確かなもの
しわしわの手紙の中に、過去のぼくの思いが詰まっていた。十四年間思い続けた証が、ここに残っていた。マリちゃんが残してくれていた。
目にじんわりと涙が浮かんできた。
これを読んでもなお、ぼくは何一つ思い出せない。
「茉梨のこと。大切にしてくれてありがとうね」
茉那さんにそう言われる。
歯を食いしばって何とか涙が出そうなのをこらえる。
ぼくに泣く権利なんてない。過去のぼくは、マリちゃんの笑顔を一生忘れないなんて言っているくせに、今のぼくはマリちゃんの顔すら思い出すことができない。この手紙を書いたことすら思い出せない。マリちゃんの死を思いっきり悲しむこともできない。
苦しい。
唾を呑みながら、必死に涙を流すことに耐えていると、ガチャリと玄関が開く音がした。ご両親が帰ってきたのだろう。
茉那さんと廊下を歩き玄関に向かう。
「お母さん、お父さんお帰りなさい」
茉那さんは玄関先で靴を脱いでいる二人に声をかけた。
「こちらの方は?」
マリちゃんのお父さんであろう人が、ぼくを一目見たあと、茉那さんに尋ねた。
「茉梨の彼氏さん」
「あぁ、あの花の子か」
お父さんが納得したような口ぶりでうつむきながら笑う。
「こんにちは。純浦逸です」
お悔やみの言葉を言おうとしたが、何という言葉を言うのが正しいのかわからなくて、自己紹介をするだけで終わった。
「来てくれてありがとう」
お父さんに肩を叩かれる。
はい、と言っていいのか迷った。マリちゃんの死を思いっきり悲しんでいる状態でないぼくが、その厚意を受け取っていいのかわからなかった。
四人でリビングに戻り、椅子に座る。紅茶を持ってきた茉那さんがぼくの隣に座って、ぼくの前にお父さん、茉那さんの前にお母さんが座った。
「生前娘と仲良くしてくれてありがとう」
お父さんが温かい丸みのある声でそう呟いた。お母さんはどこか思いにふけった様子で紅茶を啜っている。
「いえ。あの……」
「記憶喪失になったんだよね。茉那から聞いたよ」
「あっ。はい」
緊張して声が震えた。
マリちゃんのことを忘れてしまったというのに、マリちゃんのお父さんがぼくを責める様子はなかった。お母さんもだ。どうして娘のことを忘れたんだ、と誰もぼくを責めてこない。
「今日は来てくれてありがとう。でももう、来なくていいよ」
優しい声でお父さんに言われる。
「え?」
「幸せになりなさい」
マリちゃんのお父さんが笑ってそう言った瞬間、マリちゃんのお父さんの隣に座っているお母さんも同じ顔で微笑んだ。お父さんの声は、崖っぷちに立っているぼくをゆっくり海の中へ突き落とすかのような、そんな声だった。
「娘を大事にしてくれたその手で、今度は別の誰かを大事にしてあげなさい」
「でも……」
「茉梨の存在を忘れろと言っているんじゃない。誰かを幸せにしてあげて、同じように茉梨を大事にしてあげていたことをちゃんと自覚してほしいんだ」
マリちゃんのお父さんの口調は力強いけれど、表情は柔らかい。
「たとえ君が娘の存在を忘れてもいい。僕たちが覚えているから。ちゃんと君が娘を大切に思っていてくれたことを僕たちはちゃんと覚えているから」
ぼく自身の存在を肯定してくれる言葉が、ぼくの心に酷く突き刺さる。優しい言葉だからこそ、残酷にぼくの心に突き刺さる。
ぼくはゆっくりと頭を下げた。すると、瞳に溜まっていた涙が机の上に落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
自分の目から溢れ出た涙を見た瞬間、我慢していた涙が止めどなく溢れてきた。
苦しさを吐き出すように謝る。謝罪を並べても、謝りきれない。
「僕たちに謝らなくていい。また茉梨に会えたときに謝ればいい。きっとあの子なら許してくれるさ」
マリちゃんのお父さんの言う『あの子』という表現に、マリちゃんがここから遥かに遠いところに行ってしまったことを実感する。
またマリに会えたとき。
ぼくはマリちゃんのことを何も覚えていないというのに、次マリちゃんに会えたとき、一体何を持ってマリちゃんをマリちゃんだと判断できるだろうか。
「そうだ。お母さん。あれを持ってきてくれ」
マリちゃんのお父さんが、いきなりお母さんに呼びかける。お母さんは立ち上がって、何かを取ってきた。
ぼくの前に一つの額縁が置かれる。額縁の中には、白い花があった。
スマホで調べたことがある。押し花だ。
「茉梨の誕生日に、君がお花をくれたんだよね」
お父さんに優しく見つめられる。
「何これ・・・・・・」
隣の茉那さんが、ぼくと同じように驚いている。初めてこれを見るようだ。
「茉那には見せたことなかったかしら? 茉梨がね、今年の誕生日、家に帰ってきてすぐ私に押し花をしたいって言ってきたのよ」
マリちゃんのお母さんがはにかんだ。そして、言葉を続けた。
「茉梨は逸くんのこと、本当に好きだったんだろうね。だからもらった花を押し花にして、綺麗な状態のまま持っておきたいと思ったんだろうね」
ぼくの記憶の中の写真が表を向くことはない。マリちゃんの顔が、ぼくの頭の中に映し出されるわけではない。
ぼくは置かれた押し花をじっと見た。ここにある花だけが、過去のぼくとマリちゃんを繋いでくれている。マリちゃんはここにいなくても、ぼくの記憶が戻ってこなくても、ぼくがマリちゃんに花をあげた事実は決して消えることはない。
ぼくたちは愛し合っていたんだ。本当に、繋がっていたんだ。
ぼくの胸の中に写真があることはわかる。それが表を向くことは二度とないかもしれない。自分の力で、写真を見ることはできないかもしれない。
でも頭の中に、茉梨ちゃんという写真があることはわかる。
忘れてもいい。思い出せなくてもいい。
みんなそう言ってくれるけど、いつか何かの拍子で心の中のマリちゃんとの写真がペラッとめくれたりしないかな、なんてぼくは考えた。
帰り際、玄関先でマリちゃんのお母さんに「押し花が欲しい」と頼んだ。でも断られた。
「あなたがこれを持っていたら、これを見るたびにあの子を思い出すでしょ」
それの何が駄目なんだ、と言おうとしたが止められる。
「茉梨があなたを大事に思っていたことを知ってほしいんじゃないの。あなたが茉梨を大事に思っていたことを知っていてほしいだけなの。あなたがくれた花束を押し花にした茉梨のことじゃない、茉梨に花束をあげた自分のこと、これから生きていく上で感じてほしいの」
マリちゃんのお母さんはそっと微笑んだ。
その顔は、茉那さんの顔によく似ていた。
「じゃあね」とマリちゃんのお父さんがぼくに手を振る。同じように、お母さんと茉那さんも、ぼくに手を振ってきた。ぼくは気を付けの姿勢をしてから、大きく頭を下げた。
もしかしたら、もう二度とここには来ないかもしれない。三人がぼくに「またね」と言わなかったのは、もう二度とぼくがここに来なくてもいいようにだろう。
頭を下げながら、脳内でマリちゃんに手を振る。
バイバイ。マリちゃん。
明日も学校で会う友達と挨拶を交わすときのように、脳内でマリちゃんに伝える。声も顔も匂いもわからない女の子に別れを告げる。
勢いよく頭を上げたそのとき、再び花の香りがふわりと香った。
ぼくは笑ってマリちゃんの家を出た。
その日の夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中のぼくは、川沿いの道を見たこともない車で運転していた。ワクワクするような、でも少し緊張するような気持ちでその車を運転していた。
隣には大きな川があった。夢の中なのに、リアルに気持ちよい風を感じた。外には半袖を着ている人も、長袖を着ている人もいた。
ぼくは何かを言おうと口を開けた。何を言おうとしたのかはわからない。自分の意志とは関係なく、体は動いていた。
しかし口を開いた瞬間、開けていた窓から大量の花びらが飛んできた。
ぼくは思わず目をぎゅっと閉じ、「うわっ」と声を上げた。
次に目を開けると、自室のベッドの上だった。本当の出来事だったのかと思ってしまうほど、何の面白みもない夢で、なんとなく続きが見たいと思ったけど何度目をつむっても続きが見られることはなかった。




