1話 離縁
すまない、フェリシア。君も知っているだろうが、アンジェリカが男の子を産んだ。あの子をこの国の王子として育て立太子にさせるためにも、アンジェリカを側妃から正妃へ上げなければならない。彼女にはこの国の国母として、これから国を支えてもらう必要があるのだ」
フェリシアの瞳が、一瞬だけ傷ついたように揺れた。
けれど、身勝手な言葉を並べる王がそれに気づくことはなかった。
「――承知いたしました。では、すぐに離縁の書類を用意させ、サインをいたしましょう」
王は一瞬、思い通りにいかなかった戸惑いを見せたが、すぐにいつもの不遜な表情に戻り、淡々と話し続けた。
「いや、違うんだフェリシア。君と離縁したいわけではない……君には側妃として、これまで通り俺を支えてほしい。アンジェリカは産後間もなく、正妃としての膨大な公務をこなすことはできない。優秀な君なら、今まで通り滞りなく仕事をこなせるだろう?」
「陛下……わたくしに、正妃から降格して側妃になれとおっしゃるのですか?」
「そうだ。君は俺を愛しているのだろう? ならば俺のために、これからも力になってくれ」
フェリシアはふっと、凍てつくような笑みを浮かべた。
「――愛? 誰が誰を愛しているとおっしゃるのですか?」
「なっ……! お前は……」
王はフェリシアの言葉に、あからさまに怒りを露わにした。
彼はフェリシアが王妃の座に執着し、自分に対しても異常なほど執着していると思い込んでいたのだ。
だからこそ、アンジェリカという愛する側妃がいても、フェリシアはずっと耐えて自分に尽くしているのだと疑わなかった。
「本当にどこまでも可愛げのない女だな! だから誰からも愛されず、慕われもせず、孤立するのだ! アンジェリカを見ろ。愛らしく微笑み、そこにいるだけで周囲を明るく照らす。誰からも愛されるあの子こそ、国母として民に慕われるにふさわしい。そしてあの子なら、我が子を立派な王太子に育て上げてくれるだろう」
王は不快感を隠そうともせず、蔑むような視線でフェリシアを見下す。
「これだから、俺はお前に心を開く気になれなかったのだ。君の父親であるスタートレッド公爵が『娘は生真面目すぎて融通が利かない。愛想もなく誰からも愛されていない。アンジェリカのように素直で可愛らしい子だったらよかったのだが』と嘆いていた理由が、今なら痛いほど分かるよ」
――そう。アンジェリカは、フェリシアの異母妹だ。
フェリシアの実母が病に倒れ、療養のために領地へ引きこもらざるを得なくなったときのこと。
父は妻の不在を好機とばかりに、愛人であるセリアナとその娘アンジェリカを王都の屋敷へと呼び寄せ、我が物顔で暮らし始めたのだ。
卑劣な愛人セリアナは、療養中の母へ『あなたの夫も屋敷も、わたしが幸せにしてあげているわ。あなたはもう必要ないの』などと、辛辣で残酷な手紙を幾度も送りつけた。
その手紙に深く傷つき、心を病んだ母は、ついに自ら命を絶ったのだ。
だが、幼かったフェリシアには母の死すら伏せられていた。
母は領地で静養し、少しずつ元気になっているのだと——もう少し耐えれば、また大好きなお母様に会えるのだと、フェリシアは疑いもせず信じ続けていた。
それなのに、本邸では父が愛人とその娘を愛でる睦まじい姿を見せつけられ、正妻の娘であるフェリシアは別邸へと追いやられ、ただ一人、冷たい孤独の中で過ごすことを強いられた。
世間に対して「公爵家の長女」としての体裁を保つためだけに、フェリシアには苛烈なまでの教育が施された。
——いや、それは教育などという生易しいものではなく、拷問に等しい虐待だった。
ほんのわずかなミスすら許されず、朝から晩まで勉学に明け暮れる日々。
一般的な教養科目をはじめ、完璧なマナー、絵画に音楽、ダンス、高位貴族としての老獪な会話術、さらには数カ国語の語学の習得までもが強要された。
家庭教師からの報告でわずかでも間違いがあれば、週に一度の父との面会時に、ミスと同じ数だけ太ももに鞭を打ち据えられた。
食事を抜かれることなど日常茶飯事。
高熱を出そうと体調を崩そうと、医者に診せられることもなく暗闇の中に放置された。
それでもただひとり、いつか母に会える日を夢見て、必死で耐えて生きてきたのだ。
『おかあさま……あいたいよ……』
月明かりだけが頼りの暗い部屋。窓から夜空を見上げ、届かぬ星に願い続けながら。
同じ敷地にある本邸からは、明々とした灯りと温かな温もり、豪勢なご馳走と楽しげな笑い声が聞こえていたというのに。
——そしてフェリシアは、家族からも、そして夫となったこの男からも『可愛げのない冷血な令嬢』と蔑まれたまま大人になった。
(ああ……本当に、惨めで愚かだわ。何を期待してしまったのかしら)
目の前で朗々と自分を貶める愚王を見つめながら、フェリシアの胸を満たしたのは、悲しみでも怒りでもなく——完璧な冷めきった感情だった。
「……よく理解いたしました。では、わたくしは不要のようですので、王妃の公務もすべて正妃となられるアンジェリカ様にお譲りいたしますわ」
フェリシアは隙のない美しい礼を捧げると、冷ややかな瞳で王をまっすぐ見据えた。
「明日からの莫大な書類処理、どうぞ励んでくださいませ」
「なっ……おい! 待て、フェリシア!」
背後で狼狽する陛下の制止を綺麗に無視し、フェリシアは一度も振り返ることなく自室へと足を向けた。




