信用
「逸くんは嘘が嫌いですか」
「もちろん」
「どうしてですか」
「嘘をつくことは悪いことだからです」
なるほど、と古川先生はアゴを抑える。蛍光灯によって古川先生の指輪が幸せの象徴のように光る。
「逸くんは嘘をつかれて嫌な思いをしたことがあるのですか?」
脳というコップに泥水が注がれるかのように、過去の嫌な記憶が舞い込んでくる。
「そうですね、ありますよ。小学校一年生のときに、同じクラスの友達二人と遊ぶ約束をしたんですけど、その友達が全然来なくて、寒い中公園で待っていたことがあるんです。それも二時間も。家に帰ることも考えたんですけど、あとから友達が来たらどうしようかと悩んで、結局ずっと待っていたんです。そしたら日の暮れてきた頃、木の陰からいきなりぱっと友達が現れたんです。『お前いつまで待ってんだよ。ドッキリだよ』って、大きな声で笑われました。その瞬間、友達を心配していた気持ちとか、寒さと孤独に耐えていた気持ちがポキリと折られて、すっごく辛かった。その日、悲しく悲しくて、そのことを忘れたくて頭をわざと木にぶつけました。なんとか辛さから逃れたかったんですかね。すっごく痛くて、すぐやめたんでけどね・・・・・・。そのことがあってから、ずっと嘘が嫌いです」
鮮明に脳内に浮かぶ記憶。
あの頃はスマホなんて持っていなくて、約束した三時半からずっと待っていた。公園にある時計の針が進んで行くたびに、何かあったのかな、と不安な気持ちが膨らんでいった。そしてその大きな不安は、友達に笑われた瞬間弾け飛んだ。胸の中に風船が割れたときのような虚しさが残り、その衝撃で胸が痛んだのを覚えている。
ぼくは嘘をつかれたときの痛みをよく知っているから、絶対に他人に嘘はつかない。これだけは心に誓って言える。
「なるほど。そうなのですね。自分のことを覚えているのはよいことです。思考の癖だけでなく、行動の癖も逸くんの中に残っているかもしれません。お風呂に入ったときに初めに洗う部位、ご飯を出されたときに初めに食べるもの、といった自分の習慣や癖を探してみるのもいいかもしれませんね」
古川先生はそう言って、ぼくの話したエピソードを簡潔にメモをしていった。
病院でシャワーを入ったとき、一番に洗ったのは首。
ご飯を出されたときには一番にお米に口を付ける。
みそ汁は熱いから、食事の最後の冷めた頃に飲む。
あと、ぼくの癖は何だろう。自分ではよくわからない。
ぼんやりと考えていると、持久走が終わった後のような面持ちのお父さんが、外から帰ってきた。
「逸。明後日には退院だぞ! ・・・・・・あ、悪い。今日はカウンセリングの日なのか」
息を切らしたお父さんが古川先生にペコリと頭を下げ、そのまま外へ出ようとする。あまりにもお父さんの動きがスムーズなので、ぼくは何も言えず見ているだけだった。
「いえ、よかったらご一緒にどうぞ」
しかし古川先生がお父さんを呼び止めた。ぼくもお父さんも驚いて、二人で目を丸くする。
「え? 俺も一緒に?」
「ええ。親子で受けられる方も多くいらっしゃしますので・・・・・・。いいですよね、逸くん」
古川先生の言葉にノーとは言えない威圧感を感じたので、ぼくは首をたてにふった。
じゃあ、とお父さんは踵を返し丸椅子に座った。
「ちなみに退院とは?」
古川先生が不思議そうな目でお父さんを見る。
「ああ、こいつが家に戻って大学へ行きたいと言うので、退院させることにしました」
「一人で住むのですか?」
「いえ、恋人が一緒にいてくれるみたいで」
お父さんの言葉に古川先生はポカンと口を開けたまま放心している。お父さんはポリポリと後頭部を掻きながら、「立花先生にしこたま怒られましたよ」と恥ずかしげに笑った。
「お父さんは逸くんの彼女さんとお知り合いで?」
「いえ、今日初めてお会いしました」
「そんな方を信用できるのですか」
古川先生は信じられないと言いたげな顔をしている。
「いえ、まだ信用していません。でも、」
お父さんが、アゴでぼくを指す。
「こいつのことは信用しています」
こいつ、という言葉でお父さんはぼくのことを呼ぶけれど、ぼくの方は見てくれない。
古川先生は急に下を向いて、ふふふと笑い出した。悪役のような不気味な笑い方だ。
「そうですか・・・・・・。なるほど。なるほど。それで先ほど退院の話をされてきたのですか?」
「そうです。立花先生に何度も反対されましたが、押し切ってやりました」
お父さんの顔色がちょっとだけ変わる。見たことのある顔だ。ビールの一口目を飲んだ後のお父さんの顔だ。お父さんの頬の彩度が上がったように見える。
古川先生が、「立花先生は頑固ですからね」と小さな声でつぶやき、笑っていた顔を元のキリッとした顔に戻す。
「逸くん。お父さんの信用を裏切ることはしないように」
古川先生に釘を刺され、「はい」とうなずく。
古川先生を見ながら、視界の端にいる、汗を流したお父さんの姿を見た。
その姿に、お父さんの優しさのかけらを見つけた気がした。
お父さんはずっとぼくを信じていてくれた。子ども扱いせず、今のぼくを見守ってくれていた。
それが、ずっとぼくが見てきたお父さんなのか、ぼくがずっと知らなかったお父さんなのかわからないけれど、優しいぼくのお父さんだ。
ずっとどうして怒っているのだろうと思っていたけれど、考えてみればお父さんだけがいつもぼくのことを叱ってくれていた。危険な動物とかかわるときのように接するのではなく、まるで、愛するペットをしつけるかのようにぼくを叱ってくれていた。
「お父さん」
手元で布団をいじりながらお父さんに話しかける。
「なんだ」
「ありがとう。ぼく、絶対裏切らないから」
あぁ、と小さなお父さんの声が聞こえた。お父さんの表に見えないすずめの涙ほどの優しさのかけらが、ぼくの耳をじんわりと温かくした。




