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眠っている記憶

 

 その引っかかりに自分で気付き始めた。いや、今まで気付かないフリをしていたのかもしれない。

 

 『マリちゃんと何日も一緒に生活しても、未だにぼくはマリちゃんのことを何一つ思い出せていない』

 

 思い出せるのはいつも自分のこと。

 マリちゃんは自分のこともたくさん話してくれるけれど、ぼく自身の力でマリちゃんのことを明確に思い出したことはない。


 勉強の内容も友達の名前も担任の先生の名前も、小学校の記憶は思い出せるものばかりなのに、マリちゃんと出会った頃のことは何一つ思い出せない。


 マリちゃんと手を繋いだときに思い出せたのは、他人の手の温かみと自分の手汗を相手に知られることに対する恥ずかしさだけ。マリちゃんの手の感触は記憶になかったし、マリちゃんに対する恋心なんてものはわからないままだ。それに、思い出した記憶の先で繋がっている相手が、マリちゃんかどうかも未だにわからない。


 昔のぼくは、マリちゃんと手を繋いでドキドキしていたのだろうか。

 いったい、ドキドキするとはどのような心の動きだろうか。

 

 一番下まで行き、これ以上メモをスクロールできなくなったとき、ぼくは一つの答えに辿り着いてしまった。


  ぼくはマリちゃんのことを、すべて忘れている?

 

 思い出したことをまとめているメモの中に、マリちゃんに関する情報は一つもなかった。

 

 土砂降りの雨が地面にぶつかるくらいの速さで鼓動が鳴っていた。そして、手のひらが手汗でぐちゃぐちゃになった。ひどく息が荒れて、呼吸が上手く出来なくなった。

 

 ぼくがマリちゃんを忘れたのはどうして?

 忘れたかったから? 

 恋人なのに?

 

 毛糸がぐちゃぐちゃに絡み合うように、頭の中が散らばっていく。


「古川先生」

「なんですか」

「忘れたいと思って忘れることはできるんですか」

「どういう意味です?」

「だから、忘れたいと思って記憶喪失になるんです」

「無理でしょう」


 何を言っているんだ、というような目で見られる。


 自分でもバカバカしいことを聞いているのはわかる。ぼくは髪の毛をかきむしってから、顔の周りを髪の毛でカーテンのように覆った。


 正直もう、病院に来る意味はあまりない気がする。頭なんてたんこぶ程度のケガだったし、記憶も順調に戻ってきている。今大学に行って困っていることなんて一つもない。時間をかけてマリちゃんのことを思い出す、と決めてしまえば、ぼくとマリちゃんが一緒にいる意味がなくなってくる。だって、好き同士でもない人間が毎日一緒にいるなんておかしい。

 

 これ以上、ぼくの人生にマリちゃんを縛り付けておいてもいいことなんてあるのだろうか。

 

 黙って顔を伏せていると、古川先生が咳払いをした。


「ただ一つ、僕から言えることは、君が『夜に横断歩道で頭を打ち付けていた』ことの理由を思い出せば、君の不安は解消されるかもしれません」

 古川先生はぼくの目を静観していた。


「人の行動には必ず理由があります。しかし、その理由と行動はひとパターンではありません。人間の数だけ存在します。つまり無数に無数の組み合わせが存在するのです」


 初めて病院に来た日のことを思い出す。


 ひとしきり動いた後、看護師の田中さんに今の気持ちを聞かれた。

 ぼくはあのとき、怖かった。だからみんなを叩いた。何が本当で、何が嘘かわからなかった。わからないということが、とてつもなく怖かった。

 

 わからないのが怖かった。それが、ぼくが暴れた理由だ。

 

 外で遊んだから、手を洗う。

 風邪を予防するために、手を洗う。

 手を冷やしたいから、手を洗う。

 手を洗うという一つの行動だけでも、こんなにも理由がある。


「どうして自分で頭を地面にぶつけていたのか。その理由が大きなカギになると僕は思っています。『忘れたいことがあったから、頭部の損傷を繰り返して忘れようとした』ということもかなり低い確率ですが、ありえない話ではありません。それなら、君がさっき言っていた、忘れたいと思って記憶喪失になることができます。しかし、そうなると君が忘れていることはとてつもなく辛いことなのかもしれません。自分で言っておいてなんですが、無理やり思い出そうとするのはやめておいた方がいいと思います」


 古川先生は、申し訳なさそうな顔をする。でも古川先生の言葉は、ぼくにとって助言だった。

 思い出せない方が、辛いことをぼくは知っている。


「思い出せるよう考えてみます。マリちゃんにも聞いてみます」


 姿形の見えない何かが眠っているという不安が、とても怖いものだとぼくは知っている。


 背筋を伸ばし、古川先生の目をじっと見る。古川先生は人形のように縦に揺れながら頷いた。


「わかりました。でも、もし仮に思い出したときは、絶対に誰かに話してください。もしくはノートに書き留めて置くなど、感情をちゃんと表に出してください。僕じゃなくてもいいです。彼女さんに話しにくいことだったら他の人に。ほとんど話したことのない友達の方がむしろ話しやすいこともあります。とにかく一人で留めて置かず、発散させてください。そしてぼくに、『思い出した』ということだけでいいので絶対に報告してください」


「わかりました」

 力強く頷くと、古川先生はペンを握り、ものすごいスピードで何かを書き始めた。もう終わりの時間が近づいているから、今日のぼくの記録を書いているのだろう。

 あまりまじまじと見ないようにしながら、乱れてしまった髪と心を整える。

 

 ドキドキ、と胸が鳴っている。

 ぼくの頭の中で何が眠っているのか、わからない。もしかしたらものすごく恐ろしいものなのかもしれない。

 あまりにも何も予想できない。わからない。

 わからないけど、不思議と今は怖くない。怖いより、楽しみが勝ってしまっている。恐ろしいものだとすでにわかっているなら、そこまで怖くない。むしろ恐ろしい記憶を見る楽しさを欲している自分がいる。

 

 ぼくは誰にも経験できない、物語の主人公のような体験をしているんだ。

 

 軽い足取りで、また今度と古川先生に挨拶をしてから、カウンセリングルームを出て診察へと向かった。



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