序幕「顧客に殺された日」
仕事帰りの、夜道。
街灯の白い光が、アスファルトに落ちている。
カツ、カツ、カツ。
彼女のヒールの音だけが、静かな通りに響いていた。
「死ねー!」
声は、すぐ後ろから聞こえた。
振り返る間もなかった。
ドンッ。
背中に——衝撃。誰かに突き飛ばされた。
体が、道路に投げ出される。
同時にヘッドライトの白い光が、視界を埋め尽くしていく。
心臓が、跳ねる。
——え、私、死ぬの?
次の瞬間、体に衝撃が走る。
視界が宙を舞っている。
世界がスローモーションに見える。
過去が、走馬灯のように蘇る。
* * *
佐藤真奈美は、ずっと一人だった。
ワイングラスの中で、赤い液体が揺れている。
真夜中。マンションの一室。テレビの音だけが、壁に反射していた。
今日も、一組を成婚に導いた。
明日も、三件の面談が控えている。
再来週には、業界誌の取材。
成婚率100%。予約は2年先まで埋まっている。
天才カウンセラーと呼ばれた。
テレビで特集が組まれた。
——でも……それが、どうしたっていうのだ。
グラスに口をつけた。ワインは、もう温くなっている。
「何が天才婚活カウンセラーよ……」
——自分の幸せすら、ままならないのに。
毎日、相談者の言葉を聞いてきた。
「贅沢は言いません。でもあえて言うなら——」
その『あえて』を口にする瞬間、相談者の視線はいつも左上に動いた。
記憶を辿る方向ではなく、条件を「組み立てる」方向。
声のトーンが半音上がり、瞬きの回数が増える。
——その先に続く言葉は、全部嘘。
私の目は、それを一度も見逃したことがない。
容姿、年齢、年収、実家、資産。
——そこにあるのは、打算と欲望。
何百組を導いてきた記憶が知っている。
人は条件で選ぶ。欠点を隠し、相手の懐を計算する。
結婚は、交渉だ。
それを誰よりも理解しているから——真奈美自身が、愛を信じられなくなった。
恋愛なんて、馬鹿らしい。
自分には関係ない。
そう決めたはずなのに。
夜、一人でワインを飲む時。冷えたベッドに横たわる時。
心の中に、穴が開いている。
仕事で埋めようとしても、指の隙間からこぼれ落ちていく。
* * *
数日後。相談所の応接室。
一人の男が現れた。
真奈美が成婚に導いた元会員。結婚寸前で、破談になった人物だ。
——瞳孔が開いている。呼吸が浅い。この人はもう、壊れかけている。
「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!」
声が、壁を震わせた。
「あんな女、結婚相手として紹介するなんてどうかしてる!」
逆恨みだ。
だが——男の目は据わっている。理屈が通じる状態じゃない。
緊張で真奈美の指先が、冷たくなっていく。
だが、動揺を顔に出すわけにはいかない。
「もうお引き取りください」
声は、震えなかった。
「人の心は無いのか? お前を許さないからな!」
その目は、憎しみに満ちていた。
* * *
——そうか、あの男に。
顧客に殺されるんだ、私は。
何百組の幸せを作ったこの手が、宙を掻いている。
結局、自分の幸せすら作れなかった——手が。
ドシャ。
地面に叩きつけられる音がした。
視界が、白から黒に変わった。
「お前なんか死んだ方が、世の中のためになる」
最後に、男の声が聞こえた気がした。
——私の、人生ってなんだったの。
この日、すべてが、消えた。
——かに、思えた。
(つづく)




