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泥濘湾猫夏大橋少年記  作者: 佐野和哉


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1.夏すみれ

第28回書き出し祭り参加作品です。

全部とっくにぶっ壊れた世界に皆様をご案内します。

おたのしみに。

2026.10.07ちょっと手直し。

 泥濘と化した青希(アオキ)湾を南に伸びる夏すみれ半島。その沖合に浮かぶ猫島と夏島を結ぶ全長約15キロメートルの猫夏大橋が崩れ去ったのは今から百年以上前のこと。

 北政府(ガバメント)と南方軍(フォース)によって大陸を二分した、もはや誰が何のために始めたのかすら誰も何も分からなくなった戦争が始まったばかりの頃だったらしい。戦争は沈静化して久しいが、今に至るまで橋をかけ直そうという人は現れない。よしんばそうしたところで莫大な予算も資材も何処にもなく、外国人の技能実習生や網引島人間(アビキ)と呼ばれる造成人間など安価な使い捨ての労働力もない。ましてや海は北政府が作り出した濃脂雲塊(のうしうんかい)による度重なる銀酸驟雨(ヘビーレイン)の最悪の副産物、重層油泥面層(ブラウンバブル)に覆われた死の海となってしまった。深層には従前からの天然海水と呼べるものが循環しているものの、そこは北政府と南方軍それぞれが開発した生物兵器の改造実験体が放置され異常進化した異体化新生物(ミュータント)の巣窟となっている。雨の主成分には鉛やカドミウムなど重金属の他にキミカルな不可逆物質も含まれており、海に入れば一瞬で全身汚染のち数日間苦しみぬいた末に死ぬという有様。この橋が崩れてから、みんなこの島で生まれ、この島を出ることなく暮らし、この島で死んでいった。島を出る手段が無いのだ。この崩れ果てた橋を渡っていく以外には。


 あの夜、目の前でオヤジが死んだ。まるで波打ち際で干上がった横須賀電氣海月みたく苦しみに青ざめながら息絶えたオヤジが僕に伝えたかったことは一体なんだったのか。それを僕は確かに聞き届けたはずなのに、記憶には一切残らなかった。

 聞こえたけれど聞こえていない。聞いていたけど聞いていない。それは戦前に編み出された二重思考というやつの仕業だ。僕らはこれが文字通り遺伝子に刻み込まれている。基本的に思考や感情において自我というものがなく、体制にとって不都合な言語や音声などの空気振動はすべからく鼓膜でキャッチされた瞬間にふるい落とされ、脳が認識するよりも先に排除される。


 唯一のアクセスであった橋が落ち、周囲の海にはマトモな生き物がただの一匹も居なくなり、僕らは思考と油泥と二重の意味で孤島に幽閉されている。

 誰も島の外を知らぬまま百年以上が経つ。今や残存衛星からの周知映像放送も途切れて久しく、各家庭に据置された受像装置(テレヴィジョン)は電気信号の砂嵐だけが吹き荒れる箱になっている。新しい知らせも入らず、島の外を知るものも居なくなり、文字通り外に出ていく道もなく。だけどもう、それで他の誰かが困るということすら……。


 ある曇った寂しい朝。夏島に向かい合う捻転岬から望む青希湾は白く濁っていた。どす黒く光る濃脂雲塊が輪郭をぬらぬら光らせながらごんごんと押し寄せてきた。

 脂で静かに狂った海の重たい潮騒だけが病んだ海から轟いて来る。音もなく響く歌だけが脳裏に懐かしく。目の前の風に色は無く。空からは脂雨の予感がじわじわとしみ出して、今日も鬱屈の屋根の下で茫然と一日をやり過ごせと声なき声。


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