第8話「月下に誓う復讐」
その言葉が、ワルツの間奏に溶けた。
——今夜、貴女を抱いてみたい。
セバスチャンの声には、嘘がなかった。セレーナの嘘を見抜く「青い瞳」が、それを残酷なまでに証明している。
心臓が跳ねた。手のひらが、手袋の中でかすかに汗ばむ。
——落ち着いて。この男は本音を弾丸にする。当たったと思われたら、次の弾が飛んでくる。
表情を崩さない。ステップも乱さない。ただ、わずかに目を細めただけだ。
「その言葉——貴方の魅力の前では、本気にする婦人もいらっしゃるでしょうね」
「それは、褒めていただいているのかな?」
セバスチャンが微笑む。穏やかで、完璧で、だからこそ油断ならない。
——このタイプには、道義の矛盾を突く。
そこに綻びが生まれるはず。
セレーナは息を整え、ワルツのテンポに合わせて言葉を放った。
「でも、婚約者のいる貴婦人に向けるには——少々、らしくありませんわ」
微笑みのまま、しかし声だけには薄い刃を含ませた。
セバスチャンの表情が、一瞬だけ曇った。ほんの一瞬。息ひとつ分にも満たない揺らぎ。
だがセレーナはそれを見逃さなかった。
——当たり。
この男は自分の「魅力」を戦術に組み込んでいる自覚がある。正面から指摘されると、道義を否定できない。
「ふむ、貴女の言う通りかもしれませんね」
穏やかに返す。だが声にいつもの余裕が薄い。
——ここで畳みかける。
「それに——あなたのご友人、アルト様が悲しみませんか?」
優雅に笑みを浮かべたまま、言葉を滑り込ませた。
セバスチャンの瞳が、かすかに揺れた。完璧な仮面に、小さなひびが入る。
「アルトが、友人ですか……なるほど」
声がわずかに低くなった。
——やはり。
アルトとの関係を道義的に否定できない。そこが急所ね。
「バイオレット様の未来にとっても、大切なことではないかしら?」
セバスチャンは一瞬だけ口を閉じた。次の言葉を探すような、短い沈黙。だがすぐに、いつもの余裕を引き戻す。
「貴女の言葉には、いつも優しさと真実が混ざっている」
「お褒めいただいているのかしら」
「素晴らしい洞察力です。……ただ、私を少々買いかぶりすぎかもしれませんね」
セレーナは軽く肩をすくめた。
「それはお互い様では?」
ワルツが最後のフレーズに差しかかっていた。
二人のステップが緩やかに速度を落とし、音楽とともに静かに止まる。
セバスチャンがセレーナの手をそっと離した。その指先が、名残を惜しむように、ゆっくりと滑っていく。
「今夜は楽しかった。また、お相手願えますか」
「ええ——機会があれば」
微笑みを交わす。だがその奥で、二人の視線だけは噛み合ったまま離れない。
——厄介な相手。
でも、少しずつ隙を見つけてあげる。その仮面のね。
フロアから退くセバスチャンの背中を見送りながら、セレーナは自分が今夜、わずかに優位に立ったことを確信していた。
* * *
セバスチャンと離れた後、セレーナはテラスに出た。
重厚な扉を閉じた瞬間、広間の喧騒がふっと遠くなる。
張り詰めていた全身の糸が、一度にほどけていくのがわかった。
夜風が頬を撫でた。冷たくて、かすかに甘い。
庭園の薔薇の残り香か、それとも夜露に濡れた芝の匂いか。中庭の噴水が、月明かりの中で静かに水を吐いている。
ドレスの裾をそっとつまみ、バルコニーの手すりにもたれかかった。
——アルトとのダンス、アルトとバイオレットを踊らせる策略、そしてセバスチャンとの心理戦。ぜんぶで何曲分?
指を折りかけて、やめた。数えたところで疲労が減るわけではない。
——社交ダンスなんて、前世ではただの趣味だったのに、もう笑い話ね。
貴族の舞踏会は、まるで格闘技よ。
真奈美は前世で、少女漫画がオタク的に好きだった。それをきっかけに、某歌劇団のファンになった。
その影響で、社交ダンスを習っていたのが幸いした。
しかし、慣れない本場のワルツはかなりと精神的に疲労したが、体力的にはなんとか持ち堪えられた。
「この体に感謝しなきゃね……」
転生したセレーナの肉体は23歳。前世よりも若くて、しなやかで美しい。
舞踏会の貴婦人たちと比べても頭ひとつ抜けた絶世の美女だ。
美貌で肩を並べるのは恐らく、バイオレットくらいだろう。
——セバスチャンがあのような態度に出たのも、ありえなくはないのかもね。
ふと空を見上げた。星が見えた。前世とは違う星座。
だが空の広さだけは、変わらない。
——セバスチャン。
あの男は……クソ真面目が突き抜けた天才かもしれない。
自嘲気味に口の端が上がる。前世の真奈美なら、どんな駆け引きも冷静にこなしていた。だがこの世界では、表で優雅に微笑みながら裏で策略を交わし、そのうえ身体ごとダンスで戦わなければならない。消耗の質が、まるで違う。
目を閉じた。噴水の水音だけが耳に優しい。
ほんの少しだけ、息を——
「おい、セレーナ」
背後から、鈍い声。
低く、粘つくような——不快な声。
身体に冷たいものが走った。
「先ほどセバスチャンと踊っていたな? どういうつもりだ」
ゆっくりと振り返る。
無駄に豪華な刺繍が施されたマント。贅肉がだぶついた身体。小太りの顔に浮かぶ、不遜で下品な笑み。
——貴族院議長、ベルトラム・オーヴィル。
その名前を認識した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
フラッシュバック。
前のセレーナの記憶が、痛みを伴って脳裏に流れ込んでくる。
——「フォルスター家の栄光を守りたいなら、もっと尽くせ。お前はそのために存在する。それだけの価値しかない女だ」
何度も繰り返された冷酷な言葉。
——「お前の役割はグレイスフィールド家を潰すことだ。わかっているな? フォルスター家の地位を保ちたいならばな……」
ベルトラム・オーヴィルは、フォルスター家の影の支配者だった。
政敵であるバイオレットの一族を失脚させるため、セレーナを駒として使っていた。バイオレットへの嫌がらせの数々——その背後には、常にこの男がいた。
だが、それだけではなかった。
再びセレーナの記憶が、濁流のように流れ込んでくる。
——「家のためよ、セレーナ。私が犠牲になることで、フォルスター家は守られる……それが貴族令嬢の務めなのよ」
家族からの無言の圧力。フォルスター家の繁栄のために、セレーナは尊厳を犠牲にし——
——この男に身体を差し出していた。
家名のために。
たった、それだけのために。
忌まわしい記憶が、真奈美の頭をかき乱す。前のセレーナが味わったであろう痛み、屈辱、無力感。それが真奈美の心に同調し、精神の深いところを抉っていく。
——こんな……こんなひどいことが。
セレーナ、あなたは——
喉の奥がきつく絞まる。嗚咽が込み上げてくるのを、奥歯を噛んで堪えた。
「どうした? 返事もしないとは?」
ベルトラムが苛立たしげに詰め寄ってくる。
「舞踏会でこれ以上グレイスフィールドの連中を調子づかせるようなことをするな。おい、聞いてるのかセレーナ!」
——今、この男に逆らうことはできない。まだ。
セレーナは表情を凍らせた。感情を一切通さない壁になる。
するとベルトラムの視線が、大きく開いたドレスの胸元に這った。
悍ましい目線で、セレーナの胸を覗き込む。
そして薄汚れた笑みを浮かべながら、その手がセレーナの腰に伸びてくる。
「なあ、別室を用意してある。この後——どうだ?」
太い指が腰に触れた瞬間、全身の毛穴が逆立った。
——吐き気がする。
だが、微動だにしなかった。
感情を殺す。今はまだ、牙を見せるときではないからだ。
「……申し訳ありませんが、体調が優れませんので。失礼させていただきます」
一礼。そして静かに、しかし確実に距離を取った。
「ふん、体調だと? まあいい。だが次は必ず私の期待に応えろ。お前にはそれができるはずだ」
背中に突き刺さる声を、聞こえないふりで受け流した。振り返らない。足を止めない。
テラスの外れまで歩いてから、深く息を吐いた。
ベルトラムの気配が完全に消えた。広間に戻っていったらしい。
拳を握った。爪が手のひらに食い込む。痛みすら、心地よかった。
——セレーナ。あなたは一人で、こんなにも苦しんできたのね。
真奈美は、セレーナをただの性格の悪い悪役令嬢だと思っていた。
だが今は違う。
この世界がどれほど残酷で、セレーナがどれだけの犠牲を払ってきたか——その真実を、記憶ごと受け取ってしまった。
もしかしたら自分は、セレーナの自死と入れ替わるように転生したのかもしれない。
夜空を見上げた。前世とは違う星座が、冷たく瞬いている。
——私が、あなたの無念を晴らす。必ず。
静かな決意だった。だが次の瞬間、胸の奥で炎が爆ぜた。
——倍返し。
いいえ、あいつを破滅さてやる。
身体の奥底で、何かが確かに燃え始めていた。
——覚悟しておきなさい、ベルトラム。
私はあんたを——絶対に許さない。
セレーナ・フォルスターとして。
そしてこの胸に宿った、ひとりの女として。
(つづく)




