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第7話「華麗なる駆け引き」

 開会のセレモニーが始まった。


 デビュタントたちが行進する。若い貴族たちが華やかに装い、緊張を隠して胸を張る。続いて名誉ゲストの重鎮たちが、ゆったりとレッドカーペットを歩く。


 セレーナはアルトの隣で、背筋を伸ばしていた。


 胸元が大きく開いたドレスが気になる。前世の真奈美なら顔が火を噴いていた。だが今は、視線を集めることも武器の一つだと知っている。


 表情に隙を見せない。目立ちすぎない。弱みも見せない。


 ——三つ同時に、というのが案外難しい。


 シャンデリアの灯りが、大理石の床に幾重もの光の模様を描いている。蜜蝋の甘い匂い。衣擦れの囁き。弦楽器がチューニングする微かな不協和音。数百人の貴族がひしめいているのに、天井の高い広間は声を吸い込むように設計されていて、すべての会話が囁きに変わる。


 ——前世の婚活パーティーと、構造は同じ。笑顔の下に思惑を、握手の裏に打算を。ただ賭け金が、桁違いに高い。


 ふと、アルトの目が動いた。


 視線の先——セバスチャンが、穏やかな微笑を浮かべたまま、無言でアルトを見ている。


 アルトの喉仏が、小さく上下した。


 ——「計画を進めろ」。あれは指示ね。


 セレーナは表情を変えなかった。視線すら動かさない。ただ右手の中指が、かすかに眉間に触れただけだ。



   * * *



「アレス・ヴァルツァー!」


 主催者の声が響いた瞬間、オーケストラがワルツの最初の一音を放った。


 空気が変わる。待ち構えていたゲストたちが、次々にフロアへ出ていく。


 アルトが向き直り、手を差し出した。


 その手を取る。手袋越しの体温が、先ほどより高い。


 ——緊張してるのはお互い様ね。


 前世で社交ダンスは齧っていた。だが貴族として大勢の前で踊るのは初めてだ。ワルツだけは徹底的に予習してきたものの、実際に足を動かすと身体が強張る。


 リズムに乗り切れない。一拍、遅れる。


「今日は少し体調が悪いのかい?」


 アルトが耳元で囁いた。


「もっと私に身を預けて」


 その手が、セレーナの腰をほんの少しだけ引き寄せた。


 力強い、けれど穏やかなリード。身を委ねた瞬間、足が自然に動き始めた。音楽と呼吸が噛み合い、ステップが滑らかに繋がっていく。


 ——この人、ダンスだけはちゃんとしてるのね。


 感心と呆れが半分ずつ。だが今は、このリードに乗ることが最善だった。


 フロアを一周する間に、視線を感じた。好奇と品定め。壁際の貴婦人たちが扇の陰から観察している。あの目つきは値踏みだ——ドレスの仕立て、宝石の格、表情の隙。


 ——見られている。それでいい。


「アルト様」


 踊りながら、声を落とす。


「お願いがあるのですが」


「……なんだい?」


「次の曲で、バイオレット様と踊っていただけませんか」


 アルトの手が、一瞬強張った。ステップが微かに乱れる。


「……なぜ?」


「あなたのフィアンセとして、お願いしているのです。バイオレット様との和解は、あなたの品格を示す機会になりますわ」


 短く、穏やかに。けれど目だけは真剣に、アルトを見上げた。


 アルトの視線が泳いだ。髪をかきあげたい衝動を、踊りながら堪えているのがわかる。


「……セレーナがそう望むのなら」


 不本意そうな声。だが、断れなかった。


 ——ごめんなさいね、アルト。でもこれは、あなたのためでもあるの。


 本心だった。半分は。

 残りの半分を、セレーナは柔らかな微笑みの奥に沈めた。



   * * *



 曲が変わった。


 アルトがバイオレットに歩み寄り、手を差し出す。


 会場のあちこちで、扇の陰から視線が集まった。囁きが漣のように広がる。


 バイオレットは一瞬だけ戸惑いを見せた。だが——その手を取った。


 二人がフロアに出る。アルトのリードは先ほどと変わらず滑らかだったが、背中がどこか硬い。バイオレットの表情は穏やかに見える。だが左手の指先が、アルトの肩に触れるか触れないかの距離で揺れていた。


 ——あの子、触れたいのか触れたくないのか、自分でもわかっていないのね。


 セレーナは壁際に退き、デザートワインのグラスを手に取った。


 林檎の甘い香りが立ち上る。一口含んで、ゆっくりと会場を見渡した。


 貴婦人たちが扇の陰で囁き合っている。アルトとバイオレットを見つめる表情は、好奇、困惑、そしてかすかな嫉妬。アルトにすれば公衆の面前で元婚約者と踊るなど針の筵だろうが、周囲にはそれが「度量の大きさ」として映る。


 ——社交界の反応は、ほぼ想定通り。


 前世で何百組もの男女を見てきた。あの二人の距離感、視線の合わせ方、呼吸のタイミング。カウンセラーとしての結論は明快だった。


 ——アルトとバイオレットの間には、まだ感情が残っている。それが恋なのか執着なのかは、まだ見極めがつかないけれど。


「セレーナ様」


 背後から、声。

 低く、穏やかで——どこか甘い。


「私とワルツを踊っていただけますか?」


 振り返る前に、わかっていた。


 セバスチャンが完璧な礼をしていた。差し出された手。銀髪が、シャンデリアの光を受けて冷たく光っている。


 その瞳が笑っていた。口元も、眉も、すべてが穏やか。


 ——なのに、背筋がざわつく。


 彼がセレーナの手を取り、その甲に唇を落とした。手袋越しなのに、妙に温度を感じる。


「貴婦人はたくさんいらっしゃいますのに」


「私の目には、あなたがもっとも興味深い」


 一拍の間もなく返ってきた。


「——それ以上の理由が必要でしょうか?」


 嘘がない。セレーナの「目」が、そう告げている。だからこそ、厄介だった。


 グラスをテーブルに置き、その手を取った。



   * * *



 ワルツの旋律に乗せて、二人のステップがフロアを滑る。


 セバスチャンのリードは、アルトとは質が違った。力で導くのではなく、呼吸で導く。こちらの次の動きを先に読んで、半拍早く空間を開けてくる。


 ——踊りながら、次の動作を読んでいる。この男は私と同じ種類の人間だ。


「あなたは最近、とても興味深い」


 セバスチャンが口を開いた。


「最近? まるで以前の私が退屈だったと言われているようですわ」


「正直に言えば、そうですね」


 軽く肩をすくめる。


「以前のあなたは、ただの貴族令嬢に過ぎなかった。少々……自尊心が高く、周囲に気を配ることもなく」


 セレーナは身体を預けたまま、優雅に一歩を踏み出した。内心を読み取られないよう、笑みの形を保つ。


「ひどい言われよう。今は少し違って見えると?」


「少し、ではないですね」


 セバスチャンの声が低くなった。


「まるで別人のようにさえ感じます。何か大きな変化があったように」


 心臓が、一拍だけ速く打った。


 ——核心に近い。この男の観察力は想定以上だ。


「人は成長するものですから」


「成長というより、むしろ——」


 セバスチャンの瞳が、セレーナを真正面から射抜いた。


「違う魂が宿ったような」


 空気が、冷えた。


 比喩なのか。それとも——。


 セレーナはわずかに目を細めた。だがすぐに微笑みを戻す。


「まさか、幽霊や奇跡を信じるお方ではないでしょう?」


「ええ、信じるのは目に見えるものだけです。合理主義者ですから」


 穏やかに笑う。だが次の言葉は、笑みのまま放たれた。


「ですが時には、見えないものが真実を語ることもある。あなたの変化——など、まさに」


 ——ここで引いたら負ける。


「もし私が私じゃないのなら——あなたはどうするのかしら?」


「その中身……次第でしょうね」


 セバスチャンの声が一段低くなった。


「ただ、魅力的な変化です。今はあなたに——とても興味を掻き立てられます」


 セレーナは軽くステップを踏みながら、彼の目を見つめ返した。


「それは光栄ですわ。でも、何を期待しているのかしら?」


「期待というより——あなたの本当の姿を見てみたい。ただそれだけです」


「本当の姿?」


 挑むように微笑んだ。


「それを見たところで、失望しないとは限りませんよ」


 ——この世界に婚活カウンセラーなんて職業、存在しないでしょうけどね。


 セバスチャンは一瞬だけ視線を外し、再びセレーナを見た。


「いえ、むしろ——予想外の喜びを与えてくれる気がします」


 嘘がない。それがまた厄介だった。


 ——この男は本音を武器にする。嘘より始末が悪い。


 セレーナは一歩先を行くために、勝負に出た。


「では率直にお聞きします。あなたは私と——どうしたいのかしら?」


 直球。駆け引きの放棄。


 セバスチャンの動きが、一拍だけ止まった。目が細くなる。だがすぐにいつもの穏やかな表情に戻った。


「今の気持ちを率直に言うなら——」


 ワルツの旋律の、ちょうど静かな間奏に重なった。


「今夜、貴女を抱いてみたい。……ですかね」


(つづく)


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