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18 最後の夜

 それからどれほど日が経っても、魔女の“真の名”に繋がる手がかりは、何ひとつ得られなかった。

 そして、呪いの期限である「百年目」を明日に控えた最後の夜――セシリアの部屋を、エデュアルドが静かに訪れた。

 その手には書付けの紙が握られており、彼はそれを、彼女の前にそっと差し出した。


『もし明日、私がいなくなってしまったとしても、どうかこの城へ留まってはもらえないだろうか。あなたに、ミクラノアのすべてを任せたい』


 セシリアは勢いよく顔を上げ、激しく首を横に振った。

 行かないで、と声にならない叫びを宿す彼女の瞳を、エデュアルドは酷く痛ましそうに見つめ、手にした紙に文字を綴る。


『私に何があろうと、ここにいる者たちを路頭に迷わせるわけにはいかないのだ』


 いつもなら誰もが見惚れるほど流麗な彼の筆跡は、今夜に限っては、痛々しいほどに乱れていた。


 セシリアの目から、堰を切ったように涙が滲む。

 己の無力さと明日への恐怖に、押さえようもなく身体が震えだした。すると、その冷え切った身体を、エデュアルドの逞しい腕が強く、優しく包み込んだ。

 彼の身体は、とても温かかった。


 ――百年の期限が来れば、ミクラノアの血は絶える。

 その言葉が意味する結末を、誰よりも恐れているのはエデュアルド自身のはずだった。それなのに彼は、自分の恐怖を押し殺し、ただセシリアの震えを鎮めるようにしっかりと抱き締めてくれている。

 やがて、その腕の力がゆっくりと緩められた。身体が離れてしまう、とセシリアが絶望に目を閉じた瞬間、彼女の額に、熱い唇がそっと触れた。


 それが最初で最後の愛の証であるかのように、エデュアルドはそのまま一度も振り返ることなく、彼女の部屋を去っていった。

 取り残されたセシリアの目から、大粒の涙が溢れ落ちる。


 これほど、自分の声が出せないことを呪い、辛いと思った日はなかった。もし言葉が使えたなら、引き留めることも、愛を伝えることもできたのに。

 彼女は自ら部屋の灯りを消し、這うようにしてベッドへと潜り込んだ。けれど涙はいつまでも枯れず、枕を濡らし続けた。こみ上げる嗚咽を必死に堪えているうちに、セシリアはいつしか、深い闇の底へ落ちるように眠りについていた。


 城全体が死んだように寝静まった真夜中、セシリアは、あの奇妙な地鳴りのような鳴き声で目を覚ました。

 弾かれたようにベッドから起き上がり、裸足のまま窓辺へと駆け寄って中庭を見下ろす。


 ――そこにいたのは、あのヘラジカだった。

 巨躯のヘラジカは、音もなく窓のすぐ下にまで歩み寄ると、セシリアのいる窓辺へ向けて、その濡れた鼻先をせり上げるように押し付けた。

 セシリアは恐怖すら忘れ、何かに突き動かされるようにして窓を押し開けた。


 百年前の一掃で、もうこの森に一頭もいないはずのヘラジカ。なぜ、自分にだけはその姿が見えるのだろう。

 セシリアが呆然と思索に耽っていると、ヘラジカはゆっくりと中庭の中央へと戻っていった。月光を弾く立派な角と、がっしりとした神聖な佇まい。この美しい生き物が、すでに存在しない幻影だとはどうしても信じられなかった。


 明日になれば、このヘラジカのように、エデュアルドも消えてしまうのだろうか。


 そう思った瞬間、セシリアの目の奥がじわりと熱くなった。

 ヘラジカは歩みを止め、中庭の真ん中でじっと動かずにセシリアを見つめていた。やがて、その大きな鼻先を、厳かに天へと向けた。


 誘われるようにして、セシリアもまた夜空を振り仰ぐ。


 雲ひとつない漆黒の夜空に、凛とした光を放つ美しい三日月(ノールクー)が浮かんでいた――。

 

 吸い込まれそうなほどの静寂の中、冴え冴えとした青白い光だけが、音もなく世界を浸していく。

 彼女が再び中庭に視線を移したときには、そこにはもう、ヘラジカの姿はどこにもなかった。


 ただ、冷たい窓の下で、開きかけた花の蕾が、静かな月の光に濡れて美しく輝いていた。

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