14 忍び寄る影
アリサの両親は、貴族としては珍しく恋愛結婚だった。
男爵家同士の結婚は反対されることもなく、周りに祝福されての結婚だったそうだ。
アリサは幸せだった。
優しくていつもアリサの話を聞いてくれる父に、礼節には厳しいが、愛情を惜しみなく注いでくれる母。
父が亡くなり、母の生家に戻った時は悲しかったが、すぐにカインが友達になってくれて悲しみを癒してくれた。
大切なブローチを取り返してくれたヒューのことも、アリサは大好きだった。
大人になっても、二人と一緒に笑い合う。そういう未来を信じていた。
「バルク侯爵家?」
母から話があったのは、カインとヒューが騎士になってすぐの頃だった。
「ええ、わたくしに婚姻の打診が来ているの」
紅茶を飲みながら、母はアリサに告げる。
「ここから馬車で三日の場所に領地があるのよ」
それを聞いて、寂しくなる。母は結婚すればバルク侯爵家の領地で暮らすこととなる。アリサはリーサの娘だが、母親が侯爵と結婚したからといって、その家の娘になれるわけではなかった。
「先方は、アリサを侯爵令嬢として迎え入れても良いとおっしゃっているわ」
「え?」
通常ではありえない破格の申し出に、母が浮かない顔をしているのが気になった。
「わたくしは、断ろうと思っているの」
バルク侯爵家は、セレス男爵家の本家筋である侯爵家と同じくらい歴史のある名家だ。
破格の申し出もある。
貴族の結婚としてはよくある話だが、母とは親子ほども歳が離れていると聞いた。
それが引っかかっているのだろうか。
「ダリオ様はお優しい方だと聞くわ。けれど、どうしても前向きになれないのよ……」
母は言葉にできない違和感を感じるのだという。ダリオは優しく、母の返事は気楽に待つ、と言っているそうだ。
寛容な相手に理由のわからない嫌悪感を抱くことに、リーサは罪悪感を覚えているようだった。
※
アリサとリーサが不安を抱えている裏で、静かに影は二人を呑み込もうとしていた。
風向きが変わり始めたのは、伯父であるセレス男爵――セレス家当主が進めていた治水工事で、小さなトラブルが続くようになった頃だった。
最初のトラブルは、地質調査を依頼した水利組合の測量士が突然辞職したことだった。家庭の都合らしい。逃げるように去っていった。
代わりに紹介された測量士は、とても見事な経歴を持っていた。しかし、報告書の不明点を質問しても要領を得ず、調査をすると資格も経験もない素人だった。
届いた資材も、四角く切り出した石材を用意するはずが、まるで素人が行ったような歪な形の石が混じっていた。使えるものと使えないものを選別したら大幅に時間を取られてしまった。
雨季に間に合うよう十分な余裕を持って始められた工事は、パラパラと雨が降る日が増え始めた頃にようやく完了した。
セレス家当主は雨季に間に合ったことに胸を撫で下ろした。セレス家の治める土地は何年かに一度、大雨が降ると氾濫する川がある。
何年もかけて資金を集め、ようやく工事が終わったのだ。
今年からは氾濫に怯えることなく領民が過ごせることに安堵した。
「当主様、堰が……、堰が決壊しました!」
セレス家当主のもとにそんな叫びが飛び込んできたのは、何年かに一度の大雨が降った日だった。
氾濫を抑えるための堰は、増水したらあっけなく崩れ去ったという。
天気が回復した後に調査をすると、積んだ石の隙間を埋めるための漆喰が、火山灰を混ぜた強固なものではなく、ただの泥を混ぜただけの粗悪なものであったことが発覚した。
慌てて手配した商人を調べるが、すでに失踪した後だった。
「どうすればよい? あとはもう領土を担保に借金するしか……」
度重なるトラブルに、セレス家の資金はじりじりと少なくなっていた。
「セレス男爵、貴殿が領民を想う気持ちに感服しました。ぜひセレス家の力にならせていただきたい」
そう言って現れたのが、ダリオ・バルク侯爵だった。本家と同じように歴史ある侯爵家からの申し出に、セレス家当主は喜んだ。
「ありがとうございます! バルク侯爵様の寛大なるご厚意に感謝申し上げます」
「いえいえ、同じ王国を支える貴族として当然です。それに、――リーサ様の大切なご生家ですから」
と、ダリオが穏やかに笑うのを見て、セレス家当主はちくりと胸に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。
「恩人に違和感を覚えるなど、何を失礼なことを……」
後年、その棘が自身を苛むことになるなど、この時のセレス家当主は思いもしなかった――。
※
「アリサ、わたくしはバルク侯爵家へ輿入れすることになりました」
硬い表情で、リーサが告げた。
セレス家の治水工事は、バルク侯爵家の後援のもと、順調に工事が進むようになった。
新しい堰ももうすぐ完成するそうだ。
「ダリオ様は、アリサがバルク侯爵家の令嬢として領地へ入ることを望んでいます」
前に話を聞いた時は、「迎え入れてもよい」という程度の話だったはずのそれは、いつの間にか決定事項となっていた。
「わかりました、お母様。それで、いつバルク侯爵領へ伺いますの?」
「今日です」
「え?」
母の言葉が理解できず、アリサは固まった。
貴族家の輿入れは、通常半年以上は時間をかける。決定してから、夫人が使う部屋の内装を整え、夫人が生家から連れてくる使用人との兼ね合いを見ながら、屋敷の人員配置を整えるはずだった。
「ダリオ様は、わたくしもアリサも身一つで構わない、と。
全て、用意してあるからと」
ゾクリと背中が粟立つ。それはまるで、前から準備されていたような周到さ。
母の表情の意味を、理解した。
「午後には出立します。アリサ、後悔しないよう、行動しなさい」
母が部屋を出ていった後、アリサはすぐ行動した。
カインとヒューに手紙を書いた。
『突然でごめんなさい。私も、急な話で混乱しているのだけど……』
手紙はアリサの混乱を示すように字が乱れた。恥ずかしいと思ったが、書き直す時間すら惜しい。
バルク侯爵家に嫁ぐ母について行くこと、侯爵令嬢として迎え入れられること、必ず手紙を書くこと。最低限、必要な情報を書き込んだ。
明日、遊びに行く約束を思い出し、目尻に涙が溜まる。
会いたい、は書けなかった。




