15 森の民
セシリアは紙を引き寄せ、手早く文字を綴った。
『あの黒髪の方は、どなたですか?』
差し出された紙を見た侍女は、合点がいったように大きく頷いた。
「ああ、ヴィクトルのことですね。彼は元を辿れば、あの森の民の生き残りなんですよ。と言っても、もう百年も前の話ですけれど」
――森の民。
セシリアが小さく首を傾げると、侍女は温かい茶を淹れながら、記憶を紐解くように顔を上げた。
「ヘラジカを駆除した折に、森の民とも激しい争いになりましてね。当時の侯爵様は、わずかに生き残った彼らを気の毒に思い、この領内に住まわせたのです。今ではすっかり、ミクラノアの頼もしい領民ですよ」
『彼と、話をすることはできますか?』
セシリアの問いに、侍女は「もちろんでございますとも」と快く応じた。
「エデュアルド様が、少々いらだたれるかもしれませんが」
少し悪戯っぽく微笑む侍女の意図が掴めず、セシリアが戸惑っているのを尻目に、彼女は軽やかな足取りで部屋を去っていった。
しばらくして、セシリアは侍女に付き添われて広間を訪れた。格子窓から差し込む夕暮れの光が、積もった白い雪を朱色に染め上げている。
そこには、エデュアルドと、先ほど中庭にいた黒髪の男――ヴィクトルが待っていた。ヴィクトルはセシリアの姿を認めるなり、親しみを込めて破顔した。
「セシリア様、俺に何かご用ですか!」
あまりにも朗々とした大声だった。
静寂に慣れていたセシリアは思わず耳を塞ぎたくなり、身体をすくめて強張らせてしまう。隣でエデュアルドも不快そうに眉をしかめていたが、ヴィクトルはそんな気配などどこ吹く風で、楽しげに言葉を続けた。
「いやあ、セシリア様には是非とも“真実の愛”ってやつを見つけていただかないと! ミクラノア家がなくなったら、俺たちみんな路頭に迷っちゃいますからね」
すかさず、エデュアルドの硬いブーツがヴィクトルの脛を容赦なく蹴り上げた。ヴィクトルは顔を歪めて飛び上がる。
「だって、本当のことじゃないですか。俺たちだって、今さらあの昏い森での生活なんて逆立ちしても無理ですよ」
セシリアは思わず目を瞬かせたが、ヴィクトルの眼前に用意していた紙片を差し出した。
『昔のことを、今も恨んでいる人はいますか?』
ヴィクトルは紙に目を走らせると、大袈裟に肩をすくめて首を振った。
「まさか。だってもう百年も前の話ですよ? そんな昔の因縁をいちいち気にしてたら、どこにだって住めやしない。少なくとも俺は今の暮らしが気に入ってますし、エデュアルド様のことも大好きですから」
セシリアは少し考え、再びペン先を走らせる。
『かつての森の生活が、どのようなものだったか知っていますか?』
ヴィクトルは頭を掻き、唸りながら記憶を辿った。
「俺も親から聞いただけでよくは知りませんが……なんでも、ヘラジカを先祖の霊、一族の神様みたいに崇めていたらしいです。そういえば、俺のばあちゃんの家にも立派なヘラジカの角が飾ってありましたっけ」
――ヘラジカ。
セシリアは胸の内でその名を繰り返し、次の文字を綴った。
『そのヘラジカは、今も森にいるのですか?』
「いや、今はもう一頭もいませんよ。百年前の戦いで、それこそ根こそぎ駆除されたって話ですから」
ヴィクトルの言葉に、セシリアの胸が、にわかに冷たく沈み込んでいった。
駆除されて、もういない。
けれど、城へ向かう森の前でも、昨夜の凍える中庭でも、彼女は確かにあの巨大なヘラジカの姿を見たのだ。 そして、今も耳の奥に残る、悲しげな鳴き声も。
誰も知らないヘラジカの影。
窓外から差し込む朱い夕闇が、静まり返った広間を、どこまでも赤く、昏く染め上げていった。




