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9 名を問う声

 セシリアはそっとベッドから起き出し、足音を忍ばせて窓辺へ寄った。風のせいだろうか、窓枠がかたかたと揺れている。空を見上げれば、きれいな三日月(ノールクー)が浮かんでいた。


 何げなく中庭を見下ろした彼女は、息を呑んだ。

 三日月の夜とは思えぬほど、明るく青白い月明かり。それが照らし出す石畳の上に、襤褸(ぼろ)をまとったひとりの老婆が(たたず)んでいた。

 見たこともない異様な風体が、なぜこんな夜更けに城の敷地内にいるのだろう。

 その時、老婆がゆっくりと顔を上げ、まっすぐにセシリアを見据えた。


 胸の奥が、きゅっと冷たく縮み上がる。本能が、得体の知れない禍々(まがまが)しいものの接近を告げていた。

 老婆がじり、と間を削いできた瞬間、きぃと軋んだ音を立てて窓がひとりでに開いた。

 部屋に流れ込んできた凍てつく夜風が、セシリアの夜着を乱暴に揺らす。彼女は思わず肩を抱く。

 眼下の暗闇から、干からびた口元を歪ませ、地を這うような低い声が響いてくる。


「……あんたが、ミクラノアの新しい花嫁かい?」


 セシリアは声を出さず、ただ静かに頷いた。


「返事もしないとは、ひどく礼儀のなっていない娘だね」


 セシリアは小さく(うつむ)いた。不快な思いをさせたのなら申し訳ないとは思う。けれど、約束を破って口を開くわけにはいかなかった。

 老婆がまた一歩、距離を詰める。


「あんたの名前は?」


 セシリアは一瞬だけ考え、机から引いた紙に、月明かりを頼りに急ぎ名前を書きつけると、窓の外へ向けて差し出した。

 しかし老婆はその紙に一瞥もくれずに首を振る。


「無駄だよ。我らは文字を持たぬ」


 胸の鼓動が速くなる。老婆の濁った瞳が、さらに間近に迫る。


「名前は、と聞いているんだ」


 背筋を凍らせるような執拗な響きに、セシリアは思わず足元を後ずらせた。だがその恐怖の最中、彼女の頭にある確信がひらめいた。

 ――この者は、私に言葉を発しさせようとしているのだ。


 セシリアは覚悟を決め、唇をいっそう固く結ぶと、怯えを振り払ってまっすぐに老婆を見返した。

 老婆の顔が醜く歪む。

 その時だった。

 老婆の背後の闇から、地を震わせるような凄まじい獣の唸り声が響いた。


 城に到着した最初の夜に聞いた、あの奇妙な鳴き声。

 セシリアがハッとして夜の闇に目を凝らすと、城壁の巨大な影から、ゆっくりとひとつの巨躯が姿を現した。

 月光を浴びて傲然(ごうぜん)とそびえ立つ、見事な角を持ったヘラジカだった。

 ヘラジカは音もなく老婆の背後へと歩み寄り、威嚇するように再び低く唸る。

 老婆は忌々しげに激しい舌打ちをすると、蜘蛛のような素早さで身を翻し、一瞬にして闇の奥へと掻き消えた。


 残されたヘラジカは、静かに顔を上げた。

 夜空を一瞥し、それから、窓辺のセシリアへとまっすぐな視線を寄せる。

 夜の静寂にカツンと硬い蹄の音をひとつだけ残し、巨躯は滑るように闇の中へ溶けていった。

 あとに残されたのは、ただ冷淡な月光に濡れる、無人の石畳だけだった。


 セシリアは震える手で窓を閉めると、冷え切った身体のままベッドへと滑り込んだ。

 けれど、先ほど目撃したあまりにも奇妙な夜の光景が脳裏に焼き付き、彼女は朝が来るまで、とうとう微睡むことすらできなかった。

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