19 真実の愛
運命の、百年目の朝が来た。
エデュアルドとセシリアはいつも通りに並んで朝食をとり、静かにお茶を飲んだ。あまりにも普段と変わらない、穏やかな朝の風景。
自室に戻ったセシリアは、昨夜目撃したあのヘラジカの姿を深く思い起こしていた。
――あのヘラジカは、魔女とどんな関わりがあるのだろう。何のために私の前に姿を現したのだろう。
もし自分が声を出せたなら、あの時、ヘラジカに直接問いかけることもできたかもしれないのに。
セシリアが一人物思いに耽っていると、部屋の扉が小さく叩かれた。
彼女が取っ手を回して扉を開けると、そこには、彫刻を施した文箱を大切そうに抱えたエデュアルドが立っていた。
セシリアは扉を大きく開き、彼を室内へと招き入れる。エデュアルドは静かに文箱を机に置くと、そっとその蓋を押し開けた。
箱の中には、これまでセシリアが彼と交わしてきた数々の紙片が、隙間なくぎっしりと敷き詰められていた。
セシリアはカッと顔を赤らめ、羞恥のあまり思わず上から蓋を押さえた。
――字が汚い。
エデュアルドは愛おしそうに微かな笑みを浮かべると、彼女の細い指を優しく、ひとつずつ解いていった。
それから二人は、日が短く傾いていくのを忘れるほど、互いの紡いだ文字を幾度も、静かに眺め続けた。
やがて、部屋に終わりの始まりを告げる夕闇が訪れる。
執事と侍女が、重い足取りで夕食の支度が整ったことを知らせにやってきた。
エデュアルドとセシリアは、互いの体温を確かめ合うようにしっかりと手を取り合い、広間へと向かう。見守る執事と侍女の目には、堪えきれない涙が滲んでいた。
二人が広間に足を踏み入れた、その瞬間だった。
激しい突風が吹いたわけでもないのに、広間中の蝋燭の灯りが一斉に大きく揺らいだ。
不気味に明滅する光のただ中に、襤褸をまとったあの老婆が、忽然と姿を現した。彼女は二人に向かい、地を這うような足取りでゆっくりと歩んでくる。一歩、また一歩。
「……どうやら、“真実の愛”とやらは、ついぞ見つからなかったようだね」
地の底から響くような昏い声が、その場に居合わせた者たちの背筋を凍らせる。
老婆は濁った瞳をセシリアへと向け、冷酷に口元を歪めた。
「あんたも、おとなしく名前を差し出してさえいれば、その男とともに、永遠に離れずに済んだものを」
エデュアルドはすばやく両手を広げ、セシリアを背中に隠すように、老婆の前に立ちはだかった。
「ふん、そんなことをしても無駄だよ、憐れなミクラノアの末裔よ。我らが受けた苦しみを、百年の呪いの結末を、その身に思い知るがいい!」
老婆が鋭く叫んだ刹那、エデュアルドの身体が大きく捩れた。
彼は苦悶の声を漏らすこともできず、ドサリと床に膝をつき、激しく身体を折り曲げる。異変に気づいたセシリアが駆け寄ろうとするが、エデュアルドはそれを拒むように片手で彼女を遮った。
だが、その彼の手に、見る見るうちに茶色く固い獣の毛が生い茂っていく。こめかみの皮膚を突き破り、平らな角の先端がわずかに顔を覗かせた。エデュアルドは激痛のあまり頭を掻きむしり、声なき絶叫を上げながら床をのたうち回る。
エデュアルド様が、ヘラジカになってしまう――。
悪夢のような光景を前に、セシリアは呪縛されたように、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
その時、部屋の隅に潜む闇から、あの巨大なヘラジカが姿を現した。ヘラジカは低く唸り声を上げながら、毅然とした足取りで魔女へと近づいていく。
セシリアの頭が緊張の中、凄まじい勢いで動き始めた。
なぜ、あのヘラジカはまた現れたのか。昨夜、私に何を伝えたかったのか。
まさか――。
彼女の中で、百年の歴史、日記の記述、ヴィクトルの言葉、そして昨夜の光景が、凄まじい勢いでひとつに繋がった。
森の民は文字を持たない。
彼らにとっての「愛の誓い」とは、沈黙のうちに互いの「真の名」を交わすこと。
そして昨夜、あのヘラジカが最後に示したものは――。
セシリアは深く腹に息を溜め、渾身の力を込めて、魔女に向かって初めてその声を放った。
「“真実の愛”とは、あなたの“真実の名”! あなたの真の名は――ノールクー(三日月)!!」
凛とした彼女の声が広間に響き渡った途端、すべての蝋燭が激しく震えた。
魔女は悲鳴ともつかぬ声を上げ、その場に膝をついて激しく苦しみだした。今度は老婆の手足に、顔に、背に、おぞましい灰色の毛が噴き出していく。床に突いた手足はみるみるうちに硬い蹄へと変貌し、衣服を引き裂いて、彼女の姿は「角のない一頭のヘラジカ」へと変わり果てた。
先ほどからそこにいた角のあるヘラジカが、静かに歩み寄り、角のないヘラジカへと優しく鼻先を寄せる。
やがて二頭のヘラジカは、互いに寄り添い、足並みを揃えながら、広間の奥の深い闇の中へと静かに消え去っていった。
静寂が戻った広間で、セシリアは床に倒れ伏しているエデュアルドの元へ駆け寄り、その肩を激しく揺り動かした。獣の毛も角も消え失せ、そこにあるのは紛れもない、人間のエデュアルドの姿だった。
「エデュアルド様、エデュアルド様!」
彼は、ひどく長い夢から覚めたように、ぼんやりと目を開いた。
「……セシリア?」
自分の喉から溢れ出た、低く掠れた、けれど確かなその「声」に、エデュアルドは信じられないというように大きく目を見開いた。
「声が……私の声が、出る……」
セシリアは溢れる涙を拭いもせず、満面の笑みで答える。
「はい、エデュアルド様。お声が聞こえます」
「もう一度、私の名を呼んでくれ」
「エデュアルド様」
「もう一度……」
エデュアルドは勢いよく起き上がると、セシリアの身体を壊れんばかりに強く抱き締めた。
その背中に回された彼の両手が、まだ微かに震えている。言葉にならない安堵が、彼の熱い体温とともにじわじわと染み込んできた。
彼女は彼の胸に顔を埋めたまま、嬉しさに唇をわずかに尖らせる。
「エデュアルド様、ずるいです。私の名前も、呼んでください」
エデュアルドは、これまでの重荷を払い落とすような晴れやかな笑い声を上げ、彼女をさらに愛おしそうに抱きすくめた。
「……ありがとう、セシリア。私の愛しい人」
その様子を見ていた執事と侍女は、今度こそ嬉し涙を流しながら手を取り合った。
異変を察した城中の人々が続々と広間へ集まり、歓喜の声を上げながら主君と新しい花嫁の周りを取り囲む。
その人混みを掻き分けるようにして、ヴィクトルがいつもの大声を張り上げた。
「これではれて、心置きなく盛大な結婚式が挙げられますね!」
エデュアルドとセシリアは、互いに腕の中で顔を見合わせ、この上なく幸せそうに微笑み合うのだった。




