婚約破棄と日常
アルトは、家の床に敷いた布の上で横たわる男性に水を飲ませていた。
男性は息を荒げ、時折うめき声を漏らす。
右腕と右足の欠損部分には、家にあったポーションを惜しみなく使った。
飲ませ、かけ、布で押さえ、また飲ませる。
(……足りない。これじゃ止血はできても、治癒は追いつかない)
棚から錬金術の本を取り出し、
薬草をすり潰し、煮て、混ぜていく。
手は震えていない。
ただ、呼吸だけが少し浅い。
男性の様子を見ながら、アルトの意識は静かに過去へ沈んでいった。
◇
「貴様との婚約を破棄する」
その言葉が、屋敷の空気を切り裂いた。
母は、結婚して三ヶ月で妊娠し、そして──アルトを産んだ。
おそらく母親が生涯愛しただろう父親にそっくりな顔で。
家は激怒し、母は見放された。
幼いアルトは、母の中に“父親の面影”を映してしまった。
そしてある日、──まだ二歳のアルトは父親とは違う行動をした時に、母の手が飛んできた。
ゴキッ──
首が変な方向に曲がった。
視界が白くなり、呼吸が止まりかけた。
母は慌ててポーションを飲ませた。
震える手で、何度も何度も。
その時、アルトは生死の境で前世を思い出した。
(……うわっ)
前世の知識と、目の前の母親の現状が、あまりにも噛み合わなかった。
それからアルトは、なるべく母の言う通りに過ごすことにした。
料理の味にまで口を出され、息が詰まる日々だった。
母は最期の時、アルトを見て言った。
「……アルト……」
だがアルトは、彼女を見ずに静かに返した。
「あなたは最後まで、私を見ないのですね」
言葉を冷たかった。
母の最期を見届けず、部屋を出た。
母の実家には、淡々と“母が死んだ”という手紙を送った。
実家は情けで、王都の長屋を与えてくれた。
いらない本やポーションもくれた。
それで、初等部から高等部まで通えるようになった。
◇
アルトは、薬草を煮詰めた液体を布に染み込ませ、
男性の傷口にそっと当てた。
男性は苦しげに息を吐く。
アルトはその顔をじっと見つめた。
(……生きてる。まだ、大丈夫)
自分の手が震えていることに気づき、アルトは深く息を吸った。
「……大丈夫。まだ生きている。」
そう呟き、再び薬を調合し始めた。




