第1話「もう誰も不幸にしない」
目が、覚めた。
——柔らかい。
背中に沈み込むような感触。シルクの、シーツ。
天井には金箔の装飾。見たこともない紋章が、薄暗い照明に浮かんでいる。
——ここは、どこ?
体を起こした。
重い。頭が、ずきずきと痛む。二日酔いに似ているけれど——もっと深い場所が軋んでいる。
手を見た。
——私の手じゃない。
白い。細い。爪の先まで手入れされた、見覚えのない手。
腕も、肩も、ドレスに包まれた体も——全部、知らない。
心臓が、速くなる。
「……何、これ……」
足をベッドの端に下ろそうとした時、扉が開いた。
メイド服の少女が入ってくる。ボブカットの黒髪。大きな目。真奈美の顔を見た瞬間、深々と頭を下げた。
「お目覚めですか、お嬢様。本日は婚約者のアルト様とのお茶会が控えておりますので、ご準備をお願いいたします」
婚約者。お嬢様。
「……え、ちょっと待って、どういう意味?」
「お嬢様、昨夜のお酒が過ぎたのでは? もう少しお身体を労わってくださいませ」
少女の声は穏やかで——嘘がない。
——でも、なぜ『嘘がない』ってわかった?
この子に会ったのは今が初めてのはず。なのに声のトーン、目の動き、肩の傾きから、偽りのない心配が——手に取るように読めた。
——気味が悪い。
でも、それよりも。
真奈美は立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前に歩いた。
鏡の中に、知らない女がいた。
長く深い黒髪。透き通るような白い肌。整いすぎた顔。
豪奢なドレスに包まれた——信じられないほどの美貌の女が立っている。
——私じゃない。佐藤真奈美じゃ、ない。
「なんで、こんなに美しい体になってるの……」
指先が鏡に触れた。冷たい。
向こう側の女も、同じ動きをしている。
「ええ。お嬢様は、美しいですよ。バイオレット様と共に王国の至宝と呼ばれてるほどですから」
アリサがまるで自分のことのように胸をはる。
——もしかして私。この美女に転生、したってこと?
真奈美が以前読んだコミックで、そういう話があった。
不慮の事故で、未練を残したまま異世界の令嬢に転生する話だった。
これが夢でないなら、あれと似たような現象かもしれない。
その推論が頭に浮かんだ瞬間。
ずきん。
頭の奥で、何かが弾けた。
映像が流れ込んでくる。嵐のように。止められない。
知らない人生。知らない人物。知らない感情が——駆け抜けていく。
おそらくこの体の持ち主の、記憶の断片。
「……っ!」
膝から力が抜けた。椅子に崩れ落ちる。
こめかみを押さえる。痛い。割れそうだ。
断片が、像を結んでいく。
——「あなたなんか、所詮私にはかなわないのよ!」
金髪の美しい令嬢に向けて吐き捨てる声。泣き崩れる相手。背後で冷たい目をした金髪の男。
——「これでアルト様は、私のものよ!」
主人公令嬢から婚約者を奪い取る場面。強引に。傲慢に。
この体の女——セレーナ・フォレスターは、そうやって生きてきた。
美貌と家柄を武器に、人を踏みつけ、奪い取ってきた。
記憶から察する彼女はプライドが異常に高く、おだてに弱く、策略には無警戒。
まだ21歳で。世間知らずの貴族令嬢。
——これって俗に言う、悪役令嬢ってやつでしょ。
もっとも厄介なのが、直近の記憶に映る男性。これがどうやら、婚約者なのだが。
セレーナの記憶が映し出すアルトの言動が、婚活のプロである真奈美のチェックリストに、片端から引っかかっていく。
——これは、典型的なクズ男じゃないの。絶対結婚しちゃダメなタイプ。
精神的に依存させることで徐々に主導権を奪い、依存度を徐々に引き上げて、資産を毟り取る寄生型ね。
しかも、前世セレーナの記憶の中で、アルトはすでに——フォレスター家の領地経営に口を出し始めている。
旧当主である父親の遺言を「古い」と笑い、領地の宝飾資金を流用し、自分の遊興費に充てている。
婚活のプロなら、この関係がどういう結末に着地するか、明確に見える。
——まずいわね、この男、アルトが厄介だわ。
こいつと婚姻すれば、私が転生したフォレスター家の資産は、おそらく五年以内に底を尽く。
その先、待っているのは破産、爵位の剥奪、そして一族の離散。
真奈美の直感と経験。その明晰な頭脳が、破綻のシナリオを完璧に予測した。
——前世のセレーナは、これに気づかなかった。
でも、今この体に宿っているのは、佐藤真奈美。成婚率100%を誇る、婚活のプロ。
——破滅は、確定じゃない。私なら回避できる。
冷や汗が、背筋を伝った。
「……なんの因果かしらね。転生しても成婚に悩まされるなんて」
声に出した瞬間——記憶の嵐が止んだ。
静寂。
頭の中が、嘘のように澄んでいる。
——整理しよう。
左手で肘を支え、右手の中指で眉間を押さえる。
前世からの癖。このルーティンで、いつも集中力を高めてきた。
真奈美が転生したのは、大貴族の令嬢セレーナ・フォレスター。
性格が良くて人望のある令嬢をいじめ、その婚約者を奪い、クズ男と結婚して破滅する——バカな女。
いわゆる、典型的な――悪役令嬢。
ただひとつだけ違う点がある。
今セレーナの脳内の思考は——この私、佐藤真奈美になっている。
そう、嘘の条件を見抜き、最適な相手との成婚へ導く婚活の天才。
そしてどうやら、この体に宿った瞬間から、その能力が桁違いに強くなっている。
さっきメイドのアリサを見た時。声のトーンと、目の動きと、肩の角度だけで、心の中が読めた。
何より、相手の瞳の奥に『本音』が見えるのだ。
——人の『嘘』を見抜ける、青い瞳。これは、神様からのギフトからしらね。
前世なら微かな違和感でしかなかったものが——今は答えとして、はっきりと視えるもの。
「お嬢様……? さっきから何をおっしゃってるのですか?」
メイドが心配そうに顔を覗き込んでいる。
メイドの……アリサ。記憶の中で唯一、セレーナを裏切らなかった少女。
目尻が下がっている。唇を噛んでいる。声がわずかに震えている。
——本心からの心配だ。嘘が、一切ない。
「セレーナ様、本当に大丈夫ですか? お気分が優れないのなら、無理には……」
——まずい。このままクズ婚約者のペースに引き込まれて結婚に至ったなら。私が転生したフォレスター家は間違いなく破産する。
つまり、メイドであるこの子も路頭に迷う。
悪役令嬢のメイドに、没落後の居場所なんてない。
——私はどうになる。独り身は慣れてる。
でも、この子、せめてアリサだけでも、守ってあげたい。
眉間から指を離した。
クズ婚約者との結婚は、なんとしても回避する。
破滅フラグは、知略で粉砕する。
——面白い。婚活でこの私に挑もうっていうのね。
——上等だ。
前世で培った全てを使って——この世界の政略結婚を、ひっくり返してみせる。
「アリサ……私にまかせなさい」
「お嬢様、体調は……よろしいのですか?」
「ええ、もう準備は整ったわ。行きましょう」
鏡の前を通り過ぎる時、セレーナの顔が微笑んでいるように見えた。
——錯覚か。でも。
前世では、本当の成婚を実現できなかった。
そして——自分の人生を見失い、私も顧客も不幸になった。
今度こそ、間違えない。
もう、誰も不幸にしない。
(つづく)




