15 バルク侯爵家
バルク侯爵家での生活は、はたから見たらとても恵まれたものだっただろう。
「さあ、リーサ。新しいドレスを仕立てたぞ。王都で流行りの形だ、着てみなさい」
ダリオはリーサとアリサを着飾らせることに金を使うことを厭わなかった。
毎日のように、新しいドレスや宝飾品が届き、二人のクローゼットはすぐに満杯になった。
「お義父様、私の友人から手紙は届いていませんか? そろそろ届いているはずなのですが……」
「いや、来てなかったな。来たらちゃんと渡してあげよう」
カインとヒューからの手紙は一度も届かなかった。何度も何度も返事の来ない手紙を出し、その度に寂しさが募っていく。
「アリサ、そろそろ侯爵令嬢として相応しい振る舞いを身に着けないと。手紙はもう書くのをやめなさい」
爵位が高い家に来た以上、爵位の低い家、ましてや平民と付き合うべきではない。優しい口調で諭されて、それ以上言えなくなった。今は、出すことのできない手紙が箱の中に増えていく。
「アリサ、屋敷から出てはいけないよ。まだ君の礼節は拙い。恥ずかしい思いをするのは君なのだから」
侯爵にそう断言されてしまえば、アリサはもう出かけてみたいとは言えなかった。侯爵にあてがわれた家庭教師は「学んでください」と言うばかりで、アリサが今どの程度の教養を身に着けているのか、教えてはくれなかった。
「アリサ、大丈夫? 疲れているのではなくて?」
アリサよりも疲れている顔をしているリーサに気遣われてアリサは必死に笑顔を取り繕った。
このところ、ダリオはリーサを伴い頻繁に夜会へ出席していた。
最高級のドレスや宝飾品はリーサによく似合っていたが、リーサはもっと控えめな意匠を好むことをアリサは知っていた。
「お母様こそ、顔色が悪いわ。お義父様に、しばらく夜会への出席を控えていただいては?」
「それはできないわ。ダリオ様は男爵家から侯爵家へ嫁いだわたくしを慮って連れ出してくださるの」
母はそう言って、笑った。まだセレス家にいた時のような少女のような可愛らしい笑みではない。憂いを帯びた陰のある笑い方だった。
夜会に出るたび、貴族たちの間で母の評判は上がっているらしい。けれど、帰ってくる母の顔にはいつもひどい疲れが滲んでいた。
ダリオが自分の好きなように着飾らせた母を伴うたびに。
母が完璧な侯爵夫人であるため背筋を伸ばすたびに。
アリサはこれで母は幸せなのだろうかと考えずにはいられなかった。
※
アリサがバルク侯爵領で年を一つ重ねたころ、ダリオの様子が変わってきた。
この頃にはダリオが母を夜会に連れ出す回数も減り、ゆっくり過ごせるようになった。
代わりに、アリサへ与えるものが増えた。
ドレス、宝飾品、化粧品、身を飾るものは惜しみなく与えられた。知識を積むような本などは与えられることがなかった。
居心地の悪さを感じたが、その時期から母の体調が崩れるようになった。
起き上がれない日が増え、ベッドで過ごす時間が増える。医者を呼んで診てもらっても原因がわからず、母がだんだんと弱っていくのを見ているしかない。
「お母様、今日はよく晴れていますよ」
母によく見えるよう、季節の花を枕元の花瓶に飾る。うつろな目で天井を見つめるリーサは、アリサの言葉に反応することはなかった。
原因のわからない病は、アリサをも疲弊させた。
ダリオは母のことを心配する素振りも見せず、アリサを着飾らせることに執心している。
アリサはこの頃、よく夢を見る。果たされなかった、三人で遊ぶ約束。アリサは二人と、下町の色々なところへ遊びに行くのだ。
いつも幸せな気持ちで目覚め、最高級の調度品に囲まれた部屋にいるのだと気づくと、涙がこぼれた。
その日は、母の横で刺繍をしていた。
ノックもなしに部屋の扉が開いた。ダリオが部屋へ入ってきたのだ。
この頃には、ダリオは母への関心をすっかり失っているように見えた。まるでそこにいない人間のように、心配することもなく、話題に出すこともない。
「アリサ、新しいドレスを作ったよ。さあ、着てみなさい」
いつものようにこちらの気持ちを慮ることもなく、ダリオが言った。
渡されたドレスは、淡い水色の優しい色をしている。小さなダイヤモンドが至るところに縫い付けられた、一目で高価と分かる品だった。しかし、胸元の開きが広く、アリサの年頃の令嬢が人前で着るには少しはしたない気がした。
「お義父様、あとで着てみますね」
とてもではないが、着る気になれない。当たり障りなく断ろうとすると、ダリオは首を横に振った。
「いいや、今着なさい。私は今、見たいんだ」
ダリオがドレスを片手に迫ってくる。
アリサはそれに合わせて後退りした。
「そうだ、リーサにもいいものがあるんだ」
急にダリオは母の方を向いた。いつの間にか、手には黒い小瓶が握られていた。
「さあ、楽になれる薬だよ。苦労したんだ」
その言葉は一見、妻のために薬を探し回った夫の台詞だった。しかし、ダリオの顔には何の表情も見えない。母を見る目つきはあまりに無機質。
嫌な予感がした。
「お、お義父様、私、着ま――」「着なくていいわ!」
アリサの声を遮る、強い声が聞こえた。
「着なくて、いいわ。
それより、ダリオ様、そのお薬いただける? わたくし、とても苦しいの」
最近、反応すら見せてくれなかった母が起き上がっていた。その額には脂汗を滲ませ、それでも笑顔を作っていた。
「いいだろう」
ダリオが母のベッドへ近づいていく。
アリサは止めようとした。
しかし、その時。母の口が声を出さずに動くのを見た。
――に げ て。
「ねえ、ダリオ様? わたくしに飲ませてくださる? 腕を動かすのも辛いの」
ダリオが手に持つ瓶をリーサの口にあてがう。動かなければ、と思うのに足が動かない。
母の喉がこくん、と上下した。
ドォォン!!!
ダリオを中心に、赤黒い稲光が走った。ダリオは一瞬天を仰いだ後、声をあげて笑い出した。
アリサはこの稲妻を識っていた。
目を見開いて、ダリオを凝視する。
「魔王誕生の稲妻……」
母がゆっくりと倒れていくのを、ただ見つめていた。




