第36話 竜の加護
リィネが倒れた瞬間、私はもう駆けていた。
何かを考えたわけではない。
リィネが撃ち抜かれた。その事実だけで、視界が歪んだ。
気づけば身体は捻られ、持てる限りの力と速さで動き出している。呼吸の音だけがやけに大きく、周囲の時間だけがゆっくり流れているように感じられた。
気づけば、剣を抜いている。
足場の悪い水路も、濁った龍脈の脈動も、すべては今の私には関係がなかった。
まず目に入ったのはグスタフだった。
あまりにも遅い。
私の踏み込みに、水飛沫が遅れて弾ける。
グスタフがこちらに構えようとするよりも早く、剣が閃いた。
――銀の一閃。
駆けながらの下段からの振り上げた剣は、グスタフの右腕を切り落としていた。
「がっ……!?」
遅れて血が噴き出す。
グスタフの悲鳴が地下水路へ響いた。
だが、止まらない。一歩踏み込み、そのまま喉元へ剣先を突きつける。
「次は首だ」
グスタフは片膝をつき、切り落とされた右腕の先から血を流しながら、私を見上げる。その顔から余裕は消えていた。だが、完全に折れたわけではない。歯を食いしばり、痛みに顔を歪めながらも、なお口元には虚勢の名残があった。
「き、貴様……公国に対する――」
その目が、私を見て揺れる。
怒りに任せて剣を突きつけているだけではない。
竜の加護が、この身の奥で脈打っているのが分かった。リィネと繋がり、龍脈へ触れてきたからこそか。いまの私は、自分でも驚くほど冴えていた。
グスタフの瞳に、一瞬だけ露骨な怯えが走る。
まるで、私の向こうに何か別のものを見たかのように。
「まさか……竜の……」
「黙れ」
その一言で、グスタフは息を呑んだ。
上から慌ただしい足音が響いてくる。
中庭の陥没と轟音を聞きつけた王宮兵たちが、次々と地下へなだれ込んできたのだろう。
「殿下! ご無事ですか!」
先頭の兵が地下水路へ飛び込み、血塗れのグスタフと、邪竜の巨体を見て一瞬だけ息を止める。だがすぐに我に返ったように跪いた。
「グスタフを拘束しろ。邪竜は味方だ」
私が短く命じると、兵たちは戸惑いながらもすぐに動いた。
「はっ!」
視線の先のグスタフが何か言い返そうとする。だが、もう構っている暇はなかった。
私の意識は、最初からずっと別のところにあった。
私は剣を収めるより先に身を翻し、その巨体のもとへ駆け寄った。
「リィネ!」
邪竜の巨体は、水路の石床へ片翼を落とすようにして崩れていた。
左肩には巨大な矢が深々と刺さったままだ。その傷口からは血が滲み出している。
「しっかりしろ!」
声をかけても反応は鈍い。
瞳はかろうじて開いているものの、焦点が定まらない。気配が感じられないような状態だった。そこにいるはずなのに、どこか遠ざかっていくような感覚があった。
肩の傷から血が滲むたび、リィネの輪郭がわずかにぶれた。
「これは……」
傷が深い、だけではない。
何かもっと根本的なところで、リィネそのものが崩れ始めているような気配がした。目の前にいるはずなのに彼女の存在がどんどん薄くなっているのを感じる。竜の加護を得ているからこそ分かる違和感なのかもしれないが、確かに感じるのだ。
「リィネ!」
その名をもう一度呼んだところで、背後から聞き慣れた声が落ちた。
「これは、ほんまにヤバいで」
振り返ると、フェンがいた。
いつの間に追いついたのか、白銀の毛並みを逆立てるようにしながら、リィネの姿を睨んでいる。そのすぐ後ろにはシャリーもいた。離宮からここまで来たのだろう。ユリアンの残した兵たちに守られてきたのかもしれない。
「フェン、これは!」
「説明はあとや!」
フェンは低く唸るように言うと、倒れたリィネのもとへ駆け寄った。
その瞳が、傷口と楔と、水路全体を脈打つ黒い流れを一瞬で見渡す。
「やっぱりや……」
いつもの軽さは一切なかった。
「この楔、ただ刺さっただけやない。地下水路の仕掛けと王都の龍脈、その両方を使って、リィネの器そのものに変異を打ち込んどる」
「器……?」
「リィネっちゅう存在の境界が曖昧になっとるんや」
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
だがフェンは、こちらが分からぬことも承知しているのだろう。短く息を吐き、噛み砕くように続ける。
「コップに入っとる水を泉へこぼしたら、どれが元の水やったかなんて分からんやろ」
私は黙って聞く。
「いまのリィネはそれと同じや。邪竜って器は龍脈の影響をめちゃくちゃ強く受けるんや。せやから、この地下水路の仕掛けと楔で境界をぐちゃぐちゃにされたら、リィネがリィネのままでおれんくなる」
その言葉は、冷たく私の心に突き刺さった。
リィネは“弱っている”のではなく、存在そのものが龍脈へ溶けかけているからなのだと。信じたくない事実がフェンから告げられる。
「このままだと、どうなる」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
フェンは一瞬だけ黙り、それから低く告げた。
「身体は残るかもしれん。けど、“リィネ”が戻らん可能性がある……」
シャリーが小さく息を呑む音がした。
私はリィネを見つめる。倒れた巨体は、なおもわずかに揺らいでいた。ここにいるのに、いないような。手を伸ばせば届くはずなのに。
「……フェン殿、リィネを助けるにはどうすればいい?」
迷っている時間はなかった。フェンがこちらを見る。
だが、フェンの目にはわずかな迷いがあった。
「ないことも、ない」
「なら、早く教えてくれ!」
思ったより強い声が出た。
フェンは眉をひそめる。
「そんな簡単なことやあらへん。ウチにかて無理や」
「それでも構わん。方法があるなら言え」
問い詰めるように一歩寄ると、フェンは舌打ち混じりに息を吐いた。
「……曖昧になったリィネを、龍脈の中から引っ張り出せればええ」
龍脈の中から引っ張り出す? そんなことをどうやって……。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
突然の説明に困惑する私を察したのか、フェンは続ける。
「……ただ探しに行くだけやない。龍脈の中へ落ちかけたリィネを、“リィネ”として掴み直すんや。そのためには、"魂の繋がり"が要る」
魂の繋がり。
その言葉に、私ははっと息を呑んだ。
竜の加護――。
洞窟で繋がった、あの絆。それは私とリィネの間に流れる、魂の繋がりだった。
「そうや……せやからウチじゃ無理やねん」
「竜の加護で繋がっとるアンタが、命がけで助けに行かなあかんのや」
その一言で、場の空気が張り詰める。
だが、目の前にいるリィネを見て私の覚悟が揺らぐことはなかった。
崩れかけた輪郭。その奥にまだ彼女がいるのなら、掴みに行くしかない。
「なぁ、あんたがお人好しの王子なんは分かっとる。けどな、生半可な覚悟やとアンタを殺すだけや」
「リィネのために、ほんまに命を賭けられるんか?」
当たり前だと答えようとした、その前に横に控えていたシャリーが答える。
「フェン様、あなたはまだ王子のことを分かってないみたいですね」
横から落ちた声に、フェンが顔を上げた。
「は?」
シャリーが、やれやれとでも言いたげに小さく息をつく。
「この方は昔から、そういうお方ですよ」
私はシャリーに対して小さく頷く。その一言だけでフェンにも十分に伝わったようだった。私はリィネを目の前にこれまでのことを思い出していた。
「幼き頃も、洞窟の時も、それだけではない」
洞窟で出会ったリィネ。村で人を守ろうとした姿。王都で魔物を焼き払って現れた黒き竜。そして今、こんな傷を負ってなお消えかけている少女。
「リィネには救われた。私だけではなく、この王国もだ」
まっすぐにフェンを見る。
「そんな彼女を、見捨てられるわけがないだろう」
言い切った瞬間、フェンは数秒だけ黙っていた。
それから、鼻を鳴らす。
「……ふん、やっぱり頭のいかれた王子はんやったか」
「ああ」
私は口元をわずかに緩める。
「だが、そんなことはもう分かっていただろう?」
フェンが肩をすくめた。
そこでようやく、ほんの少しだけいつもの空気が戻る。
「わかった。ほなら一つ手立てはある」
フェンはリィネの傍へ立ち、低く告げた。
「龍脈に意識を潜り込ませる龍術で、アンタを送ったる」
「そんなこと、できるのか?」
「リィネから竜の加護を得たアンタなら送れる、でもかなり危険やからな」
その言葉に、私は頷いた。
「構わない。必ずリィネを取り戻してくる」
フェンは一度だけ目を閉じ、それから聞き慣れぬ竜の言語で詠唱を始めた。
それは言葉というより、古い歌のようだった。低く、深く、水路を流れる水と龍脈の鼓動そのものへ呼びかけるような響き。
地下水路に打ち込まれた楔がなお赤黒く脈打っている。
その中で、フェンの龍術だけが別の光を灯した。
倒れたリィネの身体が淡く輝き始める。
同時に、私の身体にも同じ光が絡みついた。
視界の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
地下水路の石壁。揺れる水面。血に濡れた床。拘束されるグスタフの姿。シャリーの不安げな顔。フェンの鋭い眼差し。すべてが水の底へ沈む景色みたいに遠ざかっていく。
最後に見えたのは、邪竜としてのリィネの姿だった。
今度は、私が助ける番だ。
どうか間に合え。
そう強く願いながら、私は目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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