2話 冤罪 ①
「アンジェリカが毒を盛られただと!?」
王は真っ青な顔で側妃の宮へと向かった。
その途中、フェリシアの執務室の前を通りかかる。
急いでいるはずだというのに、王はふと足を止めてしまった。
重厚な扉を開けると、そこには机の上に山積みにされた書類だけが残されており、人の気配は一切ない。
いつもなら、ここでフェリシアが黙々と、完璧に仕事をこなしていたはずなのに。
不気味なほどの静けさに顔を顰め、苛立ちを隠せない王は「おい!」と声を荒らげようとした。
「陛下、どうなさいましたか? アンジェリカ妃がお待ちです! 急ぎましょう!」
後ろから追いついた筆頭侍従のマーカスが、慌てた様子で王を促す。
「あ、ああ……分かった」
我に返った王は、チラリと誰もいない執務室へ視線を向けたが、すぐにアンジェリカのもとへ向けて駆け出した。
アンジェリカの寝所に着くと、彼女はベッドの上で横たわっていた。最初は軽い目眩だと言っていたそうだが、今では焦点の合わない虚ろな目をして苦しそうに息を吐いている。
主治医から現状の報告を受けた王は、鋭い眼差しでアンジェリカの側に仕える者たちを睨みつけた。
「誰が毒を盛ったのだ!?」
「そ、それが……」
「おそらく……お茶をお飲みになられた後ではないかと……」
「いえ、一緒に召し上がった焼き菓子かもしれませんし……」
侍女たちは互いに顔を見合わせ、何かを隠すように口を濁す。はっきりと言おうとしない態度に、王の苛立ちは頂点に達した。
「はっきりと言え!」
王の一喝に、侍女たちは青ざめて首をすくめた。
「……お召し上がりになった茶葉は、王妃様からの『お祝い』の品でございます」
「フェリシアの……?」
王は深く眉を顰めた。
フェリシアが異母妹のアンジェリカを快く思っていないのは周知の事実だ。特に今は、正妃と側妃の立場を入れ替えようとしているあまりにも微妙な時期。
(まさか……愛するアンジェリカと、俺の血を引く赤ん坊を害するつもりなのか!?)
一瞬にして、王の頭の中はフェリシアに対する激しい怒りと不信感で塗りつぶされた。
——やっぱりあの女は、冷酷で可愛げのない恐ろしい女だ。
自分の地位を奪われることを妬み、出産したばかりの妹と幼子に手を出したに違いない!
「フェリシアを……今すぐあの女をここへ引っ張ってこい!」
王の怒号を受け、兵士たちが慌ただしくフェリシアの離宮へと走る。
王自身も、苦しむアンジェリカの手を握りしめながら「すぐに仇をとってやるからな」と愛おしそうに声をかけた。
しかし——数分後、戻ってきた兵士たちの顔は真っ青だった。
「へ、陛下! 大変です!」
「どうした、フェリシアを連れてきたのか!?」
「それが……王妃様の部屋には、どなたもおられません!」
「何……!?」
✴︎ ✴︎ ✴︎
——まさにその頃。
「お義祖父様……」
フェリシアは、静かに眠るこの国の前国王カリウスの手を優しく握り締め、そっと語りかけていた。
偉大なる前国王と称えられたカリウスは、今や病床に伏し、いつ亡くなるかもわからない状態が続いていた。
実の父からも、夫となった王からも『冷血で可愛げのない女』と冷遇され、誰もがフェリシアに冷たく当たっていた中で——唯一、彼女を温かく包み込んでくれたのが、このお義祖父様だった。
『フェリシア。お前は何も悪くない。生真面目で真っ直ぐなその優しさを、どうか誇りになさい』
孤独に打ちひしがれそうになるたび、優しく頭を撫でてくれた温もり。
この広い王宮の中で、お義祖父様だけがフェリシアの味方であり、唯一の心温まる居場所だったのだ。
だからこそフェリシアは、いくら冷遇されようとも、莫大な公務の合間を縫って毎日欠かさずお見舞いに訪れていた。
誰も見向きもしなくなった前国王の部屋で、心を込めて身の回りの世話をし、届かぬ言葉と知りながらも、今日あった出来事を静かに語りかけ続けていた。
その様子を、カリウスの侍女や側近たちは静かに見守っていた。
世間から『冷血な王妃』と揶揄されるフェリシアの、本当の慈愛と献身を知る数少ない者たち。彼らは皆、フェリシアこそが真の王妃にふさわしい心優しいお方なのだと知っていたのだ。
しかし、病に倒れて権力を失った前国王の側近には、もはや現国王に意見できる力など残されていない。
側妃でしかないアンジェリカを溺愛し、正妃であるフェリシアを不当に冷遇する愚王に苦言を呈することは、自らの死を意味していた。
……フェリシアは何も知らなかった。
お義祖父様のこの病が、ただの病気などではないということも。
そしてこの後、自分が身に覚えのない毒殺未遂の罪を着せられて地下牢へと投獄され、あまりにも悲惨な末路を辿ることになるということも——。
ただただ、愛するお義祖父様の回復を祈り、健気にその小さくなった手を握りしめることしかできなかったのだ。
「……お義祖父様。どうか、明日もまたお顔を見せてくださいね」
寂しげに小さく微笑むと、フェリシアはカリウスの手をそっと布団へと戻した。
そして、誰も待っていないあの冷たく寂しい自室へと足を進める。
幼い頃に追いやられた、公爵家の薄暗い離れ。
そして今、正妃として買い与えられた、贅を尽くした豪華な王宮の部屋。
——どちらに身を置こうとも、孤独なフェリシアにとっては一体何が違うというのだろう。
温もりのない部屋でただひとり、自分を抱きしめて守るように眠るしかない。




