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君のいない日々を

【茉那】


 茉梨が亡くなってから約半年の月日が経った。

  巡ってきた冬は終わり、春がやってきた。そして、ゴールデンウィークが終わり、梅雨に差し掛かろうとしていた。私と夫は明日の結婚式に向けて、早めの夕食、早めの入浴といった緊張感のある生活を過ごしていた。

 

 ドライヤーで髪を乾かし終わり、コンセントからコードを抜く。時刻を確認すると、まだ二十時前だった。


「茉那」

 

リビングから夫の声がする。


「何?」


「こっちに来てほしい」

 少し焦りの含まれた声が聞こえてきたので、何かハプニングでもあったのかと少し早足で洗面所を出る。

 

 ドアを開けると夫がダイニングテーブルに向かって姿勢を正して座っていた。


「どうしたの?」

 背後から声をかける。


 夫が机の下に隠している手に何かが握られているのが見えた。夫はそれを、私がいつも座っている対面の席に差し出した。


「これ」


 こちらに見向きもせず夫が机の上に置いたのは、手紙だった。


 結婚式前日に何か私に伝えたいことがあるのだろうか。

 それにしても、そんなに緊張して改まらなくてもいいのに。

 

 そう思いながら台所へ行き、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出す。マグカップに自分の分と夫の分を次いで、テーブルに運んだ。


「手紙を書いてくれたの?」


 子供に問いかけるみたいに、微笑みかける。椅子に座りながら、夫と視線を合わせようとする。でもなかなか視線が合わない。


 私が麦茶を口にし、それをゴクリと飲み込んだ後、やっと夫と目が合った。


「僕じゃない」


 そう言われ差し出された封筒を手に取り裏返すも、送り主の名前はどこにもない。


「誰から?」

「君の妹さんから」

 

 私は持っていた手紙を、はらりと机の上に落としてしまった。


「君の妹さんが書いていた手紙を、苺花さんから預かった」


 混乱している私を置き去りに、夫は淡々とした調子で答えた。


 夫が渡してきた手紙を見る。見つめたまま動けなくなる。

 なぜか封を切る勇気が出なかった。

 きっと半年前の、茉梨が亡くなった直後の私なら直ちに開けていた。でも今はもう違う。あの頃の痛みも、悲しみも渇いてきた。飽和するほどに溢れていた茉梨に対する少しずつ執着心を、私はずっと感じないようにしてきた。


 今更茉梨に対する愛情を向けたところで、手に入るものなんて何も残っていない。


 薬指の指輪を揺らしながら、自分の中でしっくりくるところに回す。


 私は明日、結婚式を挙げる。

 そして私は明日の五月二十七日。一歳歳をとる。

 

 毎年五月二十七日が来るたびに、私はきっと夫との幸せな結婚式を思い出すよりも、茉梨と歳が離れていってしまうことを思ってしまうだろう。私だけが歳をとっていく。おばさんになって、しわだらけの老人になる。どれだけ歳を重ねても、きっと隣にいてくれる夫よりも、綺麗なまま死んでいった妹を思うだろう。

 

 テーブルに置かれた手紙をじっと眺める。

 

 ここには私へのメッセージが残されている。この中に残されている事実を知ったら、夫との安定した日々を崩してしまうような気がする。

 この中に『お姉ちゃんに会いたい』なんて書かれていたら、私はきっと明日の結婚式なんて放りだして茉梨の元へ走り出してしまう。『お姉ちゃん大嫌い』なんて書かれていたら、苦しさで窒息してしまう。

 

 どうしてこんな日に、夫はこれを渡してきたのだろう。せめて一日だけでも、待ってほしかった。どこにでもある、普通の夫婦の結婚式を終えるために待ってほしかった。

 

 それならせめて。


「読んで」


 私は目の前に置かれた封筒を夫に返した。


「え?」

「あなたが読んで。じゃないと私、きっと崩れてしまう。ここにいられなくなる。私はあなたと一緒にここにいたいの。でも一人で読んだらきっと、茉梨を追いかけたいっていう気持ちがまた芽生えてくる。きっと私を勝手に動かしてしまうような気持ちが溢れて止まらなくなる。だから、あなたの声で読んでほしい」


 一人で読んだらきっと、私は脳内で茉梨の声を思い出しながら読んでしまう。茉梨の顔。匂い。仕草。声。脳ですべてを変換してしまう。


「これは君宛の手紙だ。僕は読まない」

「読んで」

「ここにいるから。僕は読んでいる茉那を見てるから」

「いや! あなたが読んで」


 声を荒げて言うと夫は、表情を歪めそっと封筒に手を出した。


 私はどこまでも夫に甘えている。私が押し続ければ、夫はいつも曲がってくれる。


 一度麦茶を口にして心を落ち着ける。封を切ろうとする夫の手つきが震えているように見えた。


「茉那」

 夫に名前を呼ばれる。夫が開けた封筒の口から薄ピンクの便せんが見えた。


「何?」

「僕、君が帰ってこない二週間、狂いそうだったよ」

「ごめんなさい」

「君が妹さんを追いかけすぎて、僕と離婚して逸くんと一緒になるなんて言い出したらどうしようかと思った」


 夫はテーブルに置かれている麦茶を一口飲んだ。そして、その勢いのまままた口を開いた。


「逸くんのこと。何度も殺そうか迷った。それくらい、君を愛してるよ」


 私たちは同じ重さで人を愛している。だから、どんな気持ちだって、この人は許してくれる。

 

 私は夫の恐ろしい言葉に安心してしまった。夫が苦しんでいることに、安心してしまった。

 

 さっきとは打って変わって、夫はスムーズに便せんを取り出した。そして口が渇いたのかガブガブと麦茶を口にした。私のマグカップにも夫のマグカップにももう麦茶は残っていなかった。




「お姉ちゃんへ」



 夫が私に向かって『お姉ちゃん』と言ったそのときから、目の前が何も見えなくなった。耳から聞こえる夫の声だけが、私をこの世に存在させていた。



 夫に読んでもらってよかった。手紙が本文に入る前からすでにそう感じていた。



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