苺花の記憶
診察を終えてから、唯一の理解者である、苺花ちゃんの病室へ行った。
「あっ」
苺花ちゃんにマンションの写真を見せると、苺花ちゃんは変な声を出してからポカンと口を開けて固まってしまった。呼吸をしていないように見えた。
苺花ちゃんは思い出せたことの喜びを噛みしめているのか、二十秒ほど動かない。
その様子を見て、こみあげてくる気持ちを何とか抑えながら、心の中では「やったぁ」と喜んだ。
「思い出せてよかったね!」
ぼくが苺花ちゃんの肩をつかむと、苺花ちゃんはピクリと動きだした。
「思い出しました……。このマンション。私の父方の祖母が一人で住んでいるんです。私が事故に遭う前日の夜、お母さんが出張だったので私は家に一人でした。鳴った電話に出ると、父方の祖母からの電話でした」
紙芝居を読むようなスピードで苺花ちゃんは語る。
「おばあちゃんは電話越しに言いました。『死ぬ前に一度会いたい』と」
声が一滴の水滴のように空間に落ちる。ぽつんと落ちるとともに、静けさが生まれてやけに緊張した。
少しの物音も出さないように、ぼくは細心の注意を払った。
「両親が離婚してお父さんとの関係が切れてから、私はずっとおばあちゃんに会えませんでした。おばあちゃんが言うには、おばあちゃんは定期的に私の自宅の方に私に会いたいと電話をかけていたみたいですが、お母さんに断固として拒否されていたみたいです。そんな中、おばあちゃんは私に言いました。『今でも夢に見るのは、おばあちゃんより小さい苺花ちゃんなの』と」
苺花ちゃんは眉間にしわを寄せた。泣くのを我慢している子供みたいだ。その表情を見て、ぼくの顔にも力が入った。
「私は何も考えず家を出ていました。家を出て新幹線に乗ったことも、新幹線で見た景色も覚えているけど、そのときに考えていたことは何も思い出せません。多分、本当に何も考えていなかったんだと思います」
話の結末を知っている身からすると、とても息が詰まる。
「駅からおばあちゃんのマンションに着いて、そこからは逸さんの知っているとおりです」
苺花ちゃんの眉間のしわが濃くなる。人が落ちてきた場面を思い出しているのだろう。
おばあちゃんの気持ちを考えても、苺花ちゃんの気持ちを考えても、胸が痛くなる話だ。
「おばあちゃんは苺花ちゃんが事故に遭ったこと、知ってるの?」
「どうでしょう? もうほとんど外に出ることがないと言っていたので、知らないと思います。私は、知らないでいてほしいなと思いますけど」
切ない顔で苺花ちゃんが笑う。おばあちゃんが何も悪いことをしていないにしろ、会いに来た孫が自分の住むマンションの下で事故に遭ったと知れば、心苦しくなるだろう。苺花ちゃんの気持ちが痛いほど伝わってくるけれど、ぼくとしてはなんともやるせない気持ちになる。おばあちゃんに会いに行こうとした苺花ちゃんの気持ちが、シャボン玉のように簡単に消えてしまったと思うと、なんともやるせない。でも、苺花ちゃんがそのシャボン玉が弾けてしまったという事実を思い出せてよかったとも思った。
「何より、苺花ちゃんが思い出せてよかった」
安堵のため息を漏らしながら告げると、苺花ちゃんが深く頷いた。
「あと、苺花ちゃんが生きていて本当によかった」
ぼくはよかったね、よかったね、と繰り返し呟いた。
あんまりしんみりした空気になるのも違うなと思い、ぼくの話を持ち出した。タピオカを飲んだこと。マリちゃんと一日の空の色を全部見たこと。大学の教室に入ると、不思議といろいろな知識が蘇って来たこと、といった楽しかった出来事を次々と語った。
今度は苺花ちゃんが、よかった、よかったとぼくに言ってくれた。
「今度はお酒を飲むんだ」
さっきの診察で立花先生に、ほどほどの量を誰かと一緒に飲むならいいよ、と言われたことを話す。
「いいですね。私も飲んでみたいですお酒」
「苺花ちゃんはまだ未成年だから、大人になってからだね」
少しからかうように言うと、苺花ちゃんは、いいなぁとぼくをうらやむように見た。やっぱり年下の高校生なんだなと思わせる、子供っぽい目つきだ。
いろいろたわいもない話をしていると、苺花ちゃんは何かを思い出したかのように、ハッと体を動かした。
「ちゃんと思い出したこと、報告しなくちゃ」
ぼくもハッとした。
そうだ。ぼくもさっき、古川先生に同じように言われた。きっと苺花ちゃんもぼくと同じように言われているのだろう。
苺花ちゃんがすぐに担当の立花先生とカウンセラーである古川さんに記憶を取り戻せたことを報告しに行くことになったので、ぼくはそれに付き添う流れで帰ることにした。
苺花ちゃんの話を聞いた立花先生は、本当によかった、と感慨深そうにしていた。
古川先生のところにも行ってみたが、さっきまでいたカウンセリングルームいなくて外出中だった。まぁ急がなくてもいいか、ということとなり、苺花ちゃんと別れようとした。
しかし、苺花ちゃんはぼくについてきた。
「久しぶりに外の空気吸いたいので、ちょっとだけ一緒に行っていいですか?」
外に出られない息苦しさを知っているので、もちろんいいよと承諾した。
スマホでマリちゃんに『終わったよ』と連絡をする。苺花ちゃんと一緒にいることを伝えるか迷ったが、特に言う必要性を感じなかったのでそのことは連絡しなかった。マリちゃんからは、すぐに『正面入り口で待ってる』と返事が来た。
苺花ちゃんは松葉杖を使って歩いていく。ゆっくり歩いた方がいいかと思ったが、苺花ちゃんは器用に杖を動かして、かなり早いスピードでついてきた。さすがに松葉杖を使いこなせるようになっているようだ。
ぼくは速足で苺花ちゃんの隣を歩いた。
「前から思ってたんですけど、何で古川『先生』って呼んでるんですか? 先生じゃないのに」
歩きながら、意識してなかったことを苺花ちゃんに指摘される。言われてみれば、確かに古川先生はただのカウンセラーだ。
「なんかあの人。人生の先生って感じしない? だから多分、無意識にそう呼んでたんだと思う。古川先生は、立花先生よりも、学校の先生よりも、何か大事なものを教えてくれているような気がするんだよね。今日も死別について詳しく教えてくれたんだ。・・・・・・苺花ちゃんはさ、大切な人と死別することについてどう思う?」
一呼吸おいてから、苺花ちゃんにも古川先生にした質問と同じことを尋ねた。
苺花ちゃんが立ち止まり、うーんとうなりながらエレベーターのボタンを押す。死について考えている様子だ。
「古川先生は、体内にある大事な臓器を一つ奪われたみたいな気持ちになった、って言ってたよ」
臓器を奪われる、ってどんな気持ちだろう。古川先生の言葉を反芻しながらエレベーターを待つ。
古川先生の言っていたことは、到底想像できない。これは、ぼくが記憶喪失であるかどうかは関係ないだろう。この感覚を理解できる人間の方が少ないはずだ。
エレベーターが、ポーンと音を立てながら開く。ぼくらは誰も乗っていないエレベーターに乗り込んだ。
『ドアが閉まります』とアナウンスが聞こえてくる。
「押し花みたいじゃないですか? 死別って」
エレベーターが下に下がると同時に苺花ちゃんが呟いた。
押し花、がわからないのですぐにスマホで調べた。自然の花や葉を押し、平面状に乾燥させて作った素 材のことを言うらしい。栞や絵はがきに使われているみたいだ。
検索して出てきた画像は、色鮮やかなものばかり。まるで水彩画みたいだ。
綺麗だなと思いながら、疑問が浮かんだ。
どうして苺花ちゃんは死別を押し花みたいだと思うのだろうか。死というものはこんなに鮮やかなイメージではないはずだ。
一階に着き、松葉杖でひょこひょこと歩き出す苺花ちゃんについていく。
「どうして押し花みたいだって思うの?」
「死んでいった人を思い出したとき、どうしても頭で美化されると思うんです。その人とのいい思い出だけが頭の中で抽出されて、その人の一番綺麗だった瞬間だけを覚えていると思うから。だから、花が枯れていく様子を死って思うんじゃなくて、死は永遠に綺麗なまま残る押し花と同じだと私は思います。押し花にしてしまえば、二度と元の花に戻れないから」
意味がわからない。首を捻り、もっとわかりやすい言葉を待つ。
「知っている花だと押し花も綺麗に見えるじゃないですか。でも、知らない花だと、こんな平面の形に収めてしまうなんてかわいそう、と思う人がいるはずです。潰してしまうなんてかわいそう、そのまま姿で育ってほしかったのに、って思う人が必ずいると思います」
頷くまで理解はできないけど、言いたいことの形は見えてきた。それと同時に、出入り口の近くにいるマリちゃんの姿が見えた。
「それと同じです」
苺花ちゃんは、ぼくより年下のはずなのにぼくより、長く濃い人生を送っているみたいに見える。
「苺花ちゃんは実際に経験したことあるの? 死別」
三十メートルほど先にいるこちらを見ているマリちゃんに手を振りながら、苺花ちゃんに尋ねる。
「ないですよ。ただ、ドラマチックに人が死んでいく小説とか映画とかを見てそう思っただけです」
「そうなんだ。いろいろな意見があって面白いね」
「彼女さんにも聞いたんですか?」
「うん。聞いたよ。確か、マリちゃんは死別を、『この世界の人間に後悔を残して、あの世に行くこと』って言っていた気がする」
マリちゃんの想像する死別と、ぼくの想像する死別は同じだ。こういった価値観が同じことからぼくたちは付き合っているのかもしれない。
ぼくを見つけたマリちゃんがこちらに駆け寄ってくる。
「逸くん、お疲れ様。こちらの方は?」
マリちゃんは苺花ちゃんを手で指し示した。
「話していた子だよ。苺花ちゃん」
マリちゃんに苺花ちゃんを紹介する。
「あぁ、あのきおくそう――」
「それでね、苺花ちゃんね、」
マリちゃんが何か言おうとしたが、マリちゃんの声とぼくの声が被った。しまったと思い話を止める。しかしマリちゃん同じように思ったのか、話をやめて「何?」と聞いてきたので、ぼくは再び口を開いた。
「苺花ちゃん、記憶が戻ったんだよ」
そう言った瞬間、ぼくたちを取り囲む空気の温度が低くなったのを感じた。
入り口の自動ドアが開いたからだろうか。
マリちゃんと一緒に帰ろうかと、苺花ちゃんに別れを告げようと手を上げた。しかしマリちゃんが急に、ヒッと声をひきつらせた。
「ごめんなさい・・・・・・」
マリちゃんは泣きそうな顔で、急にその場に崩れ落ちた。
状況がつかめないまま、泣きそうになっているマリちゃんをどうにかしようとポケットに手を突っ込んだがハンカチもティッシュもない。ぼくはただ、あたふたしていた。
マリちゃんは今、何に対して謝ったのだろう。わからない。少なくとも、ぼくに謝ったのではない。そのことしか、わからなかった。
「どういうこと」と言うと、マリちゃんはやっとこっちを見た。と思ったが、マリちゃんはぼくを見ているのではなく、ぼくの背後にある何かを見ているかのような、うつろな目をしていた。
「逸くん、ごめんね。私……」
マリちゃんの声が海の波のようにゆらゆらしている。マリちゃんは額を抑え、しばらく停止してから、言葉を発した。




