第34話 王都に舞う影
王都の東内門は、南門より深刻な状況だった。
外門を突破した魔物たちが濁流のように流れ込み、逃げ遅れた市民たちの悲鳴が石壁に反響している。兵士たちは必死に槍を構え、わずかに残された退路を守るように立ちはだかっていたが、魔物の数はあまりにも多かった。
まだ大きな被害は出ていないが、それも時間の問題のように思えた。
「早く! 内門の向こうへ!」
「子どもを連れていけ! 振り返るな!」
怒号が飛ぶ。
泣き叫ぶ子どもの声。荷を抱えたまま足をもつれさせる女。倒れた者を引き起こそうとしている老人。そのすべての前に、狼型の魔物たちが牙を剥いていた。
兵のひとりが剣を振るい、先頭の魔狼を斬り伏せる。
だが、その横からすぐに次の一体が飛びかかる。
「っ、数が――!」
押し返しきれない。
空を焦がす火の粉が風に舞っていく。城壁の上から放たれた火矢も追いつかず、門前の混乱はさらに広がっていく。あと一歩でも守りが崩れれば、魔物たちは逃げ惑う市民たちへ直接食らいつくだろう。
その時だった。
ひとりの兵士が、ふと上を見て凍りついた。
「……影?」
つられるように何人もが空を見上げる。
大きな影が、東門の上空を横切っていた。
翼だ。巨大な、あまりにも大きな翼。それは兵士たちが幼い頃から恐怖とともに聞かされてきた伝承と、あまりにもよく似ていた。
「まさか……」
誰かが掠れた声を漏らす。
「邪竜……!?」
その一言で、場の空気が一気に絶望へ傾いた。
ただでさえ魔物に喰われかけているというのに、そこへ邪竜まで現れた。
兵士たちの顔から血の気が引く。市民の中にはその場にへたり込む者までいた。
だが、次の瞬間
空を裂くように、灼けつく閃光が奔った。
邪竜の口腔から解き放たれた炎熱は、一直線の破滅そのものだった。
東内門へなだれ込んでいた魔物の群れを正確に呑み込み、咆哮も悲鳴もまとめて焼き切っていく。
毛皮は燃え、牙は砕け、黒く灼けた塊だけが石畳へ降り積もった。
それほどの威力でありながら、火は兵と市民のすぐ前でぴたりと逸れている。まるで、人だけを避けて駆け抜けたかのようだった。
「……え?」
誰かの間の抜けた声が、戦場のど真ん中で妙に大きく聞こえた。
邪竜が現れ魔物だけを焼き払った。人を守るかのように。
大きな影が東内門の手前へ降り立つ。
その姿は、洞窟の討伐時に見た姿、まさしく伝承に語られる邪竜そのものだった。黒き巨躯、圧倒的な翼、鋭く光る眼。人が恐れるのも当然の威容だ。
だが、その背には人影があった。
「降りろ!」
号令とともに、邪竜の背から数人の兵が飛び降りる。
全員が揃いの装備に身を包み、迷いなく隊列を組んだ。
その先頭に立つ金の髪の青年が、張り上げた声で叫ぶ。
「みなさんお逃げを! かの竜は味方です! 我々が援護します!」
その声に、兵も市民も一瞬だけ息を呑む。
理解が追いつかぬままでも、青年が率いる兵たちはすでに動いていた。剣と槍を閃かせ、内門前に残っていた魔物を次々と斬り伏せていく。その動きは王都兵のそれとは明らかに違う。少数精鋭。乱戦の中でも崩れぬ練度だった。
邪竜はもう一度、低く喉を鳴らす。
それだけで残った魔物たちがびくりと身を竦ませた。
兵たちのひとりが、目を見開いて青年を見る。
「ユリアン王子……?」
エーデルシュタイン公国の王子。
その名が口にされた瞬間、さらに混乱が広がる。なぜ公国の王子がここにいるのか。なぜ邪竜の背から現れたのか。何ひとつ分からない。
ユリアンは戸惑いを切り捨てるように剣を振るい、そのまま鋭く命じた。
「東内門の守りを立て直せ! 避難を優先しろ!」
その声でようやく兵たちの意識が繋がる。
王都兵たちは慌てて市民を誘導し始め、ユリアンが連れてきた精鋭たちはその前面で魔物を切り払っていった。
邪竜は、着地した姿勢のままじっと王都の南を見ていた。
その視線の先に、より大きな戦場があることを知っているかのように。
ユリアンがその巨体を見上げ、短く告げる。
「リィネ殿、南門へ。シグルド王子はそちらです」
邪竜――リィネは、低く唸るように応えた。
そして、飛び立つ直前にもう一度だけ口を開く。
ごうっ、と外門からなだれ込む魔物の一団が燃えた。
東内門へなお迫ろうとしていた魔物の群れが、二度目のブレスによってまとめて薙ぎ払われる。炎熱は兵と市民を避けるように走り、魔物だけを残らず焼き尽くした。
兵たちも、市民たちも、ただ呆然とそれを見送るしかなかった。
邪竜が大きく翼をはためかせる。
突風が吹き抜け、火の粉が舞い上がる。
その巨体は次の瞬間にはもう空へ舞い上がっていた。まっすぐ南へ。王都南門の激戦地へと向かって。
そんな邪竜の姿を見た、避難の途中の少女が震える声で呟く。
「……邪竜が」
「助けて、くれた……?」
***
南門では、外門を破壊してなだれ込んできた魔物たちを、内門前でどうにか押し返していた。
だが、その戦線も徐々に崩れかけていた。
押し寄せる魔物は減らない。外門はすでに放棄し、内門を軸に防衛線を組み直してはいるが、それでも数が多すぎる。門前の石畳は血と泥に濡れ、矢を撃ち尽くした弓兵たちは剣を握り前衛へと躍り出る。
「押し返せ!」
シグルドの声が響く。
剣を振るい、群れの最前列へ食らいつく。横薙ぎに一体を斬り伏せ、返す刃で二体目の喉を裂く。だが倒しても倒してもキリがない。
「殿下! 東側も押されています!」
「盾持ちは前へ! 列を下げるな!」
軽装の兵たちが前衛を張るリスクを回避するために、盾を持った重装兵が前へ出る。兵たちは必死に持ちこたえていた。
だが、持ちこたえるだけで精一杯だ。このまま数で押し切られれば、いずれ内門も破られる。
シグルドは目の前の魔狼を蹴り飛ばし、ほんの一瞬だけ空を見た。
リィネ。
離宮のほうも安全ではないだろう。だが今はここから動けない。この王都を守るのが自分の役目なのだ。
シグルド王子がそんな思いを浮かべた、その時だった。
空に大きな影が差した。
「あれはっ!」
兵たちが一斉にざわめく。
見上げた先にあったのは、空を覆うほど巨大な翼。
「邪竜だ……!」
「くそ、奴まで来るなんて……!」
動揺が戦線を揺らす。何人もの兵が思わず槍を構え直した。
だが、その絶望は次の瞬間に裏返った。
轟くような咆哮。
そして、空を裂く灼熱が吹き荒れる。
空から吐き下ろされたブレスが、南門前で密集していた魔物の群れを一息に焼き払う。大量になだれ込んでいた影は焼き尽くされて黒塊とかわり、あたりは焦げ臭い匂いだけが漂っていた。
「な……」
兵の誰かが呆然と声を漏らす。
邪竜はそのまま内門前へと着地した。石畳が大きく揺れ、突風が吹き抜ける。圧倒的な巨体がそこにあるだけで、戦場の空気が塗り替わった。
その黒き竜の双眸が、まっすぐシグルドを捉える。
見間違えるはずがなかった。
「……リィネ」
シグルドはその言葉を漏らす。だがすぐさま横から兵士たちがシグルド王子の前へとなだれ込む。剣や槍を構え、シグルド王子を守るように。
「殿下、危険です!」
「下がってください!」
槍を構えかけた兵たちを、シグルドは鋭く一喝した。
「武器を下げろ!」
その声に、場が凍りつく。
シグルドは一歩前へ出た。
再会に安堵したのか、その顔がほんの少しだけ和らぐ。邪竜の頬へそっと手を伸ばし、それから兵たちを振り返った。
まるで、庇うように。
「敵ではない、かの者は我がアストレイド王国の盟友――邪竜リィネだ!」
その宣言は、荒れ果てた南門の戦場に重く響いた。
王都兵たちの顔には、驚愕と困惑が浮かぶ。
当然だ。邪竜は災厄であり、討たれるべきものとして語られてきたのだから。なのにその邪竜を、第一王子が盟友と呼んだ。邪竜と渡り合った英雄とされるシグルド王子その人が。
だが、今その邪竜が魔物を焼き払ったのもまた事実だった。
その事実は、どんな伝承より雄弁だった。
邪竜――リィネは低く身を沈める。
その仕草の中に、どこか人らしい気配が滲むのを、シグルドだけは見逃さなかった。
「助かった」
短く言うと、竜の喉が小さく鳴った。
「お礼はあと!」
竜の加護でつながったシグルド王子にはすんなりとリィネの言葉が理解できた。フェンがいないことで他の者たちには言葉の真意までは伝わっていないようだが、敵意が無いことは伝わったようだ。
「ユリアン王子が離宮の救援に来てくれたの。東門も、いまはあの人たちが支えてる」
「離宮にはフェン様もいる。だからシャリーさんのことは安心して」
端的に状況を共有するリィネにシグルドは驚きながらもどこか安堵し小さく頷く。
リィネは大きく首を巡らせ、地面の下を探るように目を細める。
「なんで魔物がと思ってたけど……王都に来てわかった気がする」
「王都の地下、龍脈の流れが明らかにおかしいよ」
シグルドの表情が引き締まる。
「地下……やはり、内部に仕込まれているのか」
リィネは大きく頷くように首を動かした。
「とにかく嫌な感じがする。洞窟や村で感じたのとも違う。もっと濁ってて、もっと深いかも」
それを聞いた瞬間、シグルドの中でいくつもの符号が繋がった。
王宮で感じた違和感、それは地下に原因があることに他ならないのだと。
シグルド王子は振り返り、部隊の隊長へと声をかける。
「隊長、南門は任せられるか?」
隊長は一瞬だけ邪竜を見てから、強く頷いた。
「はっ! 命に変えても守りましょう」
「いや、無理はするな、限界になったら内門の中へと下がれ」
シグルドは再びリィネを見上げる。
「リィネ」
「うん、分かってる。一緒に行こう」
邪竜の巨体がわずかに身を低くする。
その背へ手をかけ、シグルドは飛び乗った。
鱗越しに伝わる熱と鼓動。かつて洞窟で感じたものより、もっとはっきりと近い。
翼が大きく広がる。
その瞬間、シグルドの胸の奥で、言葉にならない感覚が微かに震えた。懐かしさにも似た、遠い記憶の欠片のような感触。けれどそれを掴むより先に、リィネは地を蹴っていた。
巨体が空へ舞い上がる。
王都の火を下に見ながら、邪竜は一直線に王宮の方角へ飛んだ。
その背でシグルドは剣を握り直す。
まだ終わっていない。ここからが本番だ。




