新たな
マリちゃんの家へ行ってから二週間後、やっと最後の通院の日がやってきた。
古川先生のカウンセリングを終え、精神科へと行く前にトイレへ行った。
マリちゃんの家へ行ってから数日後、ぼくはアルバイトを再開した。問題なく接客できたし、レジ打ちも難なくできた。アルバイトをしていたときのことを明確に覚えていたわけではないけれど、自分の体には仕事内容が染み付いていた。メニューは覚えていなかったから、スマホで調べて家で暗記した。わからないところがあればこっそりこたに聞きに行った。一店員として、それなりの業務はできた。
茉那さんのいない、一人の暮らしはさみしかった。心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになった。
ただ不安にはならなかった。これまでこの心の穴を埋めていたのがマリちゃんであることを知ったから、何も不安ではなかった。
わからないという不安でいっぱいで動けなかった状態から、ぼくはやっと動けるようになった。確実に前に進めるようになった。
ぼくの裏向いている写真が一体何なのか、考えるのをやめた。それより、これからまたたくさんの写真を、この体で撮っていくことを決めた。
トイレで用を足し、手を洗いながら目の前の鏡を見る。
一か月前、ここに来て暴れたときのことを思い出す。
今思えば、こんな大きな自分を七歳だと思っていたなんて、ぼくはなんてバカだったんだろう。でもあのときのぼくは、本当に自分を七歳だと思っていた。記憶をなくしてしまったことにも気付いていなかった。自分が二十歳だなんて思いもしていなかった。お酒を飲めることも、スマホを持っていることも、恋人がいることも全部、ぼくにとっては未知の領域だった。
そして、恋人がもう亡くなっているなんて思いもしなかった。
マリちゃんは天国で、こんなぼくを見ているだろうか。
記憶を亡くしたぼくのことを、笑って許してくれるだろうか。
これから、幸せを掴もうとしているぼくのことを、マリちゃんは許してくれるだろうか。
いいや、許されなくても生きていかなくちゃ。
たとえマリちゃんに憎まれたとしても、ぼくはこれからを生きていく。
誰に笑われても、怒られても、ぼくはこれからを生きていく。
マリちゃんを好きだったころのぼくを抱えて生きていく。
マリちゃんのご両親と約束したように。
手を洗ってポケットからハンカチを取り出した。手を拭きながら外へ出ようとする。
今日が最後だ。
外へ足を踏み出そうとしたとき、トイレの外で人の気配がした。
「ねぇ桃子聞いた? 四二八号室の女の子の病名」
「飛び降りに巻き込まれた子の?」
「そうそう」
ひそひそひそ、と二人の看護師の声がする。やけに小さい声で、まるで誰かから隠れているような様子だ。
四二八号室。それは苺花ちゃんの部屋だ。
ここで出ていったら話が終わってしまうと思い、足音を潜めながら音の方へ近づき、二人の声に耳を澄ませる。
「聞いたよ」
桃子と呼ばれる看護師は苦笑いしている。
苺花ちゃんは、何か体の病気なのだろうか。心配の気持ちが募る。
「桃子ももう聞いたんだ。ビックリだよね」
「うん。明日美、あの子の担当なんだっけ?」
「そうなの。すごいいい子だったのに」
明日美と呼ばれる看護師が、ニュース番組のインタビューを受けているかのような口調になる。
いい子だったのに残念、ということだろうか。苺花ちゃんはあの事故によって何か命に関わる傷害を負ったのだろうか。
自分の鼻息が荒くなるのを感じる。何とかバレないように息を潜めた。
「どうしてわかったの? 見かけで判断できる病名じゃなくない?」
桃子が明日美に尋ねる。
「それがさ、古川さんはカウンセリングで母子家庭だって聞いてたのに、一昨日あの子のお父さんを名乗る人がやってきたんだよね」
「え? それでどうなったの?」
「古川さん。悪いけど面会は行ってないって伝えてください、って言ってきたの。あの子が隠しているなら、あの子とってお父さんは悪影響かもしれないからって会わせたくないって」
話が有線イヤホンのようにぐちゃぐちゃに絡まっていく。
「でもさ、古川さん優しいよね。立花先生は病名付けなくていい、って言ってたのに」
明日美は笑って話を続けた。
何の話をしているのか全く見当がつかない。
「言われてみたら確かにあの子、犯罪者っぽい面持ちしてるよね」
桃子はヒックヒックと笑い出した。
「わかるわー」
明日美は必死に声を潜めながら笑っているのがわかる。
桃子は「ウケる」と言いながらしゃっくりのような甲高い音を喉から漏らし続けていた。
「古川さん、初めからあの子のこと疑ってたんだよね」
十分に笑い終えた明日美が呟く。
今すぐ飛び出して「何が?」と聞きたい。でも、関係ない人間に教えてもらえるはずがないことをわかっているので、じっとこらえた。
「怖すぎるわー。あの人何でも見透かしてるみたいな目してて怖いんだよね」
そう言う桃子は、まだヒックヒックと笑っている。
「わかる。メンタリストの方が向いてるんじゃないあの人」
ケラケラと二人の笑い声が響いた。
苺花ちゃんの病名とはいったい何だろう。
苺花ちゃんが犯罪者っぽい顔?
そんなことはない。いつも明るく笑顔が素敵な子だ。
苺花ちゃんが仮に病気だったとして、どうしてこの人たちは苺花ちゃんをバカにするかのように笑っているのだろう。笑える状況ではないはずだ。事故に巻き込まれてしまった子をバカにするなんて、なんてひどい人たちだ。
二人はずっとクスクスと笑い合っていた。
「全部バレてるのに未だに嘘ついてるの、面白くて仕方ないよねー。それこそ、病気って感じするわー」
明日美がそう言うと、また二人は笑い出した。
嘘?
苺花ちゃんが嘘?
そういう病気?
「どうして?」
ぼくは静かなトイレの中で一人呟いた。




