、一拍置いて言った。
「正しいと思う」
篠原が目を見開く。
圭介は、淡々と続けた。
声は冷たくない。
ただ、揺れない。
「許すかどうかは、被害者が決めること。許さないのも、普通」
篠原の肩が、少しだけ下がる。
「でも……私、心が狭いのかなって」
圭介は首を振った。
「狭くない。許すって、力がいる。許さないって、境界線を守るための必要だと思う」
篠原は、視線を落として、ぽつりと言った。
「許したら、また同じことが起きそうで怖い」
圭介は頷いた。
「それが一番まともな感覚だと思う」
篠原の目に、少しだけ水が溜まった。
泣く直前の目。
圭介は言った。
「謝られても、許さなくていい。『許す役』をやらなくていい。……それを大人に言っていい」
篠原は小さく頷いた。
頷き方が、ほんの少しだけ強くなった。
会議室の中から、学年主任の声がした。
「篠原さん、どうぞ」
篠原は、息を吸って、母親と一緒にドアの向こうへ入っていった。
圭介はその背中を見送り、次に自分の役割を思い出した。
証拠。原本。手順。
会議室の中は、思ったより狭かった。
学年主任、生活指導、担任。
そして篠原と母親。
圭介はドアのそばに立ったまま、スマホを差し出した。
学年主任が言う。
「宮坂くん。今日は“証拠の原本確認”だけお願いね。こちらで必要部分を記録して返す。君はこの後、退室していい」
圭介は「はい」と答え、保存フォルダを開いた。
動画の一覧。スクショの一覧。時刻が並んでいる。
生活指導が、淡々と確認する。
「これは校内。これは教室。これは拡散後のDM……弟さんの名前を出しているものがある。これが“原本”で間違いないね」
圭介は頷いた。
「改変してません。撮ったままです。バックアップもあります」
学年主任がメモを取り、担任が言う。
「助かった。宮坂、ありがとう。ここからは大丈夫だ」
圭介は一礼して、ドアノブに手をかけた。
その瞬間、篠原が小さく言った。
「……宮坂くん」
圭介は振り返った。
篠原は目を合わせずに言った。
「さっきの……ありがとう」
圭介は「うん」とだけ返して、会議室を出た。
ドアが閉まる。
ここから先は聞かない。
聞くべきじゃない。
廊下に出ると、空気が少しだけ軽い。
圭介は壁にもたれて、スマホをポケットにしまった。
役割は果たした。
あとは学校がやる。
会議室の中の声は聞こえない。
聞こえない方がいい。
ただ、圭介は知っていた。
この後、篠原は大人に言う。
「許したくない」
「謝罪の場を作らないでほしい」
「私のことを話題にしないでほしい」
「嫌だと言ったら終わりにしてほしい」
それは“独白”じゃない。
生活を守るための、現実の条件だ。
教室が静かになるのは、正義が勝ったからじゃない。
境界線が敷かれるからだ。
夜。リビング。
悠斗は机に肘をついて、宿題の計算をしていた。
鉛筆が紙を叩く音は、昼間の会議室よりずっと現実的で、圭介を少しだけ安心させた。
早苗はキッチンで、鍋の火を止めた。
味噌汁の湯気が、ふわっと上がる。
家の匂いが戻る。
「悠斗」
早苗が呼ぶ。声は柔らかいのに、決まっている。
「明日からしばらく、帰りは――駅で待ち合わせ。必ず」
悠斗が顔を上げた。
「え、また? もう終わったんじゃないの?」
早苗は首を振った。
「終わらせるために、守りを固めるの。『終わった』って言えるのは、最後の手順が終わってから」
悠斗は「ふーん」と言いながらも、鉛筆を置いた。
不満はある。でも、反抗はしない。
今日までに、弟の中でも“危ないことがある”が現実になっている。
圭介は黙って、その会話を聞いていた。
指先が冷たい。
冷たさが、箸を持つ手に馴染んでしまうのが嫌だった。
早苗がテーブルに座り、紙を一枚置いた。
学校の書式。
「見守り」「連絡体制」「対応フロー」――そんな言葉が並ぶ。
「先生たちと決めた」
早苗が言う。
「悠斗の下校は、担任と生活指導の先生が把握する。駅に出る時間は連絡が来る。もし変な人がいたら、先生が先に通報する。私たちも、その場で無理に対応しない。録画と通報だけ」
“無理に対応しない”
その一言が、圭介の中で少しだけ重く響いた。
圭介は言った。
「……俺が止める」
早苗はすぐに首を振る。
「止めない。止めるのは大人。圭介は、悠斗の前に立たない。――これは約束」
圭介は一瞬、言い返しそうになって、飲み込んだ。
「……わかった」
圭介がそう言うと、悠斗が不安そうに聞いた。
「え、なに。明日、なんかあるの?」
早苗は悠斗の方を向いて、できるだけ普通の声で言った。
「あるかもしれない。でも、絶対に危ない目には合わせないから安心して」
圭介は、その言葉の裏にあるものを理解した。
相手は、また来る。
早苗が続ける。
「相手がまた線を越えたら、学校と警察が動けるようにしてある。――だから、こちらは釣られない。煽られない。やるのは記録と通報だけ」
悠斗が、口を尖らせる。
「なんか……めんどくさ」
早苗は笑った。
「めんどくさい方がいいのよ。楽な勝ち方は、また誰かが傷つく」
圭介はその言葉を聞いて、今日の会議室を思い出した。
篠原の“許さない”は、狭さじゃない。
守るための線だ。
早苗がふいに圭介を見る。
圭介は頷いた。
来るなら来い――とは思わない。
ただ、来たら終わる。
手順が、そうなっている。




