日常、ただいま魔法練習中。
昼下がりの裏庭は、風がよく通る。
木陰に置かれた長椅子の上で、アルトは一冊の古い教本を開いた。
マーティンから譲ってもらった、初級魔法の教本だ。
「これ、俺が初めて魔法を習ったときに使ってたやつだ。書き込みも多いけど……読みやすいと思う」
角のすり減った本を受け取り、アルトはそっと表紙を撫でた。
(……大事に使われていた本だ)
隣では、カイとユナが身を乗り出して覗き込んでいる。
「アルト、魔法の勉強するの初めてだね!」
ユナが風に揺れる髪を押さえながらはしゃいでいる。
「……そうだね。この間の事件の時も魔法は使わなかったからね」
「そっか。でも、基礎ならきっとすぐに使えるようになるよ」
ユナが柔らかく微笑む。
三人は自然と顔を寄せ合い、教本を囲むように座った。
ページには、《魔力の流し方》《初歩の水魔法》《集中の姿勢》といった項目が並んでいる。
カイが指で文章を追いながら言う。
「まずは……魔力を手のひらに集める練習だって。水魔法は、その次みたい」
ユナも頷く。
「アルトは集中力があるから、きっと向いてるよ。魔力の流れが見えたら、すぐに慣れると思う」
三人が教本を囲んでいると、背後から静かな足音が近づいてきた。
「……何をしているの?」
振り返ると、リオルが日傘を閉じながら歩いてきた。
いつもの落ち着いた表情だが、興味深そうにこちらを見ている。
「マーティン先輩から基礎魔法の本を頂いたの。今日は先輩はいないけれど、自分たちで実際にやってみようかなって。」
「なるほど。僕がお手本を見せようか?」
リオルはそう言うと、アルトの隣に腰を下ろした。
貴族らしい所作で、手のひらを軽く前に出す。
その瞬間、リオルの手のひらには、大きな水球がふわりと浮かび上がり、そして勢いよく水が溢れ出した。
「魔力操作は苦手なんだよね……」
リオルは苦々しい顔をしながらそう言った。
アルトは静かに息を吸い、手のひらを見つめた。
(……魔法。好きではないけれど……水が手に入らない時、少しでも安全に…)
ページの端に書かれたマーティンのメモが目に入る。
《焦らないこと。魔力は“押す”より“流す”》
アルトはその言葉を胸に刻み、そっと目を閉じた。
風が、三人の間を静かに通り抜けていく。
ユナが小さく囁く。
「魔力を……手のひらに集めて。流すように、ゆっくり」
アルトは呼吸を整え、意識を手のひらへ向けた。
胸の奥にある“何か”が、細い糸のように動く。
それを無理に押し出さず、ただ流す。
(……ここに、集める)
手のひらが、ほんのりと温かくなった。
カイが息を呑む。
「……アルト。もう少し魔力を強めて」
ぽたり。
手のひらに、小さな水のしずくが落ちた。
透明な一滴が、光を受けて揺れている。
「……出た……」
アルトは驚いたように目を開けた。
「量は少ないけど水は出たな!」
カイが嬉しそうに笑う。
「きっともっとできるようになるよ!」
ユナも頷く。
リオルも顔を綻ばせながら評価する。
「魔力の流れ、とても綺麗だったよ。きっと、もっと上手くなる」
アルトは手のひらのしずくを見つめた。
「まだ、汗みたいだね。リオルみたいに溢れるくらい魔力があればいいけれど。」
リオルは少し考えてから言った。
「魔力の大小は生まれつきだけど……手っ取り早い方法なら、魔法道具を使うとか工夫すればいい。ひとりでも大きな魔法を扱えるようになる」
「魔法陣……?」
アルトが首を傾げる。
リオルは目を瞬かせた。
「え、もしかして魔法陣も知らないの、アルト?」
「知っているけれど……防災訓練の時は魔法陣なんて使ってなかったし、獣に襲われた時も先生は杖しか使ってなかったよ」
カイとユナが顔を見合わせる。
「そういえば……」
「確かに、あの時は使ってなかったね」
リオルは苦笑した。
「あんなにたくさんの煙と火の幻を全生徒に見せていたのに?」
カイとユナは、それぞれ防災訓練の時を思い出すように言った。
裏庭の空気が少しだけざわつく。
あの日の混乱が、ふと脳裏をよぎったのだ。
リオルは肩をすくめる。
「彼らは別格だよ、アルト。
あの2人は王族と同じかそれ以上に魔力を持っているし、扱いなんて、魔法省から推薦が来るくらい上達しているんだ」
その言い方は淡々としているのに、どこか誇らしげでもあった。
「彼らってそんなすごい人たちだったんですか…」
アルトが小さく呟くと、リオルは頷いた。
「ああ。彼らの家は兄弟が多くてね。
あまり他の家のことを言うのもどうかと思うけれど、一般的な貴族と比べると……貧困……いや、清廉なんだ」
「だいぶ意味が変わってくるんじゃない?流石に俺にもわかっちゃうよ」
カイが苦笑しながら突っ込む。
リオルは少し照れたように笑った。
「まあ、職業に関する人材としては優秀なんだけれど、その個人の才能にそれぞれお金をたくさん使っているから、家自体は……ね」
ユナが首を傾げる。
「いい人が多いのでしょうけれど、貴族としては不思議な家なのでしょうね」
「私欲を肥やしているわけじゃない。ちゃんと土地にも使っているさ。
便利ではあるんだけど、立地というか……領の土地の関係でもあるんだ」
リオルは言葉を選びながら説明する。
その慎重さが、逆に“本当に詳しい”ことを物語っていた。
ユナがジトっとした目を向ける。
「……詳しいね。こういうことはあまり他人に、しかも平民に話していいことではないんじゃない?」
リオルはバツの悪そうに視線を逸らした。
「うん、まあ、ね。
学校に通っている貴族や、同級生の平民の間でも皆知っているんだよ。
君たちはそんなに他人に興味ないだろ?」
その言葉に、カイとユナは顔を見合わせて苦笑した。
リオルは続ける。
「初等部と高等部ではつながりが薄いけれど、貴族なら初等部の頃から知っている話だし、
将来、職につくことになったら嫌でも耳に入るよ。
一族皆優秀だから、僻みもあって……悪意のある噂を聞くハメになるけれど」
アルトは長いまつ毛を伏せながら呟いた。
「そうなんだ……それじゃあ、防災訓練の時の魔法は、あまりよくなかったかもしれないね」
その声音には、マーティンとハリスを気遣う優しさが滲んでいた。
リオルは首を横に振る。
「ああ、それがそうでもないんだよね。
今年は錬金術部の事件解決に一役買ったみたいで、評判がいいんだ。
防災訓練も……逃げた先生がいたじゃないか」
アルトとカイとユナは、それぞれ苦々しい顔をしながら顔を見合わせた。
「ああ……」
「あれは酷かったよな」
「私も驚いちゃった……」
リオルも渋い顔で頷く。
「生徒を通して、先生たちの醜態が貴族の家に晒されてしまったようで、皆そちらに意識がいっているみたいなんだ」
カイが肩をすくめる。
「間が悪いというか、良いというか、だね」
ユナも小さく笑った。
「そうね。私たち平民には、貴族のような話は耳に入らないけれど……悪い話もそんなに聞かないわ」
カイが不思議そうに言う。
「貴族の子って、入学した時からグループできているもんな」
リオルはにこやかに返した。
「貴族っていうのは、子供の頃から横のつながりを求めて、小さい頃から茶話会をしたり、親に友達を用意されたり……面倒くさいんだ」
その言い方があまりにも自然で、
三人は思わず同時に返した。
「大変だな」
「大変ね」
「大変だよね」
リオルにそう言われ、3人は他人事のように返した。
「初等部に入る前かぁ。家の手伝いをしてたなあ」
「船に乗ってたな。今も変わらないけど」
「一緒だー」
カイとユナは顔を見合わせて笑う。
リオルがアルトに視線を向けた。
「アルトは何してた?」
アルトは遠い目をしながら答えた。
「……私は覚えてないかな。そんな昔のこと」
三人は何かを察し、それ以上は何も聞かなかった。
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