第18話 悠斗
朝の台所は、いつも通りの匂いがした。
味噌汁。炊き立てのご飯。
早苗がフライパンを振る音。
悠斗が歯を磨きながら文句を言う声。
「なんで今日、母ちゃんが駅まで来るんだよ。恥ずいって」
早苗は笑って、しかし笑いの奥で一切譲らない目をしていた。
「恥ずかしくても、やる。今だけ。……圭介も、今日は一緒」
圭介は黙って頷いた。
制服の袖口を引っ張る。
布の中の腕は、昨日より冷たい気がする。
“ひんやり”じゃない。
冷たい、の一歩手前。
悠斗はムッとした顔をしたが、結局「わかったよ」と言って味噌汁をすすった。
不満を言いながらも、守られていることを理解すると黙る。
圭介は弟の横顔を見た。
生きている熱がある。
顔色もいい。
それだけで、圭介の中の想いが強くなる。
登校の時間。駅前。
人の流れがあるのに、圭介の視界は一点に寄っていく。
広告看板の影。コンビニの前。バス停の列。
そこに“いるかもしれない”を、頭が勝手に並べる。
早苗は悠斗のカバンの紐を直しながら言った。
「悠斗。学校着いたら、先生のところ寄ってね。昨日話した通り」
「はいはい」
悠斗は面倒くさそうに言う。
その“面倒”が、平和の証拠でもある。
圭介は少し離れて立った。
家族に見えすぎると、狙いが定まる。
“守り”は目立たない方がいい。
その時、スマホが一度だけ震えた。
《駅》
短いDM。
地図も、写真もない。
それなのに、背中が冷える。
圭介は画面を伏せて、周囲を見た。
――いた。
バス停の少し先。
スマホを縦に持って、画面を見ながらこちらに視線を投げてくる男。
二十代。派手でも地味でもない。
“普通”の顔。
普通の顔で、普通に人を燃やすやつ。
男の隣に、もう一人。
笑いながら、何かを囁いている。
圭介は息を吐いた。
心臓が鳴らない代わりに、頭の中で手順が鳴った。
(距離を詰めない)
(録画)
(大人を呼ぶ)
(通報)
圭介はポケットからスマホを出して、画面を見ずに録画を開始した。
カメラは下向き。
顔を正面から撮らない。
刺激しない。
そして、早苗の方へ歩いた。
「母さん。いる」
早苗は一瞬だけ顔色を変えた。
でも、崩れない。
「悠斗、私の横に」
悠斗が「え?」と言った瞬間――
男が近づいてきた。
「よう」
声は軽い。
軽いから危ない。
軽い正義は、人を殺す。
早苗が前に出た。
「お話は警察を通してください。未成年に声をかけるのはやめてください」
男は笑った。
「うわ、母親出てきた。なんかドラマみたいじゃん。ねえねえ、弟くん? 兄ちゃん有名人だよ」
悠斗が固まる。
“有名人”という言葉は甘い。
甘いから、子どもを揺らす。
圭介は、悠斗の前に半歩出た。
殴らない。押さない。
ただ、距離を遮る。
そして、低い声で言った。
「撮ってます」
男の笑いが一瞬止まる。
圭介は続けた。
「あなたの顔、声、時間、場所。全部残ってる。学校にも警察にも渡す。……次の一言で、一線を越える」
男の隣の連れが「もうやめとけって」と小さく言った。
“やめとけ”が出るのは、やってる自覚があるからだ。
男は、しかし引かなかった。
引かない理由は単純だ。
“引いたら負け”だと思っている。
「なにそれ、脅し? こわ。お前さ、正義ぶって――」
圭介は遮った。
「正義じゃない。記録」
その言葉は冷たかった。
冷たさが、その場の熱を奪った。
早苗が続ける。
「今から110番します。あなたが私たちに近づいた事実も、録画もあります。ここで終わりにしてください」
男は舌打ちした。
「はぁ……つまんね。じゃあ、またな」
“またな”が、脅しだった。
男は去りながら、スマホをちらりと掲げた。
撮っていたのは、こっちの顔。
“燃料”を集めている。
圭介は追わない。
追ったら相手の土俵だ。
早苗はすぐに電話をかけた。
通報の言葉は短く、正確だった。
場所。人物。状況。録画の有無。未成年への接触。
悠斗は震えていた。
震えは恐怖だけじゃない。
“理解”の震えだ。
自分が狙われる、という現実を、初めて身体で知った。
圭介は悠斗の肩に手を置いた。
一瞬だけ。
冷たい手が伝わらないように、制服越しに。
「大丈夫。守る」
悠斗が小さく言う。
「兄貴……あいつ、何……?」
圭介は答えない。
答えたら、弟の世界が壊れる。
壊すのはまだ、順番じゃない。
その日の夕方。家の近く。
早苗は悠斗を学校から直接連れて帰ってきた。
「寄り道なし」の手順は守られた。
でも、悪意は手順の外から来る。
インターホンが鳴った。
ピンポーン、ではなく。
長押し。
圭介は玄関に出る前に、スマホで録画を開始した。
早苗は悠斗を奥へ下がらせる。
「悠斗、部屋。鍵」
「え、何……」
「いいから」
早苗の声に、悠斗は従った。
圭介がドアスコープを覗く。
――さっきの男ではない。
別の男。帽子。マスク。
でも、スマホを構える手つきが同じだ。
「宅配ですか」
圭介はドア越しに言った。
開けない。
それだけで、勝負がつくことがある。
男が笑った声を出す。
「宮坂くん? 開けてよ。ちょっと話すだけじゃん」
圭介は、呼吸を整えた。
心臓は鳴らない。
でも、声は鳴らせる。
「話は警察へ。今、録画してます。敷地内への侵入も記録します」
一瞬、沈黙。
男が吐き捨てるように言った。
「つまんねー家。……出てこいよ」
早苗が背後から小声で言った。
「圭介、110番。私も管理会社に連絡する」
圭介は頷いて、通報を始めた。
住所。状況。玄関前での脅迫。録画の有無。
男は、インターホンに向かって言った。
「弟、いるんだろ? 悠斗くーん。兄ちゃん、冷たいねぇ」
悠斗の名前を呼ばれた瞬間、圭介の中で何かが沈んだ。
怒りではない。
“抑止力”が氷みたいに固まる感覚。
圭介はドアに手をついた。
金属の冷たさが、指に馴染む。
馴染むのが、嫌だった。
「やめろ」
声は低い。
低いから、怖い。
男が笑った。
「お、怒った? いいね、その顔。撮らせて」
圭介は言った。
「撮ってるのは、こっち」
男が一歩下がる。
それだけで、こちらが勝っているとわかる。
“記録”は、暴力より強いときがある。
少なくとも、今は。
遠くからサイレンが聞こえた。
近づいてくる音。
男は舌打ちして、走って去った。
圭介はドアを開けないまま、録画を止めた。
止める指先が、さらに冷えていた。
早苗がリビングに戻り、悠斗を抱きしめた。
悠斗は泣かなかった。
泣く代わりに、固まっていた。
早苗は悠斗の髪を撫でながら、圭介を見た。
「……もう、家族だけでは無理だね」
その言葉は敗北じゃない。
次の段階へ進む合図だった。
圭介は頷いた。
「うん。大人を増やす」
早苗は、短く笑った。
明るい笑いじゃない。
腹を括った笑い。
「警察。学校。必要なら弁護士。……全部、巻き込む」
圭介は自分の腕を見た。
袖の下の皮膚は、白い。
体温が、また下がっている気がした。
“ひんやり”が、“冷たい”に近づいていく。
でも、圭介は立っている。
倒れない。
守るために、今日も立っている。
窓の外の街灯が、夜を白く照らしていた。
その白さが、駅前の蛍光灯と似ていた。
悪意は、生活の中に入ってくる。
だからこそ、生活の手順で追い返す。
圭介は、机の上のスマホを手に取った。
今日の録画を、クラウドにバックアップする。
保存が終わった瞬間、通知が来た。
例のアカウントから。
《惜しかったな》
《次は、もっと近くで》
圭介は返信しない。
ただ、スクショを撮った。
早苗が言う。
「圭介。明日、相談先を増やす。あなたは、あなたの役割をやって」
圭介は頷いた。




