第28話 静かな余波
私は綺麗になった離宮の部屋を、椅子に座りながら眺めていた。
離宮襲撃の一件は、表向きには"王子の離宮へと不審者が現れた"という形で内々に処理された。
公国の関与は伏せられれ、暗殺者達の痕跡もシグルド王子の忠臣たる騎士団によって速やかに片付けられた。騒ぎを公にすれば、王国と公国との間の決定的な亀裂が走ることは明らかだったので、現状は秘匿するべきであると判断されたのだろう。
そのせいもあり、外から見れば離宮は静けさを取り戻していた。
だが、あの一件を実際に見た私たちにとっては元通りではない。
割れた花瓶や荒れた部屋は元通りになっており、血の跡も消えている。だけど、この部屋で起きた一見を私は忘れられずにいた。
ふと、洞窟にいた頃を思い出す。
自分一人であれば騎士団たちを蹴散らすことに何の躊躇もなかった。寝覚めが悪いから殺したりはしないけれど、追い払うためなら遠慮なく倒していたと思う。
でも今回は違った。シャリーさんという大切な人がいたことで私は迷ってしまった。フェン様と二人きりで生きてきた私にとって、ここに来てからの人間関係は少し変化したんだなと今更思った。
「悩み事ですか? リィネ様」
ふと、後ろからかかった声に振り向くと、シャリーさんが湯気の立つお茶を運んできていた。ノックをしてくれたようだったが私は気がついていなかったみたいだ。
シャリーさんの首元には白い包帯が巻かれている。あのときに負った傷は浅かったけれど、シャリーさんの細い喉に突き立てられた刃を思い出すと、今でも嫌な気分になる。
「え? あ、シャリーさん」
「何やら考えすぎているお顔ですね」
シャリーさんはそう言って、私の前にティーカップを置いた。
いつも通りの丁寧な仕草だ。少しだけ顔色は悪いけれど、もう動くのに支障はないらしい。本人も「このくらいなら、侍女の仕事はできます」と言っていた。
それでも、無理してるんじゃないかと気になってしまう。
「……だって」
ぽつりとこぼすと、シャリーさんはやわらかく首を傾げた。
「私のせいで、シャリーさん怪我したし」
言ってしまうと、改めてその重さが胸に落ちてきた。
あのとき、私がいなければと思ったこともある。でも、たぶんそう単純な話じゃない。それは分かってる。だけど、自分が狙われたせいで誰かが傷ついたのだと思うと、簡単には切り離せなかった。
シャリーさんは少し黙ってから、小さく息をつく。
「それは違います」
「でも――」
「いえ、違います」
思ったより、はっきりした声だった。
「リィネ様が狙われたから、私が巻き込まれた。そこだけを見れば、そう思いたくなるお気持ちは分かります――」
「ですが、あの場でリィネ様は逃げませんでした。私を見捨てようともしなかった。むしろ、どうにか助けようと最後まで動いてくださったでしょう?」
「それは……そうだけど」
「なら、それで十分です」
そう言って、シャリーさんは少しだけ笑った。
「私は侍女です。お仕えする方を守ろうとするのは当然のこと。ですから、そんなに申し訳なさそうなお顔をなさらないでください」
やわらかい言葉なのに、なぜか胸の奥へ真っ直ぐ入ってくる。シャリーさんの優しい言葉と笑顔に私は目を伏せた。
「……でも、やっぱりやだよ。シャリーさんが傷つくの」
それが一番正直な気持ちだった。シャリーさんは一瞬だけ目を丸くして、
それから困ったように、でもうれしそうに笑った。
「ありがとうございます」
「そこ、お礼言うとこなの?」
「はい。とても」
ニコニコと笑顔を振りまきながらこちらに返すシャリーさん。そういうふうに返されると、これ以上うまく落ち込んでいられなくなる。
私はむうっと頬をふくらませながらカップへ手を伸ばした。温かいお茶の香りがふわりと立ちのぼる。
「それに、私はシグルド殿下付きの侍女です。色んな危険な目にもあってきた歴戦の侍女ですから――」
シャリーさんは場を和ませようとしてくれたのか、いつもより仰々しい話し方で続けていたがそれは廊下から聞こえた声にかき消された。
「――私の侍女はそんな危険なのか、シャリー」
聞き慣れた声に振り向くと、シグルド王子が立っていた。シャリーさんはうふっ、と笑ってごまかしたかと思えば王子の分の紅茶も入れ始める。
シグルド王子に視線を向けると、いつもより少しだけ疲れて見えた。襲撃のあとで王城と離宮の両方を行き来し、色々な処理に追われていたのだろう。けれど、その顔色が悪い理由はそれだけじゃない気がした。
「シグルド王子」
私が名前を呼ぶと、王子は一度だけ静かに頷いた。
「……シャリー、具合はどうだ?」
「傷は浅うございましたので。心配には及びません」
「わかった、だが無理はするな」
「ありがとうございます」
短いやり取りのあと、王子の視線が私へ向く。その目に、言いたいことがいくつもあるのに整理しきれていないみたいな色が浮かんでいた。
「リィネ、少しいいだろうか」
「うん」
私が答えると、シャリーさんはそっと立ち上がった。
「では、私は少し席を外しますね」
「え? シャリーさん」
「大丈夫ですよ。ちゃんと近くにおりますから」
そう言って、彼女は気を利かせるように部屋を出ていった。扉が閉まり、急に部屋の中が広くなったような気がした。
シグルド王子はしばらく立ったままで、それからゆっくりと私の向かいに腰を下ろす。シャリーさんが入れてくれたお茶を一口味わうとまた少し難しい顔をして黙り込んでいる。
私もカップを持ったまま、何から話せばいいのか分からず黙ってしまった。
先に口を開いたのは王子のほうだった。
「……あのとき、ユリアン王子がいなければ間に合わなかった」
私は思わず顔を上げる。王子は視線を落としたまま続けた。
「――王都の騒ぎは、ただの不審者報告ではなかった。外縁の森では実際に衝突があり、別の地点でも攪乱が起きていた。私も実際に出る必要があった」
「だが、今思えば明らかだ。あれは私たちを王都側へ引きつけるための陽動だった」
その言葉には、押し殺した悔しさが滲んでいた。
私はカップを両手で包み込む。あのときの王子の顔が浮かぶ。離宮を飛び出していく後ろ姿。王都を守るために向かったのは間違いじゃなかったはずだ。けれど、それが結果的に離宮を空けることになった。
「でも、王子は行かなきゃいけなかったんでしょ。必要なことだったよ」
そう言うと、シグルド王子はわずかに目を細めた。
「それでも、結果として離宮を――君を危険に晒した」
「それは……」
なんだかうまく言葉が思いつかなくて、私は言葉を探す。彼を責めたいわけじゃない。むしろ逆で、王子が全部自分のせいみたいに言うのが嫌だった。実際に王都側にも助けは必要だっただろうし、そのあとにシグルド王子は私のところに駆けつけてくれたのも事実だ。
「王子だけのせいじゃないよ」
やっと絞り出した言葉は、思ったよりずっと弱かった。
「お前は優しいな」
「違うし」
「違わない」
あっさり返されて、私は少しだけむっとする。
「王子だって、すぐそうやって全部背負うのよくないと思う」
「王都のほうで騒ぎが起きたら、行かないわけにいかないじゃん。私だって、それくらい分かるよ」
そこまで言葉を続けたあとに、自分でも少し驚いた。こんなことをシグルド王子にお説教するみたいに言うのはなんだか違う気もしたけど、でも思った言葉は止まらなかった。
「それに、私だってもっと上手く動けたかもしれないし」
本音を言えばまだ少し怖い。それは私が狙われたことじゃなく、私のまわりの人が狙われて何もできないかもしれないと思ったことだった。シャリーさんを守りきれなかったことも、自分の力をどこまで使うべきか迷ったことも、今までになかったことなので私の不安を掻き立てた。
王子は静かに私を見る。
「だが、あの状況でお前は最善を尽くした」
その声に、私は顔を上げる。
「シャリーを庇い、ユリアン王子との衝突も止めた。最善の一手だったように思う」
「でも……」
シグルド王子はそこで少しだけ息をついた。
「お前がひとりで抱え込む必要はない」
その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。
「それは……王子だって」
「あぁ、私もだな」
シグルド王子はわずかに苦笑した。
「たしかに、そうかもしれない」
そんなふうにあっさり認められるとは思っていなかったから、拍子抜けする。
でも同時に、その顔を見て少しだけほっとした。王子も、自分が全部正しいと思っているわけじゃないのだ。なんだか彼の気持ちに寄り添えたような気がして少し嬉しかった。
「次に何かあれば、ひとりで抱え込む前に言ってくれ」
シグルド王子から出たのは静かな言葉だった。命令じゃない。お願いとも少し違う。けれど、王子なりの誠実さがそのまま出た声だった。
私はしばらく黙って、それから小さく頷く。
「……王子もね」
「私も、か」
「そう。王子も」
私が念を押すように言うと、シグルド王子は困ったように少し考え込んだが、やがてほんの少しだけ口元を緩めて微笑みながら答える。
「ああ。覚えておこう」
またこれだ、優しい顔で私の心を撫ぜるような態度はなんだかくすぐったい。その答え方がなんだかずるくて、私はつい視線を逸らす。
視線を逸らした先の窓の外では、夕方の光が庭をやわらかく染め始めていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。でも、その沈黙はさっきまでみたいに苦しくはない。シグルド王子は少し疲れた抜けたように穏やかな顔を見せながら紅茶を飲んでいる。
一つの騒動が片付いたように思えたけど、よく考えたら離宮はまだ完全に元通りじゃない。
私たちの状況だって、何ひとつ片づいていない。公国のことも、洞窟のことも、ユリアン王子のことも。
だんだんと怪しい動きが増え始めた今、次に何かが起きるのもすぐな気がしてくる。
そんな時だった。窓の外に庭に見覚えのある姿があった。
聞き慣れた声が離宮の外から響いてくる。
「おーい! のんびりしとる場合やあらへんで!」
私は目を見開いた。
「フェン様!」
ほとんど駆け出すようにして窓辺へ寄る。
庭先には、白銀の毛並みを夕陽に染めた大きなフェンリルの姿があった。
でも、いつもと違う。
声色は変わらないのに、目が笑っていない。むしろ焦りと険しさがそのまま滲んでいる。
シグルド王子もすぐに駆け寄ってくる。
「フェン様? やっと帰って――」
私が帰りを祝おうと声をかけようとしたところ、フェン様の様子がいつもと違うことに気がついた。フェン様はひとつ息を吐いてから、いつになく真面目な顔でこちらを見上げた。
「リィネ、思っとったより、ずっとヤバいことになっとるみたいや」
その一言で、さっきまで少しだけ和らいでいた空気が、再び張り詰める。
「ウチんとこの国も狙われとった。公国はだいぶきな臭いで」
私とシグルド王子は顔を見合わせた。
やっぱり、まだ終わっていなかったのだ。




