4話 冤罪 ③
フェリシアは眠れぬ夜を静かに過ごしていた。古いストールを薄い肩に羽織り、ひんやりとした夜風が吹き抜けるベランダへと向かう。
「お母様……」
この古びたストールは、亡き母の数少ない形見だった。
王都にある公爵家の本邸にあった母の持ち物は、すべて捨てられていた。
高価な調度品はもちろん、代々公爵家の正妻に受け継がれてきた指輪や宝石の数々も、セリアナが「わたしが公爵家の正妻なのだから」とすべて我が物顔で奪い去ったのだ。
……フェリシアが母の死を知らされたのは、十六歳の時。
貴族学院で久しぶりに再会した従兄のジェラルドからの、あまりにも冷ややかな視線に耐えかねて、「お兄様、どうなさったのですか? お母様はお元気に過ごされていますか?」と尋ねた時のことだ。
「は? 何を言っているんだ、フェリシア。君の母上であるフィーア伯母様は、五年前にもう亡くなっているだろう?」
「……っ」
一瞬で血の気が引き、フェリシアの顔は真っ青に染まった。指先からガタガタと震えが止まらない。
(お兄様は何をおっしゃっているの……? 何かの間違いだわ。お母様は領地で元気に暮らしていらっしゃるはずよ)
だって、今でも定期的に届いているのだから。
『元気にしているわ。あなたも元気でいてね』『早く会いたいわ』と書かれた、あのお母様からの手紙が。
ほんのわずかな短文。
いつも大きな変化のない言葉。
『会いたい』と書かれていても、『帰ってくる』とも『会いに来て』とも書いてはもらえない手紙。
ほんの少しだけ寂しいと思ってしまうこともあった。
ほんの少しだけ、もう自分は愛されていないのかもしれないと疑ってしまうこともあった。
けれど——誰よりも優秀で、恥ずかしくない完璧な令嬢になれば、いつかお母様のもとへ会いに行ける。そう信じて、どんな酷い罰や鞭打ちにも耐えて努力してきたのだ。
それなのに……目の前に立つジェラルドは「死んだ」と言う。
「嘘よ……! お母様は死んでなんていません! だって、だってお手紙をくださるもの……っ!!」
どんなに感情を殺すよう厳しく教育されてきたか。
それでも、この時ばかりは溢れ出る感情を抑えつけることなど到底できなかった。
誰も、そんな残酷な真実を教えてはくれなかったのだから。
「フェリシア……君、本当に知らなかったのか……?」
普段は完璧で冷酷な公爵令嬢として振る舞っていたフェリシアが、子供のようにボロボロと涙を溢れさせて立ち尽くす姿に、ジェラルドは呆然とし、激しく動揺した。
冷遇に腹を立てて墓参りすら来ない薄情な妹だとばかり思っていたのに、何も知らされていなかったのだと悟った瞬間、罪悪感が彼を襲う。
「伯母様の墓は……領地の町を見渡せる丘の上にある。君が一度も墓参りに来なかったのは、知らなかったからなのか……?」
「……っ、あ……あああ……っ!」
声にならない悲鳴を上げて泣き崩れるフェリシアに、ジェラルドはかける言葉を失い、ただ狼狽えることしかできなかった。
——手紙は偽物だった。父や後妻たちが、フェリシアを都合よく扱い、大人しくさせておくための薄汚い気休めだったのだ。
ショックで頭がどうにかなりそうになりながらも、フェリシアは真実を確かめるため、震える足で父であるスタートレッド公爵のもとへ向かった。
幼い頃から恐れていた父の執務室の扉を叩き、勇気を振り絞って問いただす。
「お父様……お母様は、フィーアお母様は本当にお亡くなりになられたのですか……!?」
書類から目を離し、冷淡な眼差しをフェリシアに向けた父は、眉ひとつ動かさずにふんと鼻で笑った。
「なんだ、今さら知ったのか。わざわざ隠すほどのこともない……あれは身勝手に勝手に死んだのだ」
「勝手に……ですって……?」
「そうだ。勝手に絶望して井戸に身を投げた愚か者だ。お前がそんな下らないことを聞きに来るために、私の貴重な時間を奪うな。不愉快だ、消えろ」
愛した母の死を「勝手に死んだ愚か者」と冷たく吐き捨てた実の父。
ストールを強く抱きしめながら、フェリシアは夜空の月に目を向けた。
(あの時、わたくしの心は死んだのね……)
家族も、温もりも、愛も——初めからこの世界のどこにも存在していなかったのだと、知ってしまった夜だった。
そして今、初恋の人であったはずの夫からの激しい冷遇と、身に覚えのない毒殺未遂の容疑。
このままでは、大した証拠もないまま罪人に仕立て上げられ、地下牢へ繋がれることだろう。
……けれど、それでもいいのかもしれない。
彼が愛しているのはアンジェリカで、わたくしはただの邪魔者。
最初から愛されてなどいなかったわたくしは、このまま静かに消え去る方がずっといい。
逃げる場所も、生きていく意味さえも見失ったフェリシアは、ただ静かに運命を受け入れようとしていた……そっと瞳を閉じ、冷たい夜風に身を委ねた。




