父の言葉
「これが、高校生のときの逸くん。逸くんの最後の大会。私も見に行ったんだよ」
マリちゃんが見せてくれるスマホの画面の中には、体育館でバトミントンをしているぼくがいた。服の首元を持ち上げて額の汗をぬぐっている写真や、アキレス腱を伸ばしている写真、中腰になって相手の様子をうかがっている写真など、ぼくの写真がマリちゃんのスマホの中にはたくさんあった。
マリちゃんが写真をスワイプする。
「これは大学の文化祭だね。逸くん、友達と一緒に店を出していたんだよ」
写真の中のぼくは、お客さんらしき人に飲み物を渡していた。その飲み物の中には、黒くて丸いあやしい物体が入っている。
「何これ。ぼく、怖いもの売ってたの?」
「怖いものじゃないよ。これはタピオカ。一時すごく流行ったんだよ」
マリちゃんが言うに、どうやらあやしい物体は『タピオカ』という名前らしい。今朝看護師の人に聞いたけれど、ぼくが知らない間に、日本中の経済に影響を与えるほど危険なウイルスが大流行していたこともあるらしい。
他にもぼくが知らない流行りが生まれているのだろうか。
「退院したらタピオカ、一緒に飲みに行こうか」
マリちゃんがニッと笑う。ぼくも笑って首をたてに振った。
次にマリちゃんが写真をスクロールすると、どこかの大きな建物の前で白い花束を持っているマリちゃんだけが映った写真が出てきた。マリちゃんはそれを飛ばそうとしたけれど、ぼくはその手をつかんで止めた。
ぼくはぼくだけのことが知りたいのではない。マリちゃんのことも知りたいのだ。
「これは何?」
「これ? これは私の誕生日のときの写真だね」
マリちゃんは恥ずかしさからか早口になる。
写真の詳細のところには、五月二十七日と日付がのっていた。
「これ、誰が撮ったの?」
マリちゃんのスマホにマリちゃんの全身が映っているということは、誰かに撮ってもらったというわけだ。
「逸くんだよ」
「この花をあげたのもぼく?」
「そうだね」
「この花、今も持ってる?」
「もう枯れちゃったよ」
「そっか」
「生花はね、約一週間で枯れちゃうんだよ」
そっか。花は枯れてなくなっちゃうのか。
どうしてぼくは花なんかあげたんだろう。
形残るものの方が、覚えていてもらえるのに。
今のぼくならきっと、形に残るアクセサリーを渡すだろう。
マリちゃんは恥ずかしいからか、誕生日の記録である写真を次々と飛ばしていった。顔を赤く染めて急いでスクロールしていくものだから、ぼくはそれを見守っていた。
誕生日の写真が過ぎると、映画館のチケットとポップコーンを映した写真、花火の写真、と次々と写真が出てきた。
「この映画は一緒に見たんだよ。あとこれはね、今年やっと開催された花火大会の写真だよ。去年は開催されなかったんだ。あとこれはね、一緒に行った京都の水族館の写真でしょ。あとこれは、飲み会の写真だね。これ、逸くんが送ってきたんじゃなかったっけ」
次々と写真を見ていく中で、マリちゃんは大人数でお酒を囲んで笑っている写真で指を止めた。写真の中にはたくさんの男の人に囲まれたぼくがいた。マリちゃんの姿はない。
黄色い飲み物を持っている画面の笑っているぼくを見つめる。
「ぼくは何を飲んでるの? おいしいやつ?」
「これはハイボールだね」
テレビのCMで聞いたことがあるような名前だ。ハイボール。なんだか響きがカッコいい。
「お酒っておいしい?」
ぼくはお酒を飲んだことがあるのだろうけど、お酒の味を覚えていないから、全く想像がつかない。
甘いのか、苦いのか、すっぱいのか、辛いのか。
「うーん、逸くんがよく飲んでいたハイボールはちょっと苦いかな。でも他の人が持っているチューハイは、ジュースみたいに甘いよ。お酒も退院したら一緒に飲んでみよっか」
「うん!」
ぼくの心の中でワクワクが風船のようにふくらむ。
タピオカの味。
お酒の味。
他にももっといろんなものが知りたい。
人に花をあげるとどんな気持ちになるのか。
マリちゃんと見た映画の内容はどんなものだったのか。
明け方の空はどんな色をしているのか。
全部知りたい。そのためにはこの病院から出て、自由に動ける時間がほしい。
マリちゃんが次の写真を見ようとしたとき、「お母さんとお父さんが来たよ」と看護師さんから伝言が入った。マリちゃんは笑っていた顔をこわばらせ、緊張した面持ちでぴんと背筋を伸ばしはじめた。
「お母さん、きっとわかってくれるよ。お父さんも話せばわかってくれる」
マリちゃんの緊張をほぐすためそう伝えると、マリちゃんは小さく揺れるようにうなずいた。
お母さんとお父さんが外から入ってくる。マリちゃんは丸椅子から立ち上がり、二人に向かって一礼をした。まるで、お客さんを出迎えるホテルマンみたいだ。
マリちゃんが何かを言おうと口を開ける。しかし、マリちゃんがしゃべるより先に、お母さんがマリちゃんに駆け寄った。
「あなた逸の彼女のマリさんよね? 初めまして。逸の母です」
「はい。初めまして。お邪魔しております」
マリちゃんは、ぼくのお母さんとお父さんに向かってお辞儀を繰り返した。それからマリちゃんは、昨日ここに来たことと、ぼくとのこれまでの関係を簡単に説明した。お母さんもお父さんも真剣にマリちゃんの話を聞いていた。
「なら逸とは知り合って長いのね。知らなかったわ、逸に年上のこんなお綺麗な彼女がいるなんて」
お母さんはマリちゃんに好印象のようだ。お父さんも何も言わずうなずいている。
よし。これならぼくたちのお願いも許可してもらえるはずだ。
「あのさ、お母さん、お父さん」
話を途中で遮り、ぼくはお母さんとお父さんに問いかけた。そして作戦実行、と合図をするようにマリちゃんの目を見た。マリちゃんはそんなぼくを見て静かにうなずいた。
大きく息を吸い込んで、深呼吸をする。
一息置いてから、話を始めた。
「ここを退院して、前みたいにマリちゃんと一緒に住みたいんだ。ダメかな?」
頭を下げて、お母さんたちにお願いをする。
「私からも、お願いします」
マリちゃんがぼくの隣で頭を下げる。
数秒の沈黙が続き、お母さんのカバンからスマホのバイブ音が鳴ったのが聞こえた。
お母さんとお父さん、二人の様子を見るため頭を上げる。隣のマリちゃんはまだ頭を下げていた。
「いやいや、もともと一緒に住んでいたの?」
お母さんが大きく見開いた目でぼくを見る。でもすぐにぼくに聞いたのが間違いだと気付いたのか、お母さんの声に反応して頭を上げたマリちゃんを見た。
「いや、一緒に住んでいたというのは語弊があります。定期的に私は、逸くんの住んでいるマンションに泊まりに行かせてもらっていました。私は実家に住んでおりますので、ずっと一緒にいたわけではありません。でも、逸くんを退院させてもいいと言ってくださるのなら、私は逸くんの記憶障害が治るまで、毎日逸くんと一緒にいるつもりでいます。どうか許してくださりませんか」
マリちゃんが頭を深々と下げる。ぼくもすぐさま加勢した。
「ぼくも! ぼくもマリちゃんと住みたいんだ。退院して外へ出て大学へ行って、今世間で流行っているいろいろなものに触れて、マリちゃんと一緒にぼくが見ていた世界を見たい。だからお願い!」
困ったような顔をしているお母さんを見る。それから、まだ処理中で動かないお父さんを横目で見る。でもぼくは、お父さんのことは半分諦めていたから、あまり気にならなかった。頑固なお父さんだから、きっとわかってくれない。
せめて。せめてお母さんだけでも。
目をつむってマリちゃんと同じように頭を下げた。お願い、お願いと念じながら白い布団を見る。
「許可できません」
しかしぼくたちの願いは届かず、お母さんのか細く、でもどこか真のある声が頭の上から降ってきた。揺れているけれど、絶対に崩れることはないとわかるような声。
ぼくたちのお願いはポッキリと折られてしまった。
やっぱりダメか。
ため息をつきたい気持ちになった。
「二人の気持ちはわかりました。でもあなたに逸を任せることはできません。あなたが逸の恋人だと言っても、私はあなたのことをよく知りません。私たちだけではどうにもできないから、逸はここにいるのです。それをただの一般人の女の子がどうこうしようなんて容易に言わないでもらいたい」
これまでぼくの言うことを何でも聞いてくれたお母さんに、初めて拒否された。
でもそのことに対して強いいらだちは覚えなかった。これがお母さんの愛情だ、と知っているからだ。
マリちゃんはお母さんに対して、はい、はいと返事を繰り返す。昨日まであったマリちゃんの目にある強い光が、だんだん淡くなっているような気がした。マリちゃんの背筋はどんどん丸くなっていく。
お母さんでもダメならもう無理か。
お母さんがぼくを心配してくれている気持ちはよくわかる。田中さんも、お母さんと同じようなことを言っていた。みんなぼくのために、ここにいなさいと言ってくれている。わかっている。きっとマリちゃんもぼくと同じようにそれをわかっているから、何にも言えない。
ぼくたちの欲求をかなえるためには、ちゃんとした理由がないといけない。
もっとちゃんとした理由。
もっとちゃんとした理由って何だ。
「逸がそこまで言うなら、退院させてもいいんじゃないか」
もう何も言い返すことができない。そう思っていたところ、冷たい声が降ってきた。一瞬、誰の声かわからなかった。
「お父さん。何を言っているの。この子たちまだ学生よ。まだ子供なのよ」
お母さんがあわてているのを見て、やっと現実が頭に入り体を動かすことができた。
許してくれないと思っていたお父さんが、簡単にうなずいてくれた。
隣にいるマリちゃんの背筋がゆっくりと伸びていく。
「この子たちはもう大人だぞ。前にも言ったが、お前はいつまで逸を子供扱いしているんだ。逸が彼女を信じて一緒にいたいと言っているんだから、その言葉に責任を持たせてやればいい」
「そんな簡単に言うけど、また逸が暴れだして、彼女に大ケガを負わせたらどうするつもりなの? 次こそ取り返しのつかないことになるかもしれないのよ」
「お前はいつまでそうやって、逸を自分の身の回りに置こうとするんだ。一人暮らしさせようと言ったときもそうだったな。お前は過保護すぎるんだよ」
「私が悪いって言いたいの?」
「そんなことは言っていない。いつまで逸と手をつないだままでいるんだと言っているんだ。手をつないで、手をつないで、最後には手を放してやるのが親の役目だろう」
お父さんは全く表情を変えない。感情が全く読めない。
「逸が自分でやりたいと言っているんだ。責任は逸がとる。逸一人でとりきれない責任は俺たちがとる。逸が再び俺たちと手をつなぎたいと言ってきたときには、俺たちは迷わず手を取る。でも、大人になった逸には、手を取る相手を選ぶ権利はあるんだ。逸。お前もリスクを背負っていること、わかっているんだろうな」
お父さんがお母さんに向けていた視線をぼくへと向ける。全身を震わせる鋭い目つきだ。ぼくは身をすくめながら黙って大きくたてにうなずいた。
すると、お父さんはマリちゃんへと視線を向けた。相変わらず鋭い目つきは変わっていない。
「そして、マリさん。逸の記憶が戻るまで一緒にいると言っていましたが、もし戻らないときはいつまで一緒にいるつもりですか。いつまでも自分を思い出せない男と、共に生きるつもりですか」
マリちゃんの表情が揺れ、瞬きが増える。お父さんの威圧感に対してか、今の質問に対してかはわからないが、明らかに動揺しているのがわかった。
「お父さん。そんなに重い質問しなくていいよ」
お父さんに手を伸ばし、マリちゃんに対する鋭い視線を遮ろうとする。
「お前は黙ってろ」
しかし一瞬で止められてしまった。
マリちゃんは明らかに動揺している。いつもハキハキと話しているのに、「えっ」「あっ」と、撃たれたときのような声を漏らしている。
しかしお父さんはひとりでに、フンと鼻息をついてから立ち上がった。
「まぁそれくらい考えているのか、って確認したかっただけです。詰めて悪かったね」
マリちゃんだけじゃなく、ぼくもお母さんも置いてけぼりだ。
「そうと決まれば早めに退院させよう」
お父さんは外へと出ていき、どこかへと消えていった。
お母さんはまだ座ったままポカンとしている。マリちゃんもぼくも、何も言わないまま黙っていた。
まさかお父さんが許可してくれるとは思っていなかった。お母さんは頼み込めばいけると思っていたけれど、頭の固いお父さんは難しいのではと思っていた。
気がぬけて、ベッドに背中を預けだらんとした姿勢になる。
退院したい。学校へ行きたい。いつも通りの生活が送りたい。
そう思っていたけれど、具体的に先が見えてくると、なんだか夢のような気分になって現実味が薄れてくる。
大学はどのくらい大きいのだろう。
ぼくはいつも何時に寝て、何時に起きているのだろう。
ぼくのおうちはどのくらいの大きさなのだろう。
これから起こりうる出来事が、何も想像できない。
「失礼します」
外から古川先生が入ってくる。ぼくたち三人の肩は、猫のようにビクンと跳ねた。
「カウンセリングのお時間ですが、お取込み中でした?」
「いえいえ。すぐに出ていきます。すみません」
家族以外の人が入ってきて、息を吹き返したお母さんがすぐに立ち上がる。そして、マリちゃんとお母さんは一緒に出ていくことになった。




