教師たちが逃げた日
その日の朝、校内放送が鳴り響いた。
『本日、午後の授業終了後に全校防災訓練を実施します。
生徒の皆さんは、落ち着いて先生の指示に従ってください』
淡々としたアナウンスが学校中に響いた。
◇
初等部は、午後の授業が終わりに近づいた頃だった。
教室の外から、かすかな白いものが流れ込んできた。
最初は光の加減かと思ったが──違う。
(煙……)
アルトはすぐに気づいた。
昨日、裏庭で見た“あの煙”だ。
次の瞬間、廊下の向こうから、
パチ……パチ……と小さな音が聞こえ始めた。
火災特有の、乾いた音。
そして──
焦げた匂いが、教室の空気に混ざった。
「えっ……ちょ、ちょっと待って……」
担任の先生が青ざめた。
「火……? 本当に……?」
先生の声が震えている。
アルトは声をあげて指示を出す。
「ハンカチを口に当てて! 姿勢を低くして、ゆっくり廊下に出てください!」
しかし、子どもたちはざわめいて動けない。
アルトは判断を切り替えた。
「先生! 指示を!」
「み、みんな! ハンカチを口に当てて! 姿勢を低くして、ゆっくり廊下に出るよ!」
先生は焦っていたが、すぐに生徒へ向き直った。
アルトは静かに頷き、クラスの子たちを誘導する。
(……大丈夫。これは訓練。さて、他の学年はどうかな)
◇
同じ頃、中等部の廊下にも煙が流れ込んでいた。
「うわっ……なんだこれ……」
「煙……? 本物……?」
生徒たちがざわつく中、
担任の先生が突然叫んだ。
「む、無理だ! 俺は先に逃げる!
みんなは……じ、自分でなんとかしてくれ!」
そのまま先生は廊下へ飛び出し、
煙の中へ消えていった。
「先生!?」「ちょっと待ってよ!」
教室は一瞬で混乱に包まれた。
だが──リーダーの一人が前に出た。
「み、みんな、落ち着いて!ハンカチで口を覆って、姿勢を低く!
ゆっくり階段を降りるよ!」
別のリーダーも声を張る。
「走らない! 押さない!前の人の背中を見て、ついてきて!」
先生が逃げた後の混乱を、リーダーたちが必死に押さえ込んでいた。
煙の中、中等部の列はゆっくりと、しかし確実にグラウンドへ向かって進んでいく。
「……あいつ逃げやがった」
誰かが低く呟いた。
◇
高等部の廊下にも、濃い煙が広がっていた。
「これから指示に従ってくれ!」
「先生、どうしますか……?」
生徒が尋ねると、担任は顔を真っ青にして叫んだ。
「わ、私は……上に逃げる!ここは危険だ!」
そして、階段を駆け上がっていった。
「はぁっ!?」「上!?」「なんで上に!?」
生徒たちの動揺は一気に広がった。
「先生が逃げた!」「どうすれば……!」
リーダーが声を張り上げる。
「落ち着け! 上は危険だ! 外に出るぞ、こっちだ!」
だが、全員が従うわけではなかった。
「先生についていく!」
「上の方が安全かもしれない!」
数名が階段を駆け上がり、別の数名はパニックのまま外へ走り出した。
リーダーたちは必死に制止する。
「待て! そっちは危険だ!」
だが、煙と混乱で声は届きにくい。
その中で、一人の男子生徒がパニックのまま暴れ、リーダーの一人が拳を入れて倒した。
「っ……!」
すぐに別のリーダーが駆け寄り、迷わずその子を抱え上げる。
「誰か、手伝え!」
「こっちだ、出口まで運ぶ!」
気絶した生徒を抱え、リーダーたちは煙の中を進んでいった。
◇
校舎全体が、煙と炎の幻影に包まれていた。
だがその中で、初等部・中等部・高等部のリーダーたちはそれぞれの場所で必死に動いていた。
アルトは初等部の列を誘導しながら、胸の奥で静かに思った。
(……これが、現実。これが、“本物の訓練”)
昨日の裏庭で見た炎の幻影が、今、校舎全体を動かしている。
混乱を尻目に、アルトは口角を少し上がるのを抑えていた。
「すごいな……これが魔法……」
魔法なんて、危険なだけだと思っていた。
魔法なんて、赤子に刃物を握らせるような存在だとしか思わなかった。
魔法に憧れることはただ一度もなかった。
しかし、防災という点において、今、確かに役に立っている。
窮地に追い込まれた時、人の本性が見えるものだ。
それを知っている。何度も見てきた。
先生が襲われた時、魔法が刃物であっても使い方次第では誰かや身を守るものになることを実感した。
しかし、それだけでは足りなかった。皆を避難させなくてはいけなくて。それには魔法は使えなくて。
あの時、自分が危険を犯したのは先生の覚悟を信じなかったからだ。
いや、先生の、人としての逃走本能を信じていたからだ。
人は窮地になると、豹変することが多い。
人を守ろうとする者、自分だけで逃げる者、パニックになって動けない者、人に誘導されれば動ける者。
どれだけの人が未知の場面に遭遇した時に冷静になれるだろうか。冷静にならなくても動けるだろうか。命を守れるだろうか。
でも、遭遇してしまった。危険に遭遇した。よりによって人災に遭遇してしまった。
モンスターはいるが、騎士団や冒険者ギルドが守ってくれる。
平和だ。とても。
だがアルトは知っている。
平和の裏側にある“現実”を。
警察官として見た血。
軍人として浴びた血。
夢に見るほどの惨状。
この世界の平和は、アルトにとってはむしろ悪夢だった。
だからこそ──
危険に遭遇した時、この世界に感謝してしまった。それまで、この世界はアルトにとって平和すぎたのだ。
人災なんて言葉は遥か昔のこと。国の庇護下にある国民は皆平和を享受している。モンスターだって、村を襲ったりするが、遠い地域の話だ。自分の話ではない。知ったことなどないのだろう。
(……やっと、“現実”が見えた)
高等部の最上階。
煙の向こうで、先生が右往左往しているのが見えた。
「やばすぎないか、この学校」




