裏切り
「私は高校卒業後、飲食店に就職し、その一年後から一人暮らしを始めました。それから茉梨とは会う機会がぐんと減りました。もちろん年に数回は会っていましたが、お互いお盆休みや年末は恋人と過ごすようになりました」
マリちゃんの恋人はぼく、ということは間違いないだろう。
しかし茉那さんに恋人がいたなんて衝撃だ。ぼくまで悪者になってしまうじゃないか。
「大人になったんだから、別々に暮らすなんて当たり前なんです。そんなことわかっているんです。でも、大きくなるまで同じものを食べて、同じ服を着て、同じ色の布団で寝て生活してきたんです。それがガラリと変わって、毎日違う家に帰って、違うテレビを見て過ごすようになりました。そのギャップによって寂しさが倍になったんです」
だから許してくれ、とでも言うのだろうか。
「茉梨が大学に入ってから好きだったものを、私はほとんど知らないままです。茉梨が過ごしていた大学の空気、生活していた家の空気、寝ていた布団の匂い。何でもいいから残り香がほしかったんです」
『知り合いの死に触れたことがない』と言っていたことも嘘だったのか。
体の力が抜けていく。記憶に丸付けをしてくれたマリちゃんが、すべて茉那さんによって作られた嘘だったなんて信じたくない。
茉那さんが小さい子が痛いのを我慢するような泣きそうな顔をする。
泣きたいのはこっちだ。そう言いたいところだが、なんとかこらえる。今は、真実を知るべきだ。
「ぼくと一緒に住もうって提案したのはあなたですよね。どうしてそんなことをしたんですか」
ぼくには理解しきれない。どんな理由があろうとも、嘘をつくことは許されることではない。
怒りが湧いてくるけれど、まだ心のうちに留められている。感情を自身でコントロールできていた。
「なんでもいいから、茉梨がほしかったんです」
「記憶喪失のぼくと一緒にいて、何の意味があったんですか」
「口癖でも、よく食べていたものでも、床に落ちている髪の毛の一本でも、使っていたシャンプーの種類でもいい。あなたが持っている茉梨がほしかったんです」
茉那さんの目は、狂っていた。欲のためになんでもする犯罪者のように見えた。
「茉梨の死後、私は茉梨の通っていた大学へ行きました。ただ、茉梨のことが一つでも多く知りたかったからです。大学へ行って、周りを眺めながら歩いていると一人の男の子に、『逸の彼女ですか?』と話しかけられました」
こたの話と一致している。
「私はそこで考えました。茉梨のフリをしてあなたに近づけば、茉梨の情報を少しでも得られる。と。それだけを考えてあなたに近づきました」
こんな突拍子もないことを考える人間が、実在するなんて。
驚きで誰も何も口にできなかった。
「それからは、実家に帰って茉梨の部屋にあったものを漁り、茉梨が持っていたスマホを盗んで、中身を見ました。逸くんのおうちは、一度茉梨を車で送ったことがあったので知っていました。茉梨から逸くんとの出会いや告白した話を聞いていたので、私が話したことと真実に相違はないはいはずです。でも……」
すらすら話していた最中、茉那さんの言葉が行き詰った。
砂嵐になったテレビに、何かが映るのを待っているような時間が部屋に流れる。
茉那さんは、鼻水を何度か啜ってから話し始めた。
「何度も嘘をつくたびに。『マリ』を語る自分を謙遜するたびに。優しかったあの子が消えていくんです。あの子は生理痛だと言い訳をして他人に八つ当たりをするような子じゃありません」
進んで行ったはずのゲームが振り出しに戻されたときのような喪失感が生まれる。
それじゃあ、いったいマリちゃんとぼくはどうしてケンカをしたのだろう。またすべてゼロから考えなくちゃいけない。
「逸くんが必死に茉梨のことを思い出そうとするたびに、もう二度と茉梨は逸くんに好きだと言われないし、言うことができない。綺麗な空を見るたびに、茉梨はもうこの空の色すら見られない。そう思うと自分のやってしまったことへの罪悪感がとてつもなく大きなものになりました」
ぼくの中で、落ちている石を蹴っ飛ばしたくなるような気持ちが生まれた。
もう全部、どうでもいいんじゃないだろうか。
だってマリちゃんはもういない。今更思い出したところで、どうにもならない。
ケンカの原因がぼくにあったとして、謝ることもできない。
今更後悔を思い出すようなことをするなんてバカらしい。
「逸くんが茉梨への恋心を思い出したとき、私への恋心だと勘違いしたらどうしょう、そんな不安で毎日眠れませんでした」
こんなひどい人間を好きになるわけがないだろう。心の中でそう呟く。
平気で嘘をつく人間が、ぼくは大嫌いだ。
「さっき彼女の顔を見たとき、これ以上は裏切れないと思いました。裏切っているものが多すぎて抱えきれないと思いました」
彼女、と言いながら茉那さんは苺花ちゃんを見た。
茉那さんが裏切ったもの。
ぼく。死んでしまったマリちゃん。被害者である苺花ちゃん。そして茉那さん自身の彼氏。
ひどすぎる。自分の欲求をかなえるために、他人をもてあそぶなんてひどすぎる。
「最低だね。だって、茉那さん。ぼくが苺花ちゃんの記憶が戻ったことを言わなかったら、これからも嘘をつくつもりだったでしょ」
「そんなことない」
震えた声で即答されるも、何の説得力もない。苺花ちゃんが不憫で仕方ない。だって目の前に、飛び降りという自分勝手な行動で自分を傷つけた人と同じ顔が現れたのだから、怖くて仕方ないはずだ。
横目で苺花ちゃんを見る。苺花ちゃんは泣く様子も怒る様子もない。やっぱり心の綺麗な子だ。ぼくだったら今すぐ茉那さんに殴りかかっているかもしれない。自分が被害にあったことをなかったことみたいにされたら、怒るに決まっている。だけど苺花ちゃんは、目の前の茉那さんに向ける怒りを必死にこらえているように見えた。
苺花ちゃんの過去を知っているぼくが、代わりにぼくが怒らないと。
そう思った。
「茉那さん、おかしいよ。いくら家族が亡くなったからって、やっていいことと悪いことがある。茉那さんの行動は許されるものじゃないよ。ぼくは許さない」
茉那さんを今すぐ殴りたい。でもそんなことをしたら犯罪になる。だから今は代わりにこの言葉を言っておいた。
「はい。本当にごめんなさい」
茉那さんは机におでこがくっつきそうなくらい深々と頭を下げた。
まぁ、そんなもので、ぼくのもてあそばれた心が軽くなるわけでもないのだけれど。
苺花ちゃんはどこかぼっと一点を見つめて現実を処理している様子で、古川先生は下をうつむいていた。古川先生はあくまでも自分は第三者、そこにいるだけという感じだ。
ぼくは茉那さんを無視し、苺花ちゃんの方を向いた。
「ごめんね苺花ちゃん。巻き込んじゃって」
「いいえ。逸さんは新しい事実が発覚してよかったですね」
そう笑った苺花ちゃんが机の下で太ももをつねっているのが見えた。怒りたいだろうに感情を必死にこらえているのが目に見えて、ぼくの方が泣きそうになった。
「そういえば、苺花さんはどうしてこの場にいたのですか?」
古川先生が苺花ちゃんを手で示しているのを見て、古川先生に言わなくてはならないことがあるのを思い出した。
「あ! そうだ先生! でも、苺花ちゃんは記憶を取り戻したみたいですよ」
そう告げると、古川先生は驚きの表情を見せた。
「そうなんですか。苺花さん」
「はい」
「よかったですね。何か大切なことを思い出せましたか?」
「いいえ、みなさんが言っていたことと私の記憶とは何の違いもありませんでした」
「そうですか」
苺花ちゃんが、ぼくみたいに他人に振り回されていなくてよかった。そう思えるほどの余裕があった。
「よかったね、苺花ちゃん。思い出せたときって、すっきりするよね」
ぼくがそう言うと苺花ちゃんははにかんだ。少しでも元気になってくれたみたいでよかった。
話はここで終わりとなり、それぞれが立ち上がった。ぼくも立ち上がって大きく伸びをした。茉那さんの罪を許すわけではないけれど、事実は明らかになった。
これからどうしよう。これまで通り茉那さんと一緒に住むわけにはいかない。ただの他人だ。
古川先生が立ち上がりすぐにドアを全開にする。茉那さんはなかなか動かない。
「逸くん。また二週間後に診察の予約を取りましたか?」
ドアを押さえている古川先生に対して頷く。さっきの立花先生の診察で、再来週の同じ時間に予約を取ったばかりだ。
「ではきっと、その日が最後の通院になるはずです。顔を見せに来る程度の気持ちでいいので、またお話をしましょう。それでは、苺花さんは僕が部屋まで送ります」
古川先生は、茉那さんに見向きもせず松葉杖を使って立ち上がった苺花ちゃんと一緒に外へ出て行った。ぼくも一緒にその後ろをついて行く。そしてさらにぼくの後ろを、茉那さんがついてきた。まるでやつれたおばあさんのような表情をしている。
ぼくは、それじゃあ、と古川先生にお辞儀をして苺花ちゃんにも別れを告げた。
その日、すぐに茉那さんはぼくの家に置いてある荷物をまとめて、ぼくの家から出て行った。




