第9話「セバスチャンの計画撤回」
蜜蝋の灯りが、ゆらゆらと傾いていた。
シャンデリアの蝋燭が半分ほどに減り、広間を覆う光が暖色に沈んでいく。
ワルツの演奏も勢いを失い、ゆったりとした旋律がフロアの端まで届かなくなっていた。
舞踏会が、終わりに向かっている。
アルト・デュラハンは、視線を忙しく巡らせていた。
(セレーナがいない——どこへ行った?)
さっきまで壁際にいたはずだ。デザートワインのグラスを手に、穏やかな微笑みを浮かべていた——あの姿が、いつの間にか消えている。
彼の胸の奥に、妙な不安と葛藤が広がった。
(……おかしい。俺がセレーナの居場所を気にする理由などないはずだ)
彼女は駒だ。フォルスター家の財産を手にするための、政略的な婚約者。それ以上でも以下でもない——はずだった。
だが、ここ数日のセレーナは違う。
あのワルツのときに見せた、真剣な目。
「バイオレット様と踊ってほしい」と頼んできたときの、揺るぎない声。
自分の婚約者に元婚約者と踊れと言える女が、いったいどこにいる?
足が勝手に会場を歩き回っていた。華やかなドレスの貴婦人たちが視界を横切る。
「先ほどのワルツ、素敵でしたわ、アルト様」
若い貴婦人が扇の陰から微笑みかけてくる。以前なら足を止めていた。手を取り、次のダンスに誘い、その夜の相手に——そういう男だった。
軽く会釈だけして、通り過ぎた。
(……俺は何をしているんだ)
自嘲が浮かぶ。だが、足は止まらない。
「どうしたアルト」
静かな声が、背後から届いた。
振り返る。
セバスチャンが立っていた。
いつも通り、完璧に整った佇まい。銀髪がシャンデリアの残り火に照らされて、冷たく光っている。
その瞳は凪いでいた。何も映していないように見えて、すべてを映している——そういう目だ。
「セバスチャン、実はセレーナの姿が見当たらないんだ……」
焦りを隠しきれない声になった。
セバスチャンは一瞬だけ間を置き、軽く頷いた。
「少し前に、彼女がテラスへ向かう姿を見た」
アルトはすぐさまテラスへ向かおうとした。だがセバスチャンの手が、肩に置かれた。静かに、しかし確実に、歩みを止める力。
「今はやめておけ」
「どうしてだ?」
「私と踊って、流石に疲れたようだった。静かな場所が必要なのだろう」
——私と踊って。
その一言が、アルトの胸に引っかかった。
「君が? セレーナとワルツを? 冗談だろ」
軽口のつもりだった。だが声の底に、嫉妬ともつかぬ感情が滲んだのを、自分でも感じていた。
「本当だ……久々に興味をそそられた」
「——明日は嵐でも来るのか?」
セバスチャンはそれを読んだように、かすかに口元を緩めた。
「ああ。来るかもしれんな——別の意味で」
意味深な言葉を、アルトは聞き流せなかった。苛立ちが込み上げる。だがすぐにそれを飲み込み、穏やかな顔を作った。
セバスチャンの手を軽く払いのけ、テラスへ向かおうとする。
「アルト」
セバスチャンの声が、低くなった。
「行かなくていい」
「……どうしてだ? セレーナがいないと、君の計画が成り立たないじゃないか」
アルトは戸惑いながらも問いかけた。
セバスチャンは一瞬だけ目を伏せ——そして、静かに口を開いた。
「あの計画は撤回する」
アルトは息を呑んだ。
(……撤回だと? セバスチャンが?)
セバスチャンの「計画」——。
それは、以前のセレーナの性格を利用したものだった。
自尊心が高く、バイオレットへの敵意に駆られ、周囲を顧みない。あの気性なら、少し唆すだけでバイオレットとの対立をさらに煽ることができた。
グレイスフィールド家の令嬢を社交界で孤立させ、政治的な影響力を削ぐ。セバスチャンはアルトを通じて、セレーナをそう仕向けるつもりだった。
だが——。
「今の彼女には通用しない。この程度の策ごときでは」
セバスチャンの声は静かだったが、そこにかすかな——驚嘆が混じっていた。
「あのワルツで確信した。彼女は変わった。それも、根本から」
「なんだと……」
「私の仕掛けた揺さぶりを正面から受け止め、逆に——こちらの急所を突いてきた」
知略に長け、負けを知らない男。
そのセバスチャンが、自らの策を撤回している。
アルトは長い付き合いの中で、この男が他人に本気で感心する場面を、片手で数えるほどしか見たことがない。
(変わったのはお前もだろう、セバスチャン……いや、俺も、か)
アルトは内心で呟いた。
「でも、せめてセレーナに挨拶だけでも——」
再びテラスに向かおうとすると、セバスチャンは無言で首を振った。
「やめておけ。彼女は今——別の何かと戦っている」
「別の何か……?」
「そうだ。今は、それを見守るべきだ」
セバスチャンの言葉には確信があった。根拠のない直感ではなく、何かを見抜いたうえでの断定。アルトはそれ以上踏み込めなかった。
「今夜は引き上げよう。彼女のいない時間では興も覚めた」
セバスチャンがそう言い、アルトを促した。
二人が広間の出口へ向かう途中だった。
テラスに繋がる回廊の向こうから、ひとつの影が現れた。
贅肉のだぶついた体。無駄に豪華なマント。苛立ちを隠そうともしない、荒い足取り。
——貴族院議長、ベルトラム・オーヴィル。
テラスの方角から戻ってきたのは明らかだった。
ベルトラムはアルトとセバスチャンには目もくれず、忌々しげに広間を横切っていく。太い指がマントの袖口を苛立たしげに擦っている。
アルトは気づかなかった。
だが——セバスチャンの目は、見ていた。
——テラスから……不機嫌な顔で戻ってきた。
あの方角には、セレーナも居たはず。
ベルトラムの足取り。紅潮した顔。
そして——袖口を擦る指先。
あれは、差し出した手を拒まれた人間の癖だ。
——セレーナに何かを求め——断られた。
ベルトラム・オーヴィルほどの権力者が、令嬢ひとりに断られて、あれほど機嫌を損ねるなど。
パズルのピースが、静かに嵌まっていく。
——フォルスター家の影の支配者。
セレーナに対する、あの所有者じみた執着。
……そして——今の彼女が「別の何かと戦っている」理由。
——なるほど。
セバスチャンの歩調は変わらない。表情も変わらない。
だが、その頭の中では——盤面が急速に書き換えられていた。
——計画は撤回で正解だ。今の彼女を操ることは不可能だ。
出口の大扉が開かれ、夜気が流れ込んでくる。星明かりの下、馬車が並んでいた。
セバスチャンはふと足を止め、テラスのある方角を振り返った。
月明かりが、バルコニーの手すりを白く浮かび上がらせている。
あの先に、セレーナがいるはずだ。おそらく拳を握りしめて。
おそらく星を見上げて。
——だが——操れないのなら、共に盤上に立つという手もある。
口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「どうしたセバスチャン」
「いや——なんでもない」
——特等席から観ていますよ、セレーナ・フォレスター。
いや。
そうではない、何者か——。
彼はその特等席を——舞台の外に置くか、中に置くか。
まだ、決めかねていた。
(つづく)




