第一七章 「さ、さくらさんっ!?」
翔子と『震電』が試験隊の駐機所まで戻ってくると、さくらと時任義次隊長、本庄・西両准尉に上村伍長らが出迎えてくれた。特にさくらは満面の笑みを浮かべて。ただしその背後にはドス黒いオーラのようなものが翔子には見える気がした。ので翔子は「降りなきゃもっと怖い事になりそうだけど、今はちょっと降りたくないかなぁ~」などと思ってしまい、引きつり気味の笑顔を返すのがやっとだった。
相変わらず手際良く脚立を用意し、次のテストに備えて整備を開始しようとする上村伍長達整備員。そうなったら降りるしかないので、翔子は『震電』に一声かけてからノソノソと脚立を降りていく。すると降りきる直前にさくらが駆け寄ってきて、地面に足が着いた瞬間、後ろから思いっきり翔子に抱きついた。そして普段のさくらからは考えられないような声音とセリフを翔子の耳元で囁いた。ただし少し離れた皆にも聞こえるくらいの声で。ので厳密には「囁き」とは言えないだろう。
「へっへっへ~。今の私に背中を見せる方が悪いっ!」
「ひゃうんっ!」
いきなり抱きつかれ翔子は驚き、過剰すぎる反応を見せる。全身が硬直し、冷や汗脂汗の類が一気に噴き出し、鼓動は速く他人にも聞こえるんじゃないかと思えるくらい大きなものになっていた。一方のさくらの抱きつき方と言えば、ある種のいやらしさを感じさせる程まとわりつく感じだったので、その光景を目の当たりにした者達に何とも言えない感情をもたらしたのだった。
「あのっ……さくらさん?」
「なぁに?」
この状況を打破すべく翔子は思い切って自分の方から声をかけてみた。それに答えたさくらの表情はやはりいつもの彼女を知るものには信じられない程蠱惑的で、同性に向けたものとは思えない、もし男性が見たら黙ってられないレベルのものだったが、位置的にそれを見る事が出来たのは右目の端でちらりと見えてしまった翔子だけだった。
「ちゃんとお話しするなら正面から向き合って、相手の目を見ながらの方がいいのではないでしょうか。この状態ではそれも叶いませんからまずは離れていただいて…」
「だぁめ。そんな事言って逃げるつもりなんでしょお。このままだってお話くらい出来るよぉ。ちゃあんとお説教が済むまで放してあげないんだからぁ…」
翔子の言葉を遮ったさくらは更に体を密着させるように手を動かし抱きしめる力を強めた。筋力だけなら翔子の方が上なのだが上手く力が入らず、抜け出す事もままならない。というか逃げ出す動きすら出来ない程、翔子は身がすくんでいたのだった。
がここでようやく事態は動く。流石にこれは目の毒だと隊長が引きはがそうと動き出した瞬間、翔子の体がやっと動いた。だけどそれは逃げだそうとか抵抗しようとかいうものではなかった。深々と、それこそ直角に近いくらい腰から曲げて頭を下げたのだ。あたかも正面にさくらがいるかのように。その勢いで肩の方に回していたさくらの左手ははがされ、腰に回していた右腕(と脚部等の下半身)のみが翔子とくっついているだけとなった。その突然の行動にさくらだけでなく、周りで見ていた者達も動きを止める。そして翔子は日頃の謝意を心の底から叫んだ。
「さくらっ! ホントホントゴメンっ! いっつも心配ばっかりかけてるから、たまには本気で怒りたくなるよね? だから私も本気で謝る。いつも心配させるような事ばかりしてごめんなさい。もうやらない、とは言えないけれど、今日までの分は全力で謝るから、今回はこれくらいで許してぇ!」
翔子、魂の叫びだった。怒られる事自体や今みたいにまとわりつかれてネチネチ言われるのが嫌だから、口先だけで謝った訳ではない。心から心配してくれる親友に対し自分は誠実でなかったと思い返し、心底反省したからこそ出てきた言葉であった。それが伝わったからこそ周囲にいた者達は完全に動きを止め黙りこくってしまう。
もちろん広大な軍の基地だから、この周辺一帯以外の所からは様々な喧噪が流れ込んでくる。何も知らない隊員達の会話や整備工場での機械音、そして飛行場ならではのエンジンが奏でる爆音。本来ならそれらが相まって静かになるなんて事はないはずなのだが、この空間だけは一時の沈黙が支配した。吹いているはずの風さえもそよがない程に。
その沈黙を破ったのはこの状況を作り出した根源とも言えるさくらだった。
何かを堪えるように小刻みに体が震えだしたかと思うと、瞬く間にそれを我慢しきれずに決壊し、プーッと大きく吹き出して、とても上品とは言えない声をあげて哄笑したのだった。
「プッ、ハッ、アハハハヒャハハ……」
「さくらっ!?」
親友の突然の変化に人一倍驚いて、恐る恐る後ろを振り向く翔子。すると腹を抱えて顔をクシャクシャにし、もだえ苦しむように1人爆笑しているさくらの姿が。その少し離れた所には、やはり驚きが隠しきれない皆が立ち尽くしている。隊長などは一歩踏み出した格好で固まっていた。それくらいさくらの豹変っぷりは先程までの状態も含めインパクト大だったのである。
自分は誠心誠意謝ったつもりだった。しかしそれがかえってさくらの逆鱗に触れ、壊れてしまったのかと本気で心配になる翔子。だとしたらこれ以上自分は何をしたらいいんだろう、それ以上何かできる事があるのだろうかと不安と混乱で一杯一杯になってくる。するとひとしきり笑って気が晴れたのか、さくらの笑い声は次第に小さくなり、消費しきった酸素を補給するように息を整えだした。
「はーっ、はーっ、ふぅ……うん…ゴメンね翔子、意地悪して。本気で怖がっている翔子の姿を見てたら余計にイタズラ心に火が付いてエスカレートしちゃった。でもたまにはああやって脅かす、というかお仕置きしておかないと危ない事に歯止めがかからないから、ちょっと本気で意地悪してみたの。驚いたでしょ?」
笑いすぎたために滲んだ涙を拭いながら、さくらは強烈なお出迎えをした理由をあっけらかんと話した。表情もいつもの優しくてくったくない笑顔に戻っている。ただし笑いすぎたために開ききってしまった毛細血管がまだ収縮していないのと、先程までの行為が恥ずかしく思えてきたのか、顔にはまだ赤みが残っていたが。
翔子に釘を刺す、そのためだけにあれだけの事、つまり見ている者に恥ずかしい以上のものを想起させてしまうような事までやったさくらに対し、一同唖然呆然愕然としている。特に男衆は心の中で「女って怒らせると怖いな」と心の奥底に刷り込まれるくらいに。本庄・西両准尉もさくらに対する見方が少し変わってしまったようだ。
そして最大の被害者である翔子は──さくらがそれ以上ヘンな事をしてこない、及び怒りのあまりに気が触れてしまった訳ではない事を理解すると、ホッとして全身から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
「さくら…もう怒ってないの?」
か細い声で尋ねる涙目の翔子。余程さくらの暴走が怖かったのだろう。もう大丈夫だろうと分かっていても確認せずにはいられなかったのだ。がその問いに対するさくらの返答は思いがけない言葉から始まった。
「怒ってない訳ないわよー。私がどれだけ心配したって翔子は危ない事をし続けるだろうから。でもさっきので今日までの分は全部チャラ。そういう意味ではもう怒ってないと言えるかも」
出だしこそ真剣、少し怒りを含んださくらの表情だったが、最後の言葉は満面の笑みで言い切った。これからの事を先回りして怒っていても疲れるだけだし、何より親友に対し負の感情を抱き続けていたくないのだ。だから怒りの炎は心の奥底へとしまい込み、それ以外の全身は翔子に対する信頼と親愛で満ち溢れさせる。でも釘を刺しておく事は忘れない。それくらい信頼していても心配は心配なのである。
「だからといって無茶を認めた訳じゃないからね。今後今日みたいな危なすぎる事をやったり、それよりは小さな事でも積み重なったら遠慮なく諫め、折檻するから。でもあの方法、予想以上の効果があったみたいだから、これからはあの方法でいくからね~」
そう言い放ったさくらは男のように手をいやらしくワキワキとさせ、目元口元に黒さくらを宿らせる。その言葉と表情に翔子は再び怯えてペコペコ頭を下げながら「勘弁して」を連発した。
そのあまりにいたたまれない姿に隊長がもう充分と2人の脇までやって来て、それぞれの肩にちょっと力を込めて手を乗せる。その行為と手の温もりに2人は皆のいる世界に引き戻された。もっとも翔子はビクつきもしたけど。
「もうそろそろいいだろ。沢渡もそう何度もいじめてやるな。元気と飛行機に乗る事だけが取り柄の立花が、すっかり小さくなっているじゃないか。まあ分かってやっている事だろうから叱責まではせんが……それよりさっさと昼飯を食ってこいや。午後は沢渡も『震電』に乗ってみるんだろ?」
「はいっ、分かりました。速やかに昼食を済ませ、午後の試験飛行に備えます。それじゃ翔子、ご飯食べに行こ?」
隊長の言葉に背筋を伸ばし返答するさくら。もうふざけている様子はない。上官の指示を全うするために仕事モードにすっかり切り替わったようだ。だが翔子はまだ半分くらい怯えを引きずっている。さくらに対し少し下手に心配事を尋ねたのだ。
「でもさくら。みんな一緒に行かなくていいの? お昼はみんなで食べるって言ってたでしょ」
そう、翔子は先程機上で関係者全員の昼食を奢るようさくらに言われているのだ。もちろんさくらは冗談のつもりだったが、翔子はすっかりそうしないといけないと思い込んでいるらしい。どうやら財布の事でも怯えていたようだ。さくらがそれを否定しようとしたら、他の者が先に断りの言葉を放ってくる。
「私達の事はお構いなく。まだ新しい主任や『震電』が到着してませんから、それを待っていなければなりませんので」
「お食事は別の機会に誘ってください」と本庄・西両准尉。
「俺らも行っていいんですかぁ」と上村伍長。先程の通信は聞こえてなかったはずだが、その場の空気で自分達も数に含まれていると察したようだ。だが
「でも『震電』の整備がありますんで。沢渡大尉が午後イチで乗るんですよね。そのためにバッチリ整備しておきますから。ここで交代で食えるよう弁当持ってきてますんで」
と言うと数人がかりで『震電』の整備を始めてしまった。
「俺ぁ年下で階級も下の奴から奢ってもらう程落ちぶれてねーぞ」と田坂中佐with大井少尉。2人は残り燃料の関係で翔子より後に降りてきたのだが、いつの間にか皆の中に加わっていたらしい。だがそれだけ言うと詰所の中へ入ってしまった。早く撮影したフィルムを現像して報告するために。
『試製連山』の百武元大尉からも既にお断りの通信を受けてしまっていた。
「本来は汽車で帰る予定だったが、時任少将が特別に輸送機を出してくれると言うから、ゆっくりもしていられない」と。そのため今丁度皆の近くまでやって来て通り過ぎる際に「また会えるといいな」と言いながら、こちらも詰め所に入ってしまう。
そして食事を勧めた隊長も「本庄達が残るのに俺が席を外しちゃ悪いだろ。て言うか隊長としての立場がない。だからお前らだけで行ってこい。昼からの試験飛行に備えてな。特に沢渡は初めて『震電』に乗るんだろ? ならば多すぎず少なすぎず適切な量を補給してくるんだ」と仕事を優先するらしい。
ならば自分達も食事に行かず報告等に時間を使った方が、と言いかけたが「時にはメシを食うのも仕事の内だ。遠慮なくさっさと食堂に行ってこい」と隊長に先手を打たれてしまう。そこまで言われてしまうと何の反論も出来ない翔子達。なので大人しく好意に甘えて食堂に向かう事にした。
この日の昼食は前日と打って変わって「和定食B」に小鉢を3つ付けたものだった。ちなみに「和定食B」とはご飯に味噌汁、さんが焼き、里芋の煮っ転がし、青菜のお浸し、漬物というシンプルなもので、そこに肉じゃがと筑前煮、豚角煮の小鉢が加わる。小鉢はそれなりの量があったため取り分けて2人で食べる。
「ここは目新しい洋風の物も美味しいけど、根菜類の煮物も絶品なのよねー」というさくらのオススメにより決定した。
さくらが言う通り煮物類は美味しかった。昨日のナポリタンのような鮮烈さはなかったが、田舎のおばあちゃん家で出されるようなホッとする味を翔子に与えた。しっかり味が染み込んだそれらは少し濃いめではあるが軍隊でのハードワーク後には丁度良いし、甘じょっぱい味付けなので何より白いご飯が進むのだ。
また「なめろう」を焼いた魚のハンバーグであるさんが焼きも、一緒に練り込む味噌や生姜などで魚臭さを消しており、そのしょっぱさや辛みによって、これまた白飯を欲しいと思わせる。
流石にお代わりはやめておいたが、昨日の翔子の食べっぷりを見て気持ち増量されていたので、充分腹は満たされたから。
その食事中2人は軽い会話をしたが、その間翔子は嬉しそうな表情を浮かべていた。それだけ食事が美味しかったからだ。
そのあまりに美味しそうに食べる姿に、さくらは予定していた翔子への小言を取りやめる。あんな表情で自分の薦めた料理を頬張っている姿を見れば、わざわざその味を台無しにする事はないと思って。おかげで翔子は再来するはずだった危機を無意識に回避する事ができたのだ。
食事が済むと2人はゆっくりまったりと食事の余韻を楽しむような事はせず、ちゃっちゃと試験隊詰所へと戻る。自分達だけ先に食事を済ませてしまった後ろめたさと、午後イチで初めて『震電』に乗るさくらのために、実機を用いて軽くレクチャーができればと思っていたからだ。ただ食堂を出る前に翔子は酒保で「ドリコノ」の中ビン(4合=720ml)を購入した。もちろん自分で飲むためではない。『震電』の整備をしてくれている上村伍長達への差し入れである。整備をしてくれていたのは4人だったから、1人あたり軽くコップ1杯の適量が行き渡るだろうと計算して。
ちなみに「ドリコノ」とは軍がライセンス料を払って独自に製造している「どりこの」である。大量生産されている分、本家に比べると廉価ではあるが味は落ちると言われていた。それでも美味しく滋養効果もあり、本家に手が出ない下級兵士達が給料日等に奮発して飲んでいるのは、ここ成田基地でもよく見られる光景である。まあたいていの者は半合(約90ml)をチビチビやるのが関の山だったが。なので翔子は彼らを労うべく「ドリコノ」を購入した。手持ちの現金からすれば決して安い買い物ではなかったが、10人以上に昼食を奢る事を考えればはるかに安いものである。また「ドリコノ」の中ビンには4合と5合ビンの2種類があり、迷った挙げ句4合ビンを選択した。別にケチった訳ではない。人数で割り切れた方が良いだろうと悩みに悩んだ結果なのである。その間にさくらも何かを購入したようだ。ただ悩んでいる最中の翔子には何を買っていたのかは分からなかったが。
それらを手に食堂から出ようとしたら、入口でなじみのパイロットとすれ違う。その時「もう新任の審査主任と2機目の『震電』はとっくに来てるぞ」とさらっと言われてしまった。時間的には2人が食事を始めた頃であるとの事。つまりそれだけ時間が経過していたという事だ。
それを聞いた翔子はいきなり駆けだし、連絡通路の階段を下っていく。
「さくら急ごっ! 新しい『震電』にも早く挨拶しなくっちゃ」
「ちょっと待って翔子っ。それに『震電』だけじゃなく、新任の主任にもでしょー」
さくらも慌てて翔子を追いかけた。が食べたばかりだし重い袋を抱えていたので、2人の距離は離れる一方である。のでさくらが待ってくれるよう声をかけたが、翔子の耳には届いてなかったようだ。親友の事が後回しにされるくらい「2機目の『震電』」という言葉は、翔子の心に突き刺さってしまったようである。
次話へ続く──
この章が少し短めなのと、前半部が白いお花テイストになってしまった事をまずはお詫びいたします。
この章はPart1から6まで合計すると大変大きな第一六章と今後の展開(第一八章以降)を結ぶプロムナード的なものと考え、軽く、ちょっとふざけ気味に書いてみました。
各章ごとに文体がマチマチなのは単純に自分の能力が不足しているのと、それでも自分なりに様々な文体にチャレンジしているためです。
読者の皆様においては「一貫性がない」とお思いでしょうが、一人の作家(という程のものではないですけど)が自分のスタイルを見つけるためにもだえ苦しんでいるのだ、と思い、寛い気持ちでお付き合いいただけたら幸いです。
追記──
第一八章Part1との整合性(主に時間軸)をとるために一部を修正しました。




