17 真の名
馬車を降り、二人はヴィクトルの後に続いて古びた小屋へと向かった。
軒先には、細長い木の板に鳥の羽を打ち付けた奇妙な飾りがぶら下がっている。それが冷たい風に吹かれて、かたかたと乾いた音を立てていた。ヴィクトルが軋む木戸を押し開ける。
「ばあちゃん、連れてきたぞ!」
小屋全体がビリビリと震えそうなほどの大声だった。
セシリアとエデュアルドは思わず外で顔を見合わせ、苦笑を交わした。
「さあ、狭いですけど入ってください」
ヴィクトルは手際よく木樽と木箱を転がし、二人を座らせる椅子代わりに差し出した。
セシリアはそっと室内を見回す。小屋の中は干し草の香りに満ちていて、まるで深い森の奥にでもいるような穏やかな心地にさせられた。壁にはヴィクトルの言っていた大きなヘラジカの角が飾られており、その真下に置かれた粗末なベッドには、一人の老女が横たわっていた。
ヴィクトルはベッドの傍らに膝をつくと、再び祖母の耳元で声を張り上げた。
「ばあちゃん! エデュアルド様と、セシリア様が来てくれたぞ!」
「あぁ?」
ヴィクトルは大きく息を吸い込み、さらに音量を上げる。
「だから! エデュアルド様と、セシリア様が……」
「うるさいねえ、聞こえてるよ。耳元で怒鳴るんじゃないよ」
老女は億劫そうに身を起こすと、傍らの肩掛けを無造作に羽織った。怒鳴り損ねたヴィクトルのこめかみに青筋が浮かぶ。
その様子を見て、セシリアは今までヴィクトルの大声を「うるさい」と思ってしまっていた我が身を恥じた。
彼がいつもあんなに大声だったのは、ひとえに耳の遠い祖母を気遣ってのことだったのだ。
同時に、セシリアは胸の奥でそっと息を吐いた。
あの夜、中庭に現れた老婆の姿が脳裏を過ったが、目の前にいるのは、ごく普通の老女だった。
彼女はベッドの端に腰掛け、細めた目をさらに細くして、エデュアルドとセシリアの姿をじっと見比べた。
その時、屋根から固まった雪の滑り落ちる鈍い振動が、小屋の古い梁をわずかに揺らした。
老女は、まるで深く刻まれた洞穴のような、皺だらけの口元をゆっくりと開いた。
「あんたが、ミクラノアの新しい花嫁かい?」
セシリアは静かに頷いた。
「森の民のことを、知りたいって?」
再び、セシリアは真っ直ぐな視線で頷いて見せる。
「そうかい。でもねぇ、あたしが生まれた時には、一族はもう森の外にいたからねぇ。大したことは話しちゃやれないよ」
セシリアは革袋に入れた簡易の筆記具を取り出すと、素早く文字をしたため、ヴィクトルに手渡した。
『森の民にとって、名前というものには、何か特別な意味があるのでしょうか』
あの夜、中庭で老婆に執拗に名前を問われたことが、ずっと胸に引っかかっていたのだ。
老女はヴィクトルの言葉を受け、記憶の底に沈んだ古い伝承を浚うように、どこか遠くを見つめた。
「あたしの代にはもう失われていた因習だけどね……。昔の民は、表向きの名前とは別に、決して他人に明かしてはならない“真の名”というものを持っていたと聞いたことがあるよ」
――真の名。
セシリアは心の中で、その言葉をそっと反芻した。
「婚礼の儀の夜にね、夫婦になる者同士が、互いの“真の名”をひそかに交わし合うんだ。なぜって、“真の名”を知られるということは、その相手に魂の奥底を握られるようなもんだからねぇ。そんな大切なものを持たないあたしなんか、あの魔女から見れば、鍵のない金庫みたいなもんだろうよ」
互いに魂を委ね、交わし合う“真の名”。
魔女の言葉が、不意に脳裏によみがえる。
――ヘラジカのごとき沈黙のうちに、真なる愛を見つけよ。
もしかすると――。
興奮と衝撃に、セシリアの手は激しく震えた。彼女は震える手で、その仮説を手短な文章に書きつけようとした。
『“真の名”こそが、『真なる愛』の正体では』
しかし、ヴィクトルは絶望的な大声を上げた。
「そんな……! たとえそれが正解だとしても、百年も前の魔女の“真の名”なんて、今さらどうやって調べるって言うんですか!」
ヴィクトルの言葉は残酷な真実だった。
セシリアの手の震えは、今度は恐怖と無力感によって止まらなくなった。ペンが指先から滑り落ちそうになったその時、エデュアルドの大きな手が、彼女の冷え切った両手を上からそっと包み込んだ。
体温が伝わってくる。けれど、彼の手もまた、かすかに震えていた。
二人はそれ以上何も書けず、ただ俯いたまま、再び馬車の揺れに身を任せて、静まり返る城へと戻っていった。




